妹に婚約者を奪われたけれど、返品されました。今さら返されても困ります!
妹に婚約者を奪われたのは、去年の春のことです。
桜が散り始めた四月の午後、父の書斎で家族会議が開かれました。議題は一つ。妹のマリアが私の婚約者であるジーク・アシュトン侯爵と「真実の愛」に落ちたという、なんとも滑稽な告白についてです。
「お姉様、どうかお許しください!」
マリアは床に跪き、涙を流していました。薄桃色のドレスが床に広がり、舞台の一幕のような光景でした。いえ、実際これは彼女にとっての舞台だったのでしょう。
「でも、これは抑えきれない感情なんです。ジーク様と私は、運命で結ばれているんです!」
私は静かに紅茶を一口飲みました。アールグレイの香りが、この茶番劇に不思議な落ち着きを与えてくれます。
父は苦虫を噛み潰したような顔で、母は困惑し、ジークは恍惚とした表情を浮かべていました。
私とジークの婚約は、言うまでもなく政略結婚でした。ローウェル侯爵家とアシュトン侯爵家、両家の利益が合致した、極めて理性的な取り決めです。初めて会った日、彼は私を値踏みするように眺め、「悪くない」と呟きました。私も同じように彼を評価し、「問題ない」と結論づけました。
恋愛感情? そんなものは最初から期待していませんでした。
「アンルシア」
父が重い口を開きました。
「お前の意見を聞こう」
全員の視線が私に集まりました。マリアは縋るような目で、ジークは気まずそうに、両親は心配そうに。
私は微笑みました。穏やかに、優雅に。
「マリアが欲しがるなら、どうぞ」
静寂が部屋を包みました。
「え?」マリアが顔を上げました。
「お姉様……本当に?」
「ええ。愛し合っているのでしょう? でしたら、私が邪魔をする理由はありません」
実を言えば、この瞬間、私は解放感を感じていました。家のため、責任のため、当然のように受け入れた婚約。それが「愛のために身を引く姉」という美談に包まれて消えていく。なんと都合の良い幕引きでしょうか。
でも、私には分かっていました。彼女が手にしたいのは愛ではなく、私の立場だということを。
幼い頃から、マリアは私と比較されて育ちました。
「アンルシア様は理知的で品格がおありですのに」
「姉上を見習いなさい」
「長女は違いますわね」
社交界デビューを果たしても、彼女は常に「アンルシアの妹」でした。美貌では勝っていても、評価では常に二番手。その劣等感が、彼女の中で膨れ上がっていたのでしょう。
そして今、彼女は私から何かを奪うことで、初めて勝利を手にしようとしている。
「アンルシア……」
ジークが言いかけましたが、私は手を挙げて制しました。
「アシュトン侯爵、妹を幸せにしてくださいませ。それが、私からの唯一のお願いです」
こうして、あっけなく婚約は解消され、新たな婚約が結ばれました。
社交界は大騒ぎでした。しかし「愛のために身を引いた姉」という美談が広まると、私への同情と賞賛の声が上がりました。なんと皮肉なことでしょう。
結婚式の日、マリアは誰よりも美しく輝いていました。純白のドレスに身を包み、幸せの絶頂といった様子で、何度も私の方を見ていました。
勝ち誇った顔でした。
けれど──勝負をした覚えなんて、私は一度もないのです。
※
婚約を譲って一年。私は領地で静かな暮らしをしています。
朝は決まって六時に起き、朝露を纏った薔薇たちに水をやります。午前中は書斎で領地の帳簿と向き合い、午後は応接間で紅茶を楽しみながら書物を読む。夕方には領地を見回り、農民たちの様子を確認する。
誰に邪魔されることもない、私だけの時間。
「お嬢様、本日のお茶はダージリンのファーストフラッシュでございます」
執事のセバスチャンが銀のトレイを運んできました。七十を超える老執事は、私が生まれる前からローウェル家に仕えています。
「ありがとう、セバスチャン。香りが素晴らしいわ」
「恐れ入ります。そういえばお嬢様、厨房の者たちが都から興味深い噂を聞いてきたようで」
「あら、どんな?」
セバスチャンは咳払いをしました。
「マリア様が、先日の舞踏会で大変な騒ぎを起こされたとか」
「まあ」
「なんでも、他の令嬢のドレスが自分より目立つと言って、ワインをおかけになったそうです」
「そう……」
私は紅茶を一口飲みました。春摘みの爽やかな味が口に広がります。
「また、アシュトン侯爵家では、宝石商への支払いが三ヶ月も滞っているという話も」
「あら、それは深刻ね」
「侯爵様も、奥方様の浪費に頭を抱えていらっしゃるとか」
私は窓の外を眺めました。領地の小麦畑が黄金色に輝いています。今年も豊作のようです。
「……恋というものは、生活には不向きですものね」
午後、隣領のレイトン・ミルズ男爵が訪ねてきました。月に一度の定例会議です。領地の境界にある川の水利権について、話し合いを重ねているのです。
「アンルシア様、今月もお時間をいただき感謝します」
レイトンは三十代半ばの落ち着いた紳士です。派手さはありませんが、誠実で思慮深い人物として領民からの信頼も厚い方です。
「こちらこそ。お茶でもいかがですか?」
「はい。いただきます」
地図を広げ、灌漑設備の改修について議論を交わしました。レイトンは私の提案に真剣に耳を傾け、時折感心したように頷きます。
「なるほど、東側の水門を二つに分ければ、効率的に配水できますね。さすがです」
「農民たちの意見を聞いて回った結果です。現場の声は大切ですから」
「素晴らしい。あなたのような方が家を守っていれば、どんな領地も安泰でしょうね」
彼の言葉に、私は温かいものを感じました。家のため、責任のためと自分を押し殺してきた日々。それが初めて、誰かに認められたような気がしたのです。
「過分なお褒めの言葉、恐縮です」
「いえ、本心です。都の華やかさもよいですが、こうした地道な努力こそが、領地の繁栄には欠かせません」
レイトンの瞳には、嘘のない誠実さが宿っていました。
「実は、来月収穫祭があります。よろしければ、お越しになりませんか?」
「喜んで。今から楽しみです」
彼が帰った後、私は一人でアールグレイを淹れ直しました。ベルガモットの香りが、秋の夕暮れによく似合います。
使用人たちの話し声が、風に乗って聞こえてきました。
「都では、アシュトン侯爵様が債権者に追われているそうよ」
「マリア様の浪費が原因だって」
「でも、最初は侯爵様も奥方様に夢中だったんでしょう?」
「ええ、でも現実は甘くないものね」
私は静かに微笑みました。
激情的な恋は、確かに美しい。でも、それを生活の中で維持することの難しさを、妹はまだ知らなかったのでしょう。
いえ、知ろうともしなかったのかもしれません。
※
秋も深まり、楓が赤く染まった十月の夕方。
突然、妹のマリアが訪ねてきました。
「お嬢様、マリア様がお見えです」
セバスチャンの報告に、私は読んでいた本を閉じました。
応接間に入ってきた妹を見て、私は驚きを隠せませんでした。
かつての華やかさは見る影もなく、髪は乱れ、ドレスも去年の流行遅れのものでした。頬はこけ、目の下には濃いクマが浮かんでいます。何より、あの生き生きとした瞳が、死んだ魚のように濁っていました。
「お姉様、お久しぶり……」
声も掠れています。
「ええ、久しぶりね。今、紅茶を用意させるわ」
「ううん。長居するつもりはないから」
妹は疲れた様子で椅子に腰を下ろしました。そして、力なく笑いました。
「お姉様……あの人と、もう終わりにしたの」
マリアの声は掠れていました。
「終わり?」
「離婚するの。もう手続きも始めてる」
妹は自嘲的に笑いました。
「最初は情熱的で素敵だったわ。でも、それだけでは生活できない。借金は増えるばかり、あの人は現実から逃げて酒浸りだし」
私は黙って聞いていました。
「それで、お姉様に返そうと思って」
「……返す?」
マリアは疲れた笑みを浮かべました。
「だって、元々はローウェル家とアシュトン家の縁談だったでしょう? 私が横から奪ったせいで、両家の関係も微妙になった」
「今更何を」
「父様が言ったの。『アンルシアなら、あの家を立て直せたかもしれない』って。アシュトン侯爵家も、お姉様との縁談なら援助するつもりだったって」
妹は続けました。
「でも私じゃダメだった。浪費ばかりで、家を傾けて。だから、本来の形に戻すべきだと思うの」
「マリア、一度壊れたものは元には戻らないわ」
「でも、両家のためには──」
「両家のため?」
私は眉を顰めました。
「あなた、一年前は『愛のため』と言って奪ったのに、今度は『両家のため』で返すの?」
マリアは唇を噛みました。
「あの人も、きっとお姉様のところに戻りたがるはずよ。昨日も酔って言ってたもの。『アンルシアなら、俺の家を支えてくれた』『あの縁談を壊したのは間違いだった』って」
私は紅茶を一口飲みました。
「マリア、私には新しい生活があるの。今更、過去の人を押し付けられても困るわ」
「でも、元は──」
「元も何も、私はもう関係ない。あなたが選んだ人でしょう? 最後まで責任を持ちなさい」
マリアは唇を噛みました。
「冷たいのね、お姉様は」
「現実的なだけよ」
妹は何も言わずに立ち上がりました。
「あ、そう。でも、彼はお姉さまのところに来ると思うわよ。ここの屋敷の場所伝えたし」
「勝手なことを……」
マリアは足音を立てながら部屋を出ていきます。
静寂が戻ったところで、私はセバスチャンを呼びました。
「もしアシュトン侯爵が訪ねて来ても、通さないで」
「かしこまりました」
※
三日後。
「申し訳ございません、お嬢様」
セバスチャンが困った顔で報告します。
「アシュトン侯爵様が、どうしてもお会いしたいと門前で粘っておられます」
私はため息をつきました。
「わかったわ。応接間に通して」
しばらくして、みすぼらしい姿のジークが入ってきました。かつての自信に満ちた表情は消え、疲れ切った中年男性がそこに立っていました。
「アンルシア、会ってくれてありがとう」
「要件を手短にどうぞ、アシュトン侯爵」
彼は気まずそうに咳払いをしました。
「その……マリアとはうまくいかなくてね」
「存じています」
「やはり君のような穏やかで理性的な女性が一番だと分かったんだ。もう一度──」
「お断りします」
私は即座に遮りました。
「え?」
「私には私の生活があります。お引き取りください」
ジークは焦燥感たっぷりに口を開きます。
「聞いてくれ、アンルシア! 両家のためにも──」
「両家のため?」
私は冷たく微笑みました。
「一年前、あなたはマリアとの『愛』のために、両家の取り決めを反故にしたのではなくて?」
「それは……」
「今更都合よく『両家』を持ち出さないでください」
ジークは必死の形相で身を乗り出しました。
「確かに俺が悪かった。だが、アシュトン家は本当に危機的状況なんだ。債権者に追われ、領地も手放すことになるかもしれない」
「それは、あなたの問題です」
「そんな冷たくしないでくれ。昔はもっと優しかったじゃないか」
私は静かに立ち上がりました。
「優しさと、都合の良さを混同しないでください。私が優しく見えたのは、ただ諦めていただけです」
「諦めて……?」
「ええ。家のため、責任のため、自分の意思を殺していただけ。でも今は違います」
窓の外を見やると、夕日が領地を黄金色に染めていました。
「私には守るべき領地があり、信頼してくれる領民がいます。そして……」
私は振り返り、まっすぐジークを見つめました。
「私を一人の人間として見てくれる人もいます」
ジークの顔が歪みました。
「まさか、他に男が──」
「セバスチャン」
私は執事を呼びました。
「お客様をお送りして」
「待ってくれ、アンルシア!」
「もう二度と来ないでください。次は門前払いにします」
ジークは憔悴しきった様子で、セバスチャンに促されるまま退出していきました。
一人になった応接間で、私は再び紅茶を淹れました。今度は白茶。繊細な香りが、騒がしかった午後に静けさを取り戻してくれます。
あの騒動から一週間後、レイトンが収穫祭の最終打ち合わせに訪れました。
「順調に準備が進んでいるようですね」
彼はいつものように穏やかな笑顔でした。
「ええ、領民たちも楽しみにしています」
私たちは庭のテラスで紅茶を飲みながら、祭りの段取りを確認しました。秋の陽射しが優しく、薔薇たちが最後の花を咲かせています。
「実は……」
レイトンが少し言いにくそうに切り出しました。
「都で、アシュトン侯爵が訪ねて来たという噂を聞きました」
「ええ、いらっしゃいました」
「差し出がましいようですが、大丈夫でしたか?」
私は微笑みました。
「ご心配なく。過去の清算は終わりました」
レイトンは安堵の表情を見せ、それから真剣な顔つきになりました。
「アンルシア様、実は今日、大切なお話があって」
「何でしょう?」
彼は深呼吸をして、まっすぐ私を見つめました。
「収穫祭の後、父が正式にお会いしたいと申しています。それは……将来のことを含めての話になると思います」
私は彼の誠実な瞳を見つめ返しました。
「まあ」
「私は、あなたという方を知れば知るほど、共に歩みたいと思うようになりました。領地のことだけでなく、人生のパートナーとして」
レイトンは続けました。
「急ぐつもりはありません。ただ、私の気持ちをお伝えしたくて」
私は白茶を一口飲み、ゆっくりと答えました。
「レイトン様、私も同じ気持ちです。あなたとなら、新しい未来を築けると思います」
彼の顔に、抑えきれない喜びが広がりました。
「本当ですか?」
「ええ。でも、一つだけ約束してください」
「何でも」
「私を、私として見続けてください。誰かの姉でも、誰かの元婚約者でもなく、アンルシアという一人の人間として」
レイトンは優しく微笑みました。
「それは約束するまでもありません。私が惹かれたのは、他でもないあなた自身ですから」
彼が帰った後、私は一人でゆっくりと紅茶を味わいました。
白茶の繊細な香りが、静かに立ち上ります。
窓の外では、領民たちが収穫祭の準備に励んでいます。子供たちの笑い声が聞こえ、大人たちも楽しそうに飾り付けをしています。
私は手紙を一通したためました。
『マリアへ
あなたが訪ねてきてから、色々考えました。
私たちは姉妹として、お互いに縛られていたのかもしれません。
でも、もうそれも終わりです。
あなたはあなたの道を、私は私の道を歩みましょう。
いつか、ただの姉妹として、紅茶でも飲めたらいいですね。
アンルシアより』
手紙を執事に託し、私は再び庭に目を向けました。
妹に婚約者を奪われたのは、去年の春のこと。
でもそれは、私にとって束縛からの解放の始まりでした。
そして今、私は自分の意思で選んだ道を歩いています。
薔薇の香りを含んだ風が、頬を撫でていきました。
今年の収穫祭は、きっと素晴らしいものになるでしょう。
来年は、もっと賑やかになるかもしれません。
私は微笑みながら、白茶の最後の一滴まで、ゆっくりと味わいました。
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