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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
今日というあの日
34/39

覚悟と誓いの公園から

 霧香は公園で目を覚ました。

 時刻は夕暮れ。憶人が倒れ、駆け寄ろうとしたあの時から、それほど時間は経っていなかった。

「あれ? 覚えてる……」

 記憶を操る力に関することはすべて忘れてしまうのだと、霧香は考えていた。だが、その記憶と、この一週間ほどの記憶は、はっきりと思い出すことができた。

「そうだ、憶人……」

 憶人の姿はどこにもなかった。霧香の想定では、憶人は記憶を取り戻し、世界に再び戻ってくるはずだった。

 小さな想定外が、不安を一気に増幅した。

「どこ……どこに――――」

 あてもなく捜しにゆこうとした、まさにその瞬間だった。

「よう、さっきぶり」

 背後から、その声は届いた。

 振り返った視線の先に――――憶人は立っていた。




 どちらからともなく、言葉を発することもなく、二人はベンチに並んで座った。それぞれに語る言葉を持ちながら、どちらも口を開かない。時間だけが動き続け、夜の気配が濃くなってゆく。

 互いが互いを待っていた。どちらも待つことをためらいはしなかった。ただ、その“待ち”に込められている意味はまるで違っていた。

 一方は、あらゆる言葉を。一方は、詰る言葉を。

 汗がうっすらとにじみ出る気温。夜になっても暑気からはまだ逃れられない季節。

 沈黙の均衡を破る理由を、二人はそれぞれに探した。

 そして、憶人が先に見つけた。

「俺はあの時、お前が話すのを待ったぞ」

「……あの時って?」

「一日と二日。“あれ”が始まった日と、賭けに勝った日」

 憶人の視界の端で影が揺れる。

「いやいや、それは小さい頃のでおあいこでしょ」

「二回でか?」

「あの頃は憶人の話を何回待ってあげたと思ってるの? 数えきれないくらいでしょ?」

「……そうだったな」

「そうだよ」

 また揺れる影。今度はゆっくりとひと振り。

「まあ、仕方ないから、私から話をしてあげるよ」

 まるで時機を見計らったかのように、電灯が点いた。影が濃さを増す。

「全部見たよ。知ったし、感じた。そのうえで言うけど、憶人が私にしたことは、ただの甘やかしだよ」

 刺さる。実体はなくとも、鋭い痛みが走る。

「私って、この一週間、なんのために頑張ってきたんだろ?」

 答えを決めたいと思っていない、ただの問い。

「世界があの怖さを忘れさせてくれたらよかったのに。それとも、“記憶は消えない”んだっけ? それでもよかったのになぁ。思い出すのがもっと先なら、消えなくたってさぁ」

 怒りがある。語りに込めている。

「ずっとなんでもできるようにって追いかけ続けていたのにさぁ、自分がすっごく弱くて、覚悟の決め方もろくに知らなくて、そんなのとはまるでかけ離れているんだって、そんなこと……知りたくなかった」

 憶人を刺し貫きながら、霧香にも刺さりゆく、言葉の槍。

「知りたく……なかったよ」

 霧香が自分の制服の胸元をぐっと掴む。手のひらに握りこんだ布地がやんわりと受け止めようとするのを、さらにぐっと握りこんで拒んだ。

「……お前がそんな完璧なやつじゃないって、そんなこと、もっと前から分かってた」

 霧香は握りこんでいだ手を解いた。

「そう教えなかったのはどうして?」

 そのことを責めようとしているわけではないのだと、言葉は伝えていた。

「いつか……お前ならいつかそうなれるって思ってたんだ。実際、そのとおりだった。本当に強くなって、俺よりも、誰よりも強くなって、それで――――」

「私、強くなれたの?」

「……ああ」

 ベンチの背もたれが小さく揺れる。

「そっか。強くなれたんだね」

 互いをえぐった傷を残して、槍がすっと消えた。

「私、怒ってるんだよ?」

 霧香が憶人のほうを向く。

「ああ」

 憶人が霧香のほうを向こうとして、ためらう。

「今まででいちばん怒ってるかもしれない」

「ごめん」

 その短さでは、思いを込めきれなかった。

「それじゃ許さないかもしれないくらい、怒ってる」

 こぼれてしまった思いをすくい上げて、伝える。そのために、憶人は今度こそ霧香のほうを向いた。

「ごめん」

 ようやく“話し合い”になった。

「どう『ごめん』なの?」

「お前を……甘やかした」

 伏せてしまいそうになる目。なんとかこらえる。

「……泣かないんだね」

「そんな次元、超えてるんだ」

「そっか」

 決して“許す”とは言わないと決めていた。

 決して“許す”とは言わないと知っていた。

「だから……ごめん」

 霧香が困り顔になる。

「それしか言えないの?」

 憶人はしっかりと霧香の目を見据えたまま。

「ああ。これしか言えない」

 霧香はからかう顔に変わる。

「違うこと言った」

 憶人はとうとう目を閉じた。

「……ごめん」

 そして、霧香は告げた。

「もういいよ」

 諦めでも、呆れでもない、その言葉を。

 次第に優しくなっていた口調で。

「だから、これ以上『ごめん』って言わないで。困っちゃうから」

 憶人の頭の上にそっと手が乗る。憶人は思わず目を開き、またゆっくりと閉じた。

「ごめ……分かった」

 霧香の手が憶人の髪をくしゃっと軽く乱す。

「もう、危ないなぁ」

 乱した髪を手櫛で整えてやりながら、霧香は苦笑いをした。

 深くえぐれた刺し傷。互いの心に残されたそれを、ふわりと優しく覆いあった。間違いと裏切りとを分ける思考。それが、こんな時間をもたらしたものだった。

 頭から手を離し、そばに置いていたカバンを掴んで、霧香が立ち上がる。

 電灯の白色光と、すっかり暮れた空の群青。

「今から、いいって言うまで私の前に出ないでね」

「……なんでだ?」

 憶人が立ち上がるのと同時に、霧香は一歩だけ前に進んだ。

 そして、半身で振り返り――――

「今日で全部終わらせるからだよ」

 失くさなかった覚悟で、憶人にそう言ってのけた。

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