76:ヘレナが教えてくれること
「ご自覚が薄いようですが、スー様を相手に欲望に火がつかないような殿方はいらっしゃらないと思いますわよ」
ヘレナはあっさりと述べたが、スーは大きく目を見開く。
「本当ですか!? ヘレナ様」
「はい。スー様は類稀なる扇情的な美姫と申し上げてよろしいかと思いますわ」
「でも! ルカ様にはわたしのお色気作戦はまったく通じないのですよ?」
「お色気作戦なんて……」
ヘレナが鈴を転がすような声で笑う。
「スー様は面白いですわね。本当に愛らしいお方。殿下もさぞ愛しくお思いでしょう」
「いえ、殿下には幼稚な女だと呆れられているような気もしますが……」
男女の関係どころか恋愛経験もない。だから、うまく振る舞えない。ルカはいつも予想外の反応をすると言って、笑ってくれる。彼の笑顔が心から楽しそうだったから、スーは気を許してくれるきっかけになっている気がして、これまでは後ろ向きに考えたことがなかった。
(でも、予想外の反応って……)
実はそれこそが問題だったのではないのだろうか。
ただの愉快な王女という、不名誉な地位を築いている可能性がある。
(愉快なだけの女なんて、ダメすぎる!)
頭を抱えたくなっているスーの向かいで、ヘレナは冷えた紅茶のグラスに手を伸ばした。琥珀をうつすガラスの表面が、汗をかいたように水滴をのせている。
優雅な仕草で一口含んでから、ヘレナが聞き返した。
「ですが、殿下はスー様が寝室に出入りすることを、お咎めになったりはなさらないのでしょう?」
「はい。おそらく」
館の者はなんのためらいもなくルカの寝室へ案内してくれる。ルカ自身の許可については深く考えたことがないが、怒られたり叱られたりしたことはない。スーの寝室への出入りは容認されているのだろう。
「それならばまったく悲観なさることはございませんわ。殿下ははっきりした方なので、心を許していない者に寝室への出入りを許すはずがありません」
「ーーヘレナ様、寝室への出入りができるのに何も進展しないというのは、逆に問題があるような気がするのですけど」
「わからないのはそこですわね。実はルキアも訝しがっております」
「ルキア様が?」
執事のテオドールや侍従長のオトが、彼に信頼を置いていることはスーも察していた。自分の邸での行動が筒抜けかと思うと恥ずかしいが、気にかけてもらえるのは嬉しい。
「はい、スー様を娶ることは決定事項なわけですから、殿下が貞潔に振る舞う必要などないのです。だからルキアは、なにかもっと深い理由があるのではないかと勘繰っておりますわ」
「深い理由……、たとえば生理的に受け付けない、とか?」
スーがおそるおそる聞くと、ヘレナは吹きだしてしまったが、スーの生真面目な顔を見て、慰めるようにほほ笑んだ。
「スー様はすっかりご自身の魅力に自信をなくしておいでなのですね。殿下に苦言を申し上げたくなります」
「そんな、わたしが至らないだけです」
「いいえ。わたくしは殿下のこれまでの所業をよく知っておりますので断言できます。スー様に足りないことなどございません。とても積極的ですし、魅力的な女性ですわ」
「ヘレナ様」
彼女の優しさに感激していると、ヘレナは力強く告げる。
「わたくしが思うに、殿下は相当我慢されておられるはずです」
「我慢!?」
「はい。ですから、スー様はそのままお色気作戦を続けるのがよろしいかと思います。せっかくですから、さらに積極的に――」
ヘレナが耳を疑うような大胆な作戦を耳打ちしてくる。スーは聞いているだけで恥ずかしくなってボッと顔が赤くなった。
「スー様はもっと自信をお持ちになってください」
「は、はい」
スーは婚約披露の場で出会った、着飾った令嬢たちのあけすけな助言を思い出す。当時はお喋り好きな令嬢たちの誇張かと思っていたが、ヘレナの耳打ちから察するに、どうやら帝国貴族には普通の価値観だったらしい。
自分が生ぬるかったのだと反省してみるが、実行できるかとなると自信がない。
頬を染めて戸惑うスーを見て、ヘレナは優しくほほ笑んだ。
「わたくしが申し上げたことは聞き流してください。スー様はそのままでも充分、殿下のお気持ちをつかまれておられますので」
「……努力してみます」
「スー様、殿下との絆はもっと違う形でもかたく結ぶことができると思います」
「違う形ですか?」
「はい。殿下をお支えしたいというスー様のお気持ちは、とても素敵ですわ」
ヘレナが花壇に咲き誇る色鮮やかな花に視線をうつす。
「もう少し日中の暑さが緩むと、殿下はすこしお心が弱くなられます。でもスー様がお傍にあれば、すこしまぎれるかもしれません」
スーはヘレナの憂いを含んだ横顔を見つめた。
「ルカ様のお心が弱くなるなんて、どうしてですか?」
「そういう時期がございます」
「暑気の疲れが出るのですか?」
ヘレナがゆっくりと花壇からこちらに目を向ける。綺麗な藤色を宿した瞳に、悲しげな色が沈んでいた。
「いいえ。殿下のお母様が亡くなられた日が巡ってくるからです」
軽やかな声が闇を暴くように響く。スーはきらきらと輝く午後の日差しが、途端に色褪せたような錯覚がした。




