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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧の始まり
11/39

誓い照らす意志

 放課を告げるチャイムが鳴った。

「よっしゃ部活ゥ!」

 サッカー部に所属している十夜は、答案が回収されるなり、荷物を引っ掴んで教室を飛び出していった。

「あいつ今日、化学実験室の掃除当番だったよな?」

 男子生徒が呟く。

「あ~あ、十夜のやつ明日知らねえぞ~。大河内閣下の制裁は確定だな」

「慣れって怖えよなぁ。春ぐらいだったら俺らだって閣下の制裁がある度にビビってたもんだけどよ、今じゃ頻度がないと逆に不安になるもんな」

「マジでそれな。ハハハハ」

 “閣下”こと舞はというと、霧香が振り向いた時にはちょうど盛大なため息をついているところだった。

「ほんっと十夜って動き出しばっか」

「たまに……それがいい結果に……」

 あまりやる気がなさそうな沙那のフォロー。

「明日になったら覚えてろ……」

 そう言いつつ、あまり本気ではなさそうな舞。

 そんな様子を見守っていた霧香の肩に、手が置かれた。

「今からはなにをしよっか?」

 振り返った霧香の顔を見ても、憶人は緊張しなかった。

「帰るぞ」

「分かった」

 至って普通の返事だった。




 並んで歩く時間を意識するのがいつ以来のことなのか、憶人は思い出せなかった。そもそも意識したことがあったのかも思い出せない。憶人の転校などでいくらかの空白があったとはいえ、憶人、十夜、霧香、舞、沙那の五人で帰るのが、小学生の頃からずっと続く帰宅の様式だった。

 当たり前はいくつも消えてしまっている。世界は様々な形でその現実を示している。

「憶人」

 霧香の声で憶人は我に返った。いつもならば、憶人と霧香、十夜と舞と沙那とに分かれてゆく丁字路に、二人はやってきていた。

「私ね、憶人が転校していなくなってた時のこと、今でもすっごく覚えてるんだ」

 霧香がカーブミラーの下で立ち止まる。

「行っちゃってからほとんどすぐ、私たちは一緒に帰らなくなってたんだよ。別にケンカしたわけでもなくて、相談したわけでもなかったのに、ただほとんど同時に、集まるのをやめちゃったんだ。五人じゃないと幼なじみになれなかったんだよ。憶人は知らなかっただろうけど」

 霧香の言うとおり、憶人はそのことを知らなかった。

「そう……“五人じゃないと”って思ってたの。今までずっとね。でも、本当はさ、“憶人がいないと”だったんだね。やっと気づいたよ」

 霧香がどこからその結論に至ったのか、憶人は理解していた。だが、今の霧香は否定を許さない。そう雰囲気に溶かし込んでいた。

「私がいなくても続くんだって言われているみたい。そう思ったらね、誰か他の人がいなくても同じなんだって思いたくなったんだよ。憶人はもうダメだけど、舞か、沙那か、十夜の誰かがいなくても……ってね。すっごくイヤな考えで、信じたくなくて、でもやっぱり私が考えたことで、私って……醜いなぁ……」

 世界は霧香を変えた。それは他人の中にある記憶だけでなく、霧香自身にも言えることだ。憶人はそれを頼りに霧香を説得したかった。

 だが、やはり霧香は否定を望んでいるわけではなかった。

「変わりたいなぁ……」

 その一言で、憶人はようやく霧香の意志を察することができた。

「もっと強く、きれいになりたい。今までだって足りてなかった。今はもっと足りなくなってる。でも、きっと自分から変えられる。だって私は変わりうるんだって世界が教えてくれたんだから」

 醜さを無視するのではなく、美しさへ変える。そんな決意があるのかと、憶人は驚いた。だが同時に、霧香にならできるだろうとも思った。

 霧香は強い。そして、今やその強さはほとんど蘇っている。それがどれほど頼もしいことなのかを、憶人は覚えていた。だからこそ、霧香を信じようと思えた。

「憶人はお手伝いさん。私が頑張っている時に見守っていてくれたらいい。それ以上のことをさせていたら、それは私が甘えてるってことのものさしになる」

「……見守るだけで、いいのか?」

 霧香が気まずそうに笑う。

「それだけでも十分すぎるよ。やっぱり憶人って甘やかしさんだね」

 いつも十夜、舞、沙那の三人が帰ってゆく方向を、霧香は見やった。

「幼なじみにだって、きっと戻れる。記憶が戻ったら、きっと……」

 霧香が憶人のほうへ振り向く。

「だから私、頑張るよ」

 幾度となく聞いた言葉。

「変えてみせる……勝ってみせるよ」

 憶人の心配が、形を変える。

「絶対に、もう一度、私はみんなの中に“私”を取り戻すよ」

 まだ太陽が白く眩しい時間だった。盛りは過ぎても、夏の暑さはまだ続いていた。憶人の身体を伝う汗は冷たくなかった。

「なにに誓えばいいかな?」

「そうだな……」

 憶人は少し考えてみたが、考える前から答えが決まっていたのではないかと思うほど、すぐに思いついた。

「俺と、霧香自身の記憶に」

「記憶に誓う……変なの」

 確かに変だと憶人は思った。ただ、恥ずかしさはなかった。

「じゃあ、私と、憶人の記憶に誓うよ」

 霧香が憶人を指さす。その姿は途方もなくきれいで、美しくて、どこまでもまっすぐだった。

「私は、みんなの記憶に“私”を刻み込むっ! 生き残ってやるっ!」

 力強く放たれた誓いの言葉は、憶人に、そして霧香自身に凛と響いた。まずは二人の記憶へ、いつまでも消えることがないように、その誓いは深く、ふかく刻み込まれた。

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