着飾り
九月三日。木曜日。午前七時。
記憶に自身を刻むと誓った霧香だったが、その方法を憶人に教えていなかった。霧香がなにをするつもりなのかまるで予想がつかず、憶人は不安に思って、昨日と同じようにいつもより少し早めに登校した。
教室に着いたのは七時ちょうどだった。まだ他には誰も来ていない。座席表を確認すると、昨日と同じように、霧香の名前は最後方の窓際にあった。
今日もまた“昨日の霧香”が消えているとは限らない。ただ、そうなっている可能性は十分にある。想像の域を出ないと理解していながら、憶人は霧香の行動を予想し始めた。
黒板の上に掛けられている時計だけが、かすかに作動音を教室に響かせている。黒板下縁のチョーク置きには、うっすらとチョークの粉が残っている。動きが絶えた教室。ぬくもりとも暑気とも判じかねる、朝の微妙な気温。夏至の頃と比べればいくぶん低い太陽。思考が途切れた瞬間、憶人はそんな教室の姿に気づいた。感覚がいつの間にか鋭くなっていたのだと知った。
そして、教室の外から新たな音が聴こえてきた。それが足音なのだと憶人が理解すると同時に、教室のドアが勢いよく開いた。
「あ、やっぱり憶人だ。おはよう」
「ああ、おはよう霧――――」
言葉を切り、憶人が猛然と霧香に歩み寄る。
「どうしたの? そんなに張りきって」
「お前それ……」
「ん?」
憶人が霧香の前に立ちはだかる。
「なんでそんな格好……てかどこから持ってきた?」
どういうわけか、霧香は制服ではなく、純黒のドレスを着ていた。デザインは素朴なものだが、黒の深さが強烈に目に届く。上靴は履いておらず、黒い靴下が裾から覗いていた。
「演劇部だよ。そういえば演劇部って創部当時から衣装を全部自作してるんだってさ」
「そんなこと知って……いやそうじゃなくてだな、なにがしたいのかはまあ大体分かったけど、それはダメだ」
「そうかなぁ? 色眼鏡かけてない?」
霧香は笑ってごまかそうとしたが、さすがにその姿は強烈すぎた。
「突然ドレスで登場して色眼鏡もなにもあるか!」
「あっはは、分かった、分かったってば」
そう言いつつ、霧香はどこか諦めていなさそうな態度をとり、案の定その態度どおりに粘り込みを謀った。
「でもさ、これなら記憶に残りそうじゃない?」
「いやまあ、そりゃあそうだけどな……」
憶人が手近な椅子を引いて、崩れるように座り込む。
「それ思いっきり校則違反だろ」
「私のことを消す世界のほうがなにかと違反してるからいいでしょ」
「そういう問題じゃないって……分かってるよなぁ……」
憶人はようやく霧香のささやかな抵抗に気づいた。
「とにかくちゃんと制服に――――」
その瞬間、霧香は後ろ手に隠し持っていた小冊子を掲げた。憶人が思わず視線を引かれる。
憶人が表紙に書かれている文字を読むよりも早く、霧香は小冊子を開き、ひと呼吸おいてから、読み上げ始めた。
「黒の素朴なドレスを纏った女の子の姿は、女の子の凛々しさと、決して弱さに染められない強さを、男の子の記憶に深く鮮やかに刻み込みました」
憶人の目が見開かれる。その一節を、憶人は知っていた。
霧香が持っているのは、文芸部が発行する文芸誌だった。そして、霧香が読み上げたのは、憶人が一年前に初めて寄稿した短編小説『霧の中の記憶』の一節だった。
「読んだ後に驚いたよ。『億人が創り出した世界って、こんなにも私を取り巻いて離れないんだ……』って」
懐かしむ霧香の声音がどこまでも優しい。
「億人が書いた物語はみんな、絶対に消えないような記憶になって私に刻まれているんだよ。だからね、憶人はきっと誰よりも“人の記憶に刻む術”を知っているって、なんだかそう思えるんだよね」
霧香は文芸誌を閉じ、憶人の手に握らせた。
「そんな憶人が一番深く私の記憶に刻んだ姿、それが、“黒のドレスを纏った女の子”だったんだよ。だから私は……」
そこからは言わなくても分かるだろうという霧香の信頼がある。
「どう? 憶人の記憶には刻めたんじゃない?」
自信に満ちた問いが、照れで逃げることを憶人に許さない。
「……そうだな。確かにそうだ」
認めざるをえないことが不快ではなかった。そんな自分を、憶人はおかしく思った。
「でも、それとこれとは別だ。早く着替えてこいよ」
「はぁい」
霧香は素直に返事をし、走り去っていった。
再び憶人ひとりだけの教室になった。だが、さっきまで静かで動きのない空間だった教室には、今や鮮やかな残像がある。ドレス姿の途方もない美しさ。声の果てしない優しさと爽やかさ。どこまでも迷いのない意志。それらが記憶に焼き付いて、ほとんど無音の教室にいても、憶人は虚しさや寂しさを感じなくなっていた。
「やっぱり強いな、霧香は……」
憶人は優しく微笑んだ。




