覚悟と誓いの公園から
霧香は公園で目を覚ました。
時刻は夕暮れ。憶人が倒れ、駆け寄ろうとしたあの時から、それほど時間は経っていなかった。
「あれ? 覚えてる……」
記憶を操る力に関することはすべて忘れてしまうのだと、霧香は考えていた。だが、その記憶と、この一週間ほどの記憶は、はっきりと思い出すことができた。
「そうだ、憶人……」
憶人の姿はどこにもなかった。霧香の想定では、憶人は記憶を取り戻し、世界に再び戻ってくるはずだった。
小さな想定外が、不安を一気に増幅した。
「どこ……どこに――――」
あてもなく捜しにゆこうとした、まさにその瞬間だった。
「よう、さっきぶり」
背後から、その声は届いた。
振り返った視線の先に――――憶人は立っていた。
どちらからともなく、言葉を発することもなく、二人はベンチに並んで座った。それぞれに語る言葉を持ちながら、どちらも口を開かない。時間だけが動き続け、夜の気配が濃くなってゆく。
互いが互いを待っていた。どちらも待つことをためらいはしなかった。ただ、その“待ち”に込められている意味はまるで違っていた。
一方は、あらゆる言葉を。一方は、詰る言葉を。
汗がうっすらとにじみ出る気温。夜になっても暑気からはまだ逃れられない季節。
沈黙の均衡を破る理由を、二人はそれぞれに探した。
そして、憶人が先に見つけた。
「俺はあの時、お前が話すのを待ったぞ」
「……あの時って?」
「一日と二日。“あれ”が始まった日と、賭けに勝った日」
憶人の視界の端で影が揺れる。
「いやいや、それは小さい頃のでおあいこでしょ」
「二回でか?」
「あの頃は憶人の話を何回待ってあげたと思ってるの? 数えきれないくらいでしょ?」
「……そうだったな」
「そうだよ」
また揺れる影。今度はゆっくりとひと振り。
「まあ、仕方ないから、私から話をしてあげるよ」
まるで時機を見計らったかのように、電灯が点いた。影が濃さを増す。
「全部見たよ。知ったし、感じた。そのうえで言うけど、憶人が私にしたことは、ただの甘やかしだよ」
刺さる。実体はなくとも、鋭い痛みが走る。
「私って、この一週間、なんのために頑張ってきたんだろ?」
答えを決めたいと思っていない、ただの問い。
「世界があの怖さを忘れさせてくれたらよかったのに。それとも、“記憶は消えない”んだっけ? それでもよかったのになぁ。思い出すのがもっと先なら、消えなくたってさぁ」
怒りがある。語りに込めている。
「ずっとなんでもできるようにって追いかけ続けていたのにさぁ、自分がすっごく弱くて、覚悟の決め方もろくに知らなくて、そんなのとはまるでかけ離れているんだって、そんなこと……知りたくなかった」
憶人を刺し貫きながら、霧香にも刺さりゆく、言葉の槍。
「知りたく……なかったよ」
霧香が自分の制服の胸元をぐっと掴む。手のひらに握りこんだ布地がやんわりと受け止めようとするのを、さらにぐっと握りこんで拒んだ。
「……お前がそんな完璧なやつじゃないって、そんなこと、もっと前から分かってた」
霧香は握りこんでいだ手を解いた。
「そう教えなかったのはどうして?」
そのことを責めようとしているわけではないのだと、言葉は伝えていた。
「いつか……お前ならいつかそうなれるって思ってたんだ。実際、そのとおりだった。本当に強くなって、俺よりも、誰よりも強くなって、それで――――」
「私、強くなれたの?」
「……ああ」
ベンチの背もたれが小さく揺れる。
「そっか。強くなれたんだね」
互いをえぐった傷を残して、槍がすっと消えた。
「私、怒ってるんだよ?」
霧香が憶人のほうを向く。
「ああ」
憶人が霧香のほうを向こうとして、ためらう。
「今まででいちばん怒ってるかもしれない」
「ごめん」
その短さでは、思いを込めきれなかった。
「それじゃ許さないかもしれないくらい、怒ってる」
こぼれてしまった思いをすくい上げて、伝える。そのために、憶人は今度こそ霧香のほうを向いた。
「ごめん」
ようやく“話し合い”になった。
「どう『ごめん』なの?」
「お前を……甘やかした」
伏せてしまいそうになる目。なんとかこらえる。
「……泣かないんだね」
「そんな次元、超えてるんだ」
「そっか」
決して“許す”とは言わないと決めていた。
決して“許す”とは言わないと知っていた。
「だから……ごめん」
霧香が困り顔になる。
「それしか言えないの?」
憶人はしっかりと霧香の目を見据えたまま。
「ああ。これしか言えない」
霧香はからかう顔に変わる。
「違うこと言った」
憶人はとうとう目を閉じた。
「……ごめん」
そして、霧香は告げた。
「もういいよ」
諦めでも、呆れでもない、その言葉を。
次第に優しくなっていた口調で。
「だから、これ以上『ごめん』って言わないで。困っちゃうから」
憶人の頭の上にそっと手が乗る。憶人は思わず目を開き、またゆっくりと閉じた。
「ごめ……分かった」
霧香の手が憶人の髪をくしゃっと軽く乱す。
「もう、危ないなぁ」
乱した髪を手櫛で整えてやりながら、霧香は苦笑いをした。
深くえぐれた刺し傷。互いの心に残されたそれを、ふわりと優しく覆いあった。間違いと裏切りとを分ける思考。それが、こんな時間をもたらしたものだった。
頭から手を離し、そばに置いていたカバンを掴んで、霧香が立ち上がる。
電灯の白色光と、すっかり暮れた空の群青。
「今から、いいって言うまで私の前に出ないでね」
「……なんでだ?」
憶人が立ち上がるのと同時に、霧香は一歩だけ前に進んだ。
そして、半身で振り返り――――
「今日で全部終わらせるからだよ」
失くさなかった覚悟で、憶人にそう言ってのけた。




