77:皇太子の母ユリア
「ヘレナ様はルカ様のお母様をご存知なのですか?」
彼女も前皇太子ーールカの父親の妃であったのだから、しらないはずがない。スーは聞いてしまってから、失礼な質問だったと後悔する。ヘレナは気にした様子もなく手にもったグラスを揺り動かす。氷がふれあう涼やかな音がひびいた。
「もちろん殿下のお母様のことは良くしっております。幼い頃から親しくさせてーーいいえ、娘のように可愛がっていただきました」
ヘレナにとっては叔母にあたるのだ。ルカの従姉妹で幼馴染であれば、幼少の頃からおおくの想い出があるのだろう。
慕っていた女性と同じ男性にとつぐ。もしスーがヘレナと同じ立場なら割りきれるだろうか。
貞操観念が希薄なため性に奔放な帝国貴族でも、複雑な関係である。ヘレナの感情はスーには推しはかることもできない。
「殿下のお母さまーーユリア様はとても愛嬌のある可愛らしいおかたでした」
「可愛らしい女性……、だったのですか?」
スーにはいがいに思えた。かってに気高く美しい女性を想像していたのだ。
「殿下のお父様ーーカリグラ様の最初の妃でいらっしゃったので、ユリア様のほうが年上だったのですが、そんなことを感じさせない女性でした。ですのでカリグラ様もすぐに心をお許しになって、当初はとても仲睦まじかったのですよ。すぐにルカ殿下を授かって……」
当初はという言葉が、スーが小耳にはさんだ元皇太子カリグラとユリアの関係を脳裏に描き出す。ルカの両親の関係は、決して良好ではなかったというのが、スーの知っている噂だった。
「でも、いつからかカリグラ様はユリア様にきつく当たられるようになりました。ルカ殿下にも」
「なにか理由があったのでしょうか?」
ヘレナの紫の瞳は静謐だったが、物悲しい色をうかべている。
「スー様は皇帝であるユリウス陛下をご覧になったとき、なにか感じませんでしたか?」
スーが皇帝を拝謁したのは、婚約披露の儀式の時だけである。残念ながら、極度の緊張と、滞りなく儀式を進めることに頭がいっぱいで、ほとんど覚えていない。
印象にあるのは、後光のさしそうな毅然とした気配だけである。
素直にそう語ると、ヘレナは「まぁ」と笑った。
「ルカ殿下はユリウス陛下の若い頃にとても良く似ておられるのですよ」
ルカはユリウスの孫である。血縁であればそんなこともあるだろう。スーには何も気にかかることはないが、ルカに似ている皇帝陛下の姿には興味がわいた。
ヘレナの声は、ますます憂いを帯びる。
「まとう雰囲気も良く似ておられますが、特にあの独特の青い瞳の色は写しとったように同じです。祖父と孫の関係であれば、なにも不思議ではありませんが、カリグラ様は疑ってしまわれたのですわ」
悲しそうな響きが声に現れている。スーにもヘレナが憂う理由が想像ができた。
「カリグラ様は、ルカ殿下がユリウス陛下の御子ではないのかと」
「そんな……」
「最初にそんなことを言い出したのは、いったい誰だったのでしょうね。帝国貴族の内では、そんな噂がささやかれるようになりました」
「そんなことはあり得ないですよね」
心を通わせて仲睦まじくあったのなら、二人の絆を引き裂くひどい話である。
「カリグラ様はもちろん、皇帝陛下にもユリア様にも失礼な話です」
スーが憤っていると、ヘレナも頷いた。
「もちろんです。ユリア様はずっとカリグラ様を慕っておられました。それは、きっと最期のときまで。だから、ルカ殿下に酷なお願いをされた」
「酷なお願い?」
ヘレナは悲しそうに笑うだけで答えることはなく、続けた。
「ルカ殿下の父親はカリグラ様でしかありえません。ですが、カリグラ様は信じられなくなっておられました。科学的な親子鑑定の結果をもってしても、ユリウス陛下の圧力がそう書かせたのだと。カリグラ様はユリウス陛下のことも憎んでおられたでしょう。陛下から心が離れ、ユリア様とルカ殿下から遠ざかり、第二妃の御子であるレオン殿下を後継に望むようになられて、しだいに側近であったディオクレア大公に信頼をおくようになりました」
「それが、今の派閥に?」
「はい。思えばルカ殿下の出自に根も葉もない噂を流したのも、ユリウス陛下とカリグラ様の関係に亀裂を生むためだったのかもしれません。誰にも、真実はわかりませんけれど……」
ヘレナははっきりとは言わないが、発端にはディアクレア大公が関わっていると考えているのだろう。
ルカが母親を亡くした五年前の内乱。彼が自ら父親を粛清し、その代償としてルカは母親であるユリアをも犠牲にした。スーの知っている事実であり、ルカ本人もそう言っていた。貴族令嬢たちはルカが母親を囮にしたのだと噂していたが、スーは経緯については詳しく知らない。
こちらに来てから、帝国のことは少しずつ学んでいる。
内乱からさらに遡ると「クラウディアの粛清」という、むごい出来事がある。
現皇帝ユリウスは武力ではなく、外交による統治を目指している。理想は形となり、長く安定した治世が続いた。帝国の軍事力は夢物語となっていた。
けれど、悪夢は起きたのだ。
当時帝国元帥であったルカの父親ーーカリグラが、地方の国を一夜にして壊滅させた。
交易にささやかな不利益が生じたことが契機であるが、記録には暴挙と記されている。世界が忘れかけていた圧倒的な武力の誇示。
見せしめのようなものであったのだろう。
皇帝の理想を裏切る行為。当時、皇太子であり、帝国元帥であったルカの父カリグラが破滅へと向かう、大きな一因となったのは間違いない。
同時に、スーは古代王朝であったサイオンが残した力を知った。なぜ帝国クラウディアが辺境の小国であるサイオンに恒久の庇護を約束したのか。
帝国の情報に蓋をしていた頃は不思議だったが、今はもう理解している。
先祖が帝国にもたらした恩恵ははかりしれない。
サイオンの超科学力は圧倒的な武力とともに、帝国の基盤を築く膨大な動力もまかなっている。
帝国が小国の王女でしかないスーを皇太子妃として丁重に迎えることも、すべてが腑に落ちた。スー自身はなにも貢献していないのに、古の遺産が地位と立場を保証しているのだ。




