ひとりを
憶人は、無力を知った。
すべてが伝聞だった。決して理解は及ばないと知っていた。諦めなかろうが、変えられない事実だった。
無力でもあがこうとすることの無様さ。ただ考えることしかできないのを否定したいと、やはり考えることしかできない。狂化も悲哀も止められたらと、願うことしかできない。どんな方策も、考えついてはすぐに自分から否定するしかなかった。現実になれないという、簡素で絶対な理由をもって。
だが、無力ながらも現実に抗おうとしていた憶人を、世界は気まぐれに助けてしまった。
まばたきをひとつ。それで憶人の視界からすべてが消えていた。
「えっ?」
反響がまったくない。黒の凝った視界は、天地縦横が無尽であるかのように思わせる。濃淡差や気流を感じられないことも、そんな感覚を増幅している。
地面の感覚はあった。ただ、足裏に伝わるその感覚を頼りに歩いてみても、自分の足音は聴こえず、方向が分からなかった。そうなると、立ち尽くすよりほかになかった。
幅を捉えがたい静止の時間。
「はぁ……」
細くため息が出た。幅を捉える基準点にするには少々頼りなかったが、意識を自分の身体にしっかりと落ち着かせるのには役立った。
すると、声が届いた。
「救いのかたちを見出した」
無感情さに思わずぞっとするような、少女の声。
「忘却を解に据え置いた」
同じ性質の、少年の声。
「二者共の優遇」
「葉を切り離す」
「根ではなく」
「枯れないまま」
「無意味の救済を避ける」
「また無意味の救済」
「理解の及ばぬ境遇」
「開始点の相違」
「なじみの年月」
「古きを助く」
「新しきを助く」
「残らなければよい」
「思わなければよい」
「解を導く」
「忘却」
「否定と同義」
「二者共の優遇」
「二者共の否定」
「二者共への加害」
「自己否定」
「救済の放棄」
「対象の曖昧さ」
「世界が要求する代償」
「記憶には記憶を」
「少数のみの小世界」
「転移と消去を同一化」
「消去は不可能」
「隠匿の有限性」
いつの間にか、憶人自身の言葉が混じっていた。少年、少女、そして憶人の声はそれぞれまったく異なるが、判別することを自分自身が拒否しているせいで、すべての言葉が主体を失っていた。
言葉の羅列。一見一聴では無秩序であり、理解を共有する者にのみ、秩序を顕した。
「能を得る」
「超えよ」
最後の二つの言葉さえ判別はつかず――――
“記憶を霧の中へ”
それは言葉としてではなく、純粋な理解として、憶人の中に現れた。
目を開ける。世界がおぼろげに見える。焦点が合っていなかっただけ。
焦点が合えば、公園にいることも、時間がいくらか過ぎていることも、すぐに分かった。
「いない……」
舞の姿は消えていた。
あの世界ではないことは分かっていた。それどころか、憶人の理解は一瞬前よりも飛躍的に深化していた。
新たに得たものを、意識する前から理解していた。
“記憶で記憶を操る力”を、憶人は得たのだった。
八月三一日。午後九時三八分。
霧香は世界から外された。




