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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧の始まり
10/39

意味とりどりの時間

 昨日と同じように、霧香は転校生となった。だが、いくつか違いがあった。

 霧香は教室に置いていたカバンを回収したあと、きちんと職員室に向かい、担任と顔を合わせてから、朝のホームルームで“一組の”クラスメイトたちに紹介された。当然だが、始業式はなかった。

 代わりに課題考査が新たに入ってきた。授業とは違い、自分の記憶と思考のみが存在する時間。高校入学から前回の定期考査まで、どの教科でも霧香の成績は上位だった。

 今回の考査も解答にはほとんど困らなかった。ただ、現時点での推測が正しければ――――

(これも残らないんだよね……)

 悲しさというよりは、残念さを感じた。少し前の霧香ならば、よくできた解答が消えてしまうことは重大な問題のように思っていたはずで、今やそれが些事だと思っていることを、霧香はおかしく思った。

 そして、休み時間に話しかけてくるクラスメイトの中に、十夜、舞、沙那がいた。




「洲本さん洲本さん、出身は? 前はどこに住んでたの?」

 十夜が霧香の机の前で屈んだ。

「こら十夜やめなさいようっとうしい」

 舞が十夜を蹴るが、十夜はほとんど動じない。

「『うっとうしい』とか、舞にだけは言われたくねえよ」

「洲本さん……困ってる……」

 机の横から沙那が顔を出した。

「へっ!? あ、いや、大丈夫だよさ……城崎さん」

「ごめんねほんと。ああそうそう、自己紹介しなきゃね」

「えっ、あ……そうだね」

 沙那が舞の肩をトントンと叩く。

「わたしの名前……知ってた……」

「あれ、ほんとだ」

 舞が不思議がる。

「あ、えっと……」

 言葉に窮する霧香。すると――――

「俺が教えたんだよ」

 その声に思わず霧香は振り返った。それと同時に、霧香の肩に手が置かれた。

「えっ、憶人お前、洲本さんと知り合いだったのかよ!?」

 十夜は信じがたいと言わんばかりの顔になった。

「母方のじじばばの所で何年か暮らしていたのは知ってるだろ? その時の友達だ」

「へぇ~。憶人ってば小学校の高学年の時からもう女の子の目星つけてたんだぁ~」

 舞がニヤつく。

「ちげえよ!」

「どうだかなぁ~」

 十夜が舞の憶人いじりに便乗しようと試みる。

「もういいって。とにかくお前らの名前くらいはもう知ってるし、だいたいどんなやつかも教えてあるから」

「情報が……偏ってない……?」

 静かに追い討ちをかけようとする沙那。

「偏っているかどうかは霧香が決めることだ」

「わっはぁ~! 信頼が眩しいねぇ」

 十夜が腕で目を覆う。

「お前なぁ、少しはまともに話を進めさせてくれよ」

「進んでんじゃん」

 さも当然のことのように言う十夜。

「どこがだよ」

「それ俺が訊きたいことだぞ」

「はい終わり終わり。転校生の前でそういう身内ネタしないの」

 舞が憶人と十夜の間に身体を割り込ませる。

「……とりあえず、ゆっくり慣れさせてやりたいから、あんまり構い過ぎないようにしてくれ」

「で、時期になったら仲良くしてやってくれって言いたいんでしょ?」

「まあ……そうだな」

 そう憶人が答えるやいなや、十夜、舞、沙那の三人が肩を寄せあう。

「独占欲……?」

「お~怖い怖い」

「昔はそうじゃなかったのにね」

「お前らなぁ……」

 憶人がため息をつくのと同時に、試験監督の教師が「お前らそろそろ準備しろー」と声をかけ、その場は解散となった。

 席に戻り始めるまでずっと、憶人の手は霧香の肩の上に置かれたままだった。




 憶人の頼みが耳に入ったのか、昼休みになる頃には霧香の周りに人が集まらなくなっていた。霧香はサンプルが集まらなくなることに焦りを感じていたが、憶人の考えは少し違っていた。

「『押してダメなら』ってやつだ」

 憶人と霧香は例の階段で並んで昼食を摂っている。憶人は弁当。霧香は購買のパンだ。

「どういうこと?」

「霧香のことについて謎を多く残してみるんだ。そうすれば、ちょっとだけかもしれねえけど、昨日と違う状況になる。これからはそういう“違い”を試していって、少しずつこの状況を解明してゆくのがいいんじゃないかって思った」

 “少しずつ”をやや強調して、憶人は言った。

「“違い”かぁ……」

 憶人の予想とは違い、霧香は面白そうに笑った。

「嫌じゃないのか?」

「うーん……嫌じゃないというか、むしろそういうのっていいかもしれないなって思って」

 憶人の目が見開かれる。

「そんなに意外なの?」

「えっ?」

「顔に出てるよ」

 憶人は目ではなく口元に手の甲を当てた。

「まあ……思ってた反応と違うからな」

「そうなの?」

「今までの自分だったらしないようなことをやることになるかもしれない……というか、やらないと違いができないから、嫌なんじゃないかと」

「ああなるほどね」

 霧香はまた面白そうに笑った。

「まあ今のところはそんなこと思ってないから安心してよ。とりあえず、今日は頑張りきれそうだよ」

「そうか。でも――――」

「ちゃんと言うから」

 霧香は憶人をまっすぐに見据えて言った。

「……分かった」

 信じるには十分な眼差しだった。

 二人は再び昼食を摂り始めた。




 午後もまた課題考査が続いた。霧香はまた特に困りもせずに解いていった。

 空いた時間に、霧香はふと、今の状況を思った。

 様々なことが変化した中で、こうして問題を解いている時間は、以前と変わらないもののように思えた。この時間において、霧香は転校生ではない。ただのひとりの解答者でしかない。解いている限りは、霧香を転校生とする定義が意味を失ってくれる。もし以前と同じ状況であっても、やはり解答者に再定義されるだろう。そういう意味で、変わらないものと呼べる時間。そう考えると、どうにも無駄な時間だとは思えなくなった。

 霧香にとって、放課後までの時間は、つらさや苦しさが凪いで、久しぶりの穏やかな時間になった。

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