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たとえば、僕たちが  作者: 滝沢美月
first half
2/28

2.目撃者 side佑真



 この日はやっと実験結果が思うように出て、三日三晩籠りきりだった薄暗い実験室から解放されて、景気づけに飲みに来ていた。

 いい結果が出たといってもまだやらなければならないことはあって、時間も惜しくて大学から近い駅前の居酒屋に来ていた。

 飲んでからレポート書くのかっていう突っ込みはなしで。

 ここは値段設定が安いからか学生が多く、特にうちの大学の学生は多い。

 三日間コンビニおにぎりしか食べてないから、すきっ腹に温かい料理が浸みる。

 実験結果があーでもないこーでもないと話し合いながら、いつの間にか会話はくだらない内容になって、盛り上がっている中、俺は一服しようとそっと席を立った。

 別に居酒屋だから席で吸ってもいいんだけど、個室だから締め切ってて空気が淀んできたっていうか、外の空気を浴びたくて表に向かう。

 確か、入り口を出たとこのエレベーターホールに灰皿があったよな。

 記憶をたどりながら、腰につけたシガーケースを確認するように指先で触れて、角を曲がった時、俺の前を歩く先客がいた。

 腰まで伸びた黒髪は綺麗にまかれて、ゆったりとした歩調に合わせて揺れていた。

 それにしても、おぼつかない足取りで相当酔っているのが分かる。

 正直、女性の酔っぱらいは好きではないんだが――

 狭い廊下だが、端から追い越してしまおうと思い、一歩踏み出した瞬間。

 女性が踏み出した左足が力なくぐにゃっと曲がり、そのまま真横に体が反転し、上半身が前のめりに傾いて顔面から壁に激突したのだ。

 バコ――ンッッッ!!!!

 もろに顔面から激突したのだろう。あまりに凄まじい音に、俺はとっさに女性に駆け寄った。脇の下に腕を入れ抱き起した女性の肌は、薄暗い店内でも分かるくらい雪よりも透き通るような白。とても酔っているようには見えない顔色だが、意識を失っているのか瞼は閉じられ、長い睫毛が伏せられていた。


「大丈夫ですか?」

「…………、あっ……はい、だいじょぶ、です……」


 俺の問いかけにぴくんっと睫毛が揺れ、ゆっくりと開かれた瞳は焦点が定まらずぼぉーっとしているが、ちゃんと受け答えしていることから意識ははっきりしてきたようでほっと胸をなでおろす。


「どこか痛いところはないですか? 唇をぶつけたんですか?」


 俺の腕の中でいまだにぼぉーっとしているのにもかかわらず、意識が戻ってからずっと片手で唇を押さえていることに気付いて問いかけるが、返事はなかった。


「連れの方は近くにいますか?」

「……あの、お手洗いに行こうと思って立ったら一気に酔いがまわってしまったみたいで……」


 ゆったりとした口調で話す彼女の声が耳に優しく流れ込む。


「じゃあ、お手洗いまでお連れしますよ。まだ一人では立てないでしょう?」


 立ち上がろうとしないことが、その証拠だった。

 倒れた音に気がついて、やっと店員が駆け付けてきた。


「お客様、大丈夫ですか? お怪我などは……」

「うん、少しお酒が回ってしまったみたいだけど大丈夫そうですよ」

「そうですか……」

「ああ、そうだ。お冷を一杯、トイレの方に持ってきてくれますか?」

「はい、ただいま」


 パタパタと足音を響かせて早足に厨房に戻っていく店員の後ろ姿を見送ってから、俺は女性に声をかける。


「立てる?」


 問いかければ、彼女はコクンっと首を縦に動かして立とうとするが、生まれたての小鹿のように足が震えて上手く立てないようだった。俺は脇の下に回していた腕に力を入れ、反対の手で彼女の手を支えて立ち上がるのを手伝い、ゆっくりとトイレに向かって歩き出した。


「次、曲がりますよ。ここ、段差があるから、気を付けてください」


 道々に話しかける俺に、彼女は頷き返すだけだったのが少し心配になるが、酔っているのなら話すのも辛い状態なのかもしれない。

 トイレの前に着き、扉を開けて彼女を中に入れると、タイミングよく店員がお冷を持ってきてくれた。


「お冷だけど、飲めそうですか?」


 彼女はこくんと頷くと、いまだにぼぉーっと定まらない視点のままお冷のグラスを両手で受け取り、こくこくと一気に飲み干した。小気味良い飲みっぷりについ見とれてしまう。

 ぷはっといって一息ついた彼女の顔色は、さっきよりもだいぶ良くなっていて安堵する。


「あの……」


 か細い声が聞こえて見下ろせば、彼女が深々と頭を下げていた。


「介抱してくださってありがとうございます、ご迷惑おかけしました」

「いや、俺は大したことは……、怪我とかなさそうでよかったです」


 そう言った時、トイレの扉を開きっぱなしで、トイレの中に立つ彼女とずっと話していたことに気づいて俺は慌てて会話を終わらせる。


「じゃあ、俺はこれで」

「はい、ありがとうございます」


 もう一度頭を下げた彼女は、まだどこかおぼつかない仕草でトイレの扉を閉めた。

 カチャリと鍵のかかる音を確認してから、俺はほぉっと吐息をもらした。

 仕切り直しに一服しようと踵を返すと、ちょうど廊下を学友の浪江(なみえ)が通りかかって声をかけてきた。


「あれ、こんなとこでなにやってんの?」

「酔った子がいてトイレまで連れてきてあげたんだ」

「あっ、もしかしてさっき一緒にいた子? ちらっと見えたんだけど、ロングヘアの美人」

「よく見てるな」


 照明を落とされて薄暗い店内なのに、浪江の観察力に呆れる。


「うちの大学だよ、彼女。確かユーちゃんだったかな、美人だから校内でもけっこう目立ってて、山科(やましな)も見かけたことくらいあるんじゃないか」

「さあな、覚えてない」


 素っ気なく言って、俺は一人、店を出てエレベーターホールに向かう。

 浪江にはああ言ったけど、校内で見かけたことがあることを思い出す。

 時々見かける男女数人のグループの中にいる美人。いつも笑顔を絶やさないのが印象的だった。

 気が強そうだって思ってたけど、近くで見た彼女は本当に相当な美人だった。艶やかな長い黒髪、綺麗に巻かれて背中で揺れる髪からは柑橘系の甘酸っぱいコロンの香りがした。薄暗い店内でも分かるくらい透き通るような色白の肌。伏せられた睫毛はけぶるように長く、開かれた瞳はビー玉のように澄んでいた。口調や仕草も勝気というよりはおっとりといった言葉が似合いそうな女の子だった。

 そんなことを考えながら煙草をふかして店内に戻った俺は、たまたま見てしまったんだ。

 トイレの前に立っていた彼女の頬を伝い落ちる涙を――

 瞬間、胸がきゅっと震えた。




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