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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧散と灯火
30/39

ひとりを

 憶人は、無力を知った。

 すべてが伝聞だった。決して理解は及ばないと知っていた。諦めなかろうが、変えられない事実だった。

 無力でもあがこうとすることの無様さ。ただ考えることしかできないのを否定したいと、やはり考えることしかできない。狂化も悲哀も止められたらと、願うことしかできない。どんな方策も、考えついてはすぐに自分から否定するしかなかった。現実になれないという、簡素で絶対な理由をもって。


 だが、無力ながらも現実に抗おうとしていた憶人を、世界は気まぐれに助けてしまった。


 まばたきをひとつ。それで憶人の視界からすべてが消えていた。

「えっ?」

 反響がまったくない。黒の凝った視界は、天地縦横が無尽であるかのように思わせる。濃淡差や気流を感じられないことも、そんな感覚を増幅している。

 地面の感覚はあった。ただ、足裏に伝わるその感覚を頼りに歩いてみても、自分の足音は聴こえず、方向が分からなかった。そうなると、立ち尽くすよりほかになかった。

 幅を捉えがたい静止の時間。

「はぁ……」

 細くため息が出た。幅を捉える基準点にするには少々頼りなかったが、意識を自分の身体にしっかりと落ち着かせるのには役立った。

 すると、声が届いた。

「救いのかたちを見出した」

 無感情さに思わずぞっとするような、少女の声。

「忘却を解に据え置いた」

 同じ性質の、少年の声。

「二者共の優遇」

「葉を切り離す」

「根ではなく」

「枯れないまま」

「無意味の救済を避ける」

「また無意味の救済」

「理解の及ばぬ境遇」

「開始点の相違」

「なじみの年月」

「古きを助く」

「新しきを助く」

「残らなければよい」

「思わなければよい」

「解を導く」

「忘却」

「否定と同義」

「二者共の優遇」

「二者共の否定」

「二者共への加害」

「自己否定」

「救済の放棄」

「対象の曖昧さ」

「世界が要求する代償」

「記憶には記憶を」

「少数のみの小世界」

「転移と消去を同一化」

「消去は不可能」

「隠匿の有限性」

 いつの間にか、憶人自身の言葉が混じっていた。少年、少女、そして憶人の声はそれぞれまったく異なるが、判別することを自分自身が拒否しているせいで、すべての言葉が主体を失っていた。

 言葉の羅列。一見一聴では無秩序であり、理解を共有する者にのみ、秩序を顕した。

「能を得る」

「超えよ」

 最後の二つの言葉さえ判別はつかず――――


 “記憶を霧の中へ”

 それは言葉としてではなく、純粋な理解として、憶人の中に現れた。


 目を開ける。世界がおぼろげに見える。焦点が合っていなかっただけ。

 焦点が合えば、公園にいることも、時間がいくらか過ぎていることも、すぐに分かった。

「いない……」

 舞の姿は消えていた。

 あの世界ではないことは分かっていた。それどころか、憶人の理解は一瞬前よりも飛躍的に深化していた。

 新たに得たものを、意識する前から理解していた。

 “記憶で記憶を操る力”を、憶人は得たのだった。




 八月三一日。午後九時三八分。

 霧香は世界から外された。

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