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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
水面に添いて
21/39

見落としていた変化

 九月五日。土曜日。午前九時。

 天気は快晴で、カラッとした暑さが夏を引き延ばしている。そのような気候のことを“プール日和”と言っていたのはもはや数年前のことになっているはずだったが、霧香はプールの用意を手に、例の公園で憶人と待ち合わせをしていた。

 霧香に遅れること数分。憶人は木陰で待つ霧香のもとへやってきた。

「すまん遅れた」

 少し息があがっている。

「遅れてないよ?」

「えっ、本当か?」

 霧香がにやりと笑う。

「うそだよ。でもちょっとだけだから大丈夫」

「そうか」

 憶人はようやく深く息をついた。

「ところでさぁ、訊いてもいい?」

「ん?」

「九月にもなってプールに行こうなんて誰が提案したの?」

「……俺」

 憶人はあっさりと白状した。

「下心?」

「違うからな? 『なにかを思いつくのは水のそば』って――――」

「はいはい分かりましたよ~」

 お気に入りの歌手の言葉を言い訳に使おうとする憶人を、霧香は遮った。

「だからってプールって発想になるところが――――」

「ああもう、いいから行くぞ!」

「えっ? どこに?」

 質問に答えないまま歩いてゆく憶人を、霧香は慌てて追いかけた。




 歩くこと一〇分。憶人と霧香は駅前の広場へやって来た。プールへは電車に乗って行くため、そこへ来たこと自体に対して、霧香は特に驚かなかった。ただ、憶人の様子から、誰かと待ち合わせをしているらしいというのは察した。待ち合わせ相手として思い浮かぶ数少ない人物を霧香が想像していると、憶人が目当ての人影を見つけた。

「ちょっと待っててくれ」

 憶人の向かってゆく人影に霧香が目を凝らすと、それは霧香が想像していた人たちそのものだった。




「おっせえな憶人のやつ」

「いつもは一番乗りなんだからいいじゃない」

「でもよ、今回はあいつが言い出したんだぞ? しかも今朝」

「みんな休み……珍しい……」

 土曜日の駅前の広場。それなりに人が行き交っている中で、十夜、舞、沙那は待ち人をしていた。

「プールとかガキじゃあるまいしって思ってたけどよ、なんだかんだ言って『行こうぜ』って言われたら『おう!』って返事しちまうあたり、俺って――――」

「ガキね」

 舞が十夜に被せて言う。

「そんなにはっきり言うなよ。俺だって自覚してんだから十分だろ」

「楽しいなら……なんだっていい……」

「そうだよな。おい十夜、沙那の言うとおりだぞ」

「だから俺だって……って憶人!」

 沙那の背後に憶人が立っていた。

「すまん遅れた」

「じゃあこれで俺の遅刻の累積もチャラでいいよな?」

「んなわけあるか」

 憶人の叩きは十夜に躱された。

「憶人が遅刻……珍しい……」

「ああ、それなんだけどな……」

 憶人は振り返って霧香を呼び寄せようとしたが――――

「こんにちは」

「こ、こんにち……すみません、どなたですか?」

 舞の困惑した声。そして、誰のものかすぐに分かる声。

 憶人は再び振り返った。

「はじめまして、洲本霧香っていいます」

 振り返った目と鼻の先。霧香はすでに自分から近寄ってきていた。

「待ってろって――――」

「やだ」

 霧香は即答してぷいと顔をそむけた。

「『やだ』ってなぁ……」

 ため息をつく憶人。だが、余裕は許されなかった。

「はあはあ知り合いですか、ああそうですかなるほどなるほど……」

 十夜の下がりきった声音と、引きつった笑み。

「これは……桃色……?」

 沙那が手でフレームを作る。

「えっ、いや違っ……」

 沙那の言葉で取り乱してしまい、憶人への目がさらに鋭くなる。

「まさかあたしたちの知らないとこで憶人がそんな……いやこの反応はそのまさか!?」

 舞の目は憶人ではなく霧香に向けられていて――――

「うっは~! 見ろよこの恥じらい方! 教科書にしてえ!」

「かわいい……後ろめたくなっちゃうね……」

 霧香はほのかに頬と耳を赤らめていた。憶人にとってはまったく予想外なことに。

「で、憶人は彼女自慢のためにあたしたちをプールに誘ったと」

 舞がわざとらしく白けさせた目を憶人に向ける。

「はっ!?」

「嘘だろお前……口実だったのかよ……」

 十夜は舞と違って真剣そのものだった。

「いや違う……って霧香もなにか言えよ!」

「恥ずかしいよ……」

 霧香は手を組んで俯いた。

「えぇお前……」

 霧香が逃げるようにして憶人の背後にまわる。

「今日はそういうことにしてみるから、合わせてね」

 霧香が背後から憶人に囁く。ここから修正する術を思いつかなかった憶人は、霧香の選択に従うしかなかった。

 ただ、憶人は自分の計画を捨ててもいいと思えるほど、霧香が示した計画に魅了されていた。

 とりあえずため息だけはもう一度ついておいて、憶人は覚悟を決めた。性格的な変化はせず、関係だけを変化させるという、霧香の計画に乗ることに。

「……ちょっと違えよ。俺がいつも霧香にお前らの話ばっかしてるから会ってみたくなったって言われたんだよ」

「いったいどんな話をしたの? 不安にさせるようなこと言ったんじゃないの?」

「幼なじみなんだから思い出話がたくさんあるだろ」

 深く考えるでもなく、憶人はそう答えたが――――

「あぁ……やっぱり……」

 目を閉じる沙那。

「それはあんまりよくないよ憶人……」

 舞は苦笑いだ。

「え、そうなのか?」

 意外そうな声をあげたのは十夜だった。舞と沙那が同時にため息をつく。

「これだからうちの男どもは……」

「十夜は……当分は遠いね……春が来るのは……」

「でもまあ、憶人はこうして射止めてるわけだから、実質十夜だけね」

「お~い、もしもし~?」

 舞は十夜の呼びかけに反応せず、憶人を小突いた。

「あんたたちの将来の心配しなくてすむようにしてよ?」

「はい?」

「えっと……要するにちゃんと幸せ極めていきなさいよってこと!」

 憶人の理解が追いつく前に、舞は憶人から離れた。

「じゃあえっと……霧香ちゃん! 今日は誤解なんてさっさと解いて楽しもう!」

「あ、えっと……お~?」

 霧香が戸惑いながら手を挙げる。それに紛れるようにして沙那もさりげなく手を挙げていた。

「あの~? だからなんでよくないのか説明を~」

 十夜の言葉は完全に無視され続けていた。


 憶人たちがやって来たのは市営の屋外プールだ。市の人口がそれなりに多いこともあり、設備の豊かさは私営のものと遜色ない。至るところに人造林の日陰がつくられ、競技用の五〇メートルプール、二台のウォータースライダー、流水プール、造波プール、幼児向けの浅瀬などがあり、幅広い年齢層で楽しめる。売店の数や種類も豊富だ。

「それじゃあ、あとでね~」

 舞の言葉とともに、五人は男女それぞれに分かれて更衣室へ向かった。憶人は十夜と一緒に男子更衣室へと入り、空きロッカーを探し当て、着替え始めた。

「でさ、訊いていいか?」

「なに?」

「付き合い始めてどのくらい?」

「秘密」

 憶人はさらりと言った。

「なんだよつまんねえな」

 いま、憶人は霧香と話の辻褄を合わせなければならない。下手に交際期間を答えてしまうのは危険だという憶人の判断だった。

「あ、そういや霧香ちゃんって何歳だ?」

「一七歳。学年も同じ」

 さすがに年齢まで変えてはいないだろうという予想のもとで、憶人は答えた。

「へぇ、同じ歳なんだな。歳下かと思った」

「なんでだ?」

「かわいいから」

「……」

「やめろよなんか言えよ」

「気持ちわりぃ」

 わざとらしく身震いする憶人。

「言葉選んでくれよおい。『キモい』よりきついだろそれ」

 切実な嘆きとともに勢いよくロッカーの扉を閉めようとした十夜だったが、衝撃で施錠用の一〇〇円玉が飛び出てしまった。

「まあ今日はよろしく遊んでやってくれ」

 憶人はゆっくりと扉を閉めて施錠した。

「あ、でもよ」

「ん?」

 落ちた一〇〇円玉を拾う十夜。

「スタイル的には歳上だな。ほら、あるほうだし」

「……それ頼むから二度は言うなよ?」

「分かってるって彼氏さんっ」

 十夜は不敵に笑いながらロッカーを施錠した。

 おそらく分かっていないか、なにか勘違いをしているだろう。そう憶人は察していたが、もし二度目があっても被害は十夜が受けることになるだけだと割り切ることにした。

「脱いだらどんなだろうな霧香ちゃん……」

 更衣室を出た憶人と十夜は入口近くの日陰で女子たちを待つことにした。

「水着は着せとけよ想像でも」

「俺はそこまで想像してない」

「……」

 何事もなかったかのような態度をとる憶人だったが、十夜は逃さなかった。

「墓穴ぅ~」

「うるせぇ」

「まあデートでプールに誘うくらいだもんな」

「……お前、霧香に話しかけるの禁止な」

「うっは~それはやめて超やめて」

「やっほ~お待たせ~」

 舞の弾むような声が憶人と十夜の耳に届いた。

「おう待った……ぞ……」

 振り向いた十夜は、言い始めの勢いを急激に失っていった。

「そういやスク水姿でも中学の頃の話になるんだっけ?」

 十夜と同様に、憶人もかなり動揺していた。

「わたしは……あんまり似合わない……かな……?」

 少し不安そうになる沙那。その背後から霧香が沙那の肩に手を置いた。

「いやいやかわいいってば。にしても、すごい顔になってるよ二人とも」

 反応がない憶人と十夜に、霧香は困り笑いになった。

 最後に遊びでプールへ行ったのが小学生の頃、つまりは五年ほど前のことであるのを、憶人と十夜は見落としていた。五年前の幼い容姿では三人ともまだビキニが似合ってはいなかったが、舞は白地に黒、赤、水色の三色ボーダーの水着でなにも羽織らず、霧香はハイビスカス柄のオレンジ色の水着を着て同じ柄と色のパレオで腰元や脚を隠し、沙那はネイビーブルーの水着の上にライトグリーンのラッシュパーカーを着るなど、今や三者三様にそれぞれの容姿に映えるような進化を遂げていた。

「へぇ、サッカー部の十夜は当然として、憶人も見られて恥ずかしくないくらいの身体つきしてんじゃん」

 舞が憶人を眺めながら言う。

「……言い回しがおっさんみたいだぞ」

 憶人は視線を逸らし気味に言った。

「おっさ……言うに事欠いてもう!」

 舞は憶人の背をバシッと叩いた。

「てか彼女の水着姿を見てなんにもなしってどうなの?」

 舞の声には呆れが多分に含まれていた。

「あ、えっと……」

 憶人は思わず霧香のほうを向いた。その視線に気づき、霧香は少し憶人のほうへ近づいた。

「どうなの憶人?」

 舞が催促する。

「どうって……」

 思わず霧香と目を合わせてしまう憶人。こうなるとなぜか目を逸らせなくなってしまうことを憶人は知っていた。

「すごくいい。かわいい」

 やけっぱちに言おうとした憶人だったが、ただの恥じらいにしかならなかった。つられるようにして霧香も恥ずかしそうに口をぎゅっと結んだ。

「ひゃ~恥ずかし~」

 舞が冷やかしの声をあげる。いつもならば追随する十夜はまだ呆けている。

「放してよ~……霧香ちゃ~ん……」

 沙那は霧香の反応を見ようとしていたが、霧香に肩をグッと押さえられて振り返ることができなくなっていた。

 そんな状態が数秒ほど続いたが、それを破ったのは十夜の「水着映えって……」という呟きだった。

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