意訳「おまえを愛することはない」【番外編】
こちら番外編ですので未読の方はぜひ本編からどうぞ!
エマにはちょっと変わった夫がいる。
巷では氷の貴公子だの冷血漢だのと言われていた。エマもそういった噂を信じていたくちだが、実際に目の当たりにした夫グレイはそんな言葉で収まる男ではなかった。
結婚初日の夜にプロフィール帳を渡し、翌朝はキュートな鍵付き交換日記帳を差し出し、後にはふたり寄りそったプリクラを用意してきた。その後もいろいろあって、ついに夫婦の関係が前進するのかと思ったら、告げられたのはデートへの誘い。
思っていた人物像とだいぶ違う。
氷というよりファンシー。
けれど、まあ、エマはそんな夫がいやではなかった。
氷のなんとかと呼ばれているのは事実だし、普段からぴくりとも動かない表情は冷たいと思われても仕方ない。しかし案外グレイは優しい。気を遣ってくれるし無理強いはしない。感情がないなんてことはなく、ただ言動が思いもよらないだけ。
エマは夫から目が離せない。
でもそれは彼に対して好意があるとか惹かれるとか、そういうんじゃなく、単に予測不可能な人物が引き起こす間欠的強化が云々と小難しい理由を並べてみるものの。それだけじゃないのはエマ自身うっすらと自覚があった。
デートはまだ叶っておらず、予定としてはもう少し先だ。グレイが在籍する執政部は忙しいらしい。元々王家の家令であった流れから、宰相及び執政部の仕事は王宮の人事から閣議の主宰、はたまた式典や伝統行事への参加など多岐に渡っている。
しかし今日は特別に夜早く帰ってきてもらった。
「準備はできたか」
「はい」
冷たく見えるほど整った夫の容姿。水底のような青い瞳は今日も恐ろしく澄んでいる。じっと見つめられると落ち着かなくて、エマはぷいと顔をそらした。ちょっとだけ頬が熱いのは気のせいだ。
今日はふたりそろってエマの生家である公爵家へお呼ばれしている。晩餐を一緒にということだが、なんでも父がエマに渡したいものがあるらしい。
「本当に手土産はこの本でよかっただろうか」
「ええ、きっと喜んでくれますわ」
グレイが手にしているのは飴色の皮装丁と銀の留め具が目を引く一冊の本。中身は近海で見られる大型海洋生物を絵と文章でまとめたものだ。最近話題の画家が挿絵を担当していることもあり、見応えがある。
「お義父上は海が好きなのだな」
「そのようですわ。他の人たちにはまだ内緒ですよ」
「もちろんだ」
エマの兄や姉たちはちょっとだけ変わっていて、恐らく本人たちは変わっているなんて意識はないんだろうけれど、おかげでちょっとのことじゃ動じない令嬢として育った。
そして両親であるエマの父母もまた個性的であった。
エマを含め六人もの子を産んで育てた母は、まだまだ子どもの世話がしたいと自ら保育園なるものを立ち上げた。他にスタッフがいるにも関わらず公爵夫人自ら赤子のおむつを変えている。それもニッコニコで。
一方で父は今まで特に趣味のない普通の人だと思っていた。きっと兄や姉たちもそうだろう。
実はエマの父、大の船舶好きであるようだ。見るのも聞くのも乗るのも好き。かつて港には私船をいくつも所有しており、若い頃は自ら舵をとって航海もしていたという。しかし結婚してから今までは船に乗ることをぐっと我慢していたらしい。嫁入りする数日前、珍しく酔っていた父がそんな話をエマに聞かせてくれた。仕事ならともかく、父にとって船は趣味。残される妻子の立場を考えたらどんなに好きでも船に乗ることはできなかったと。
家を継ぐ長男もおり、さらに末娘エマが嫁いだのもあって、父は大好きであった船に再び情熱を注ぐことにしたらしい。今夜はそんな父の門出をこっそり祝う席だ。なぜこっそりかというと本人が照れてエマにしか言えてないから。だからわざわざ母も長兄も不在の夜を狙ったらしい。
「お母様に伝えるのも恥ずかしいのですって。船や海が好きだなんて特別変わったことではないのに」
「お義父上は、我慢していたことを知られるのが恥かしいのではないだろうか」
グレイは静かに口を開いた。
「自分は家族のために我慢していたんだと、そんなことを大きな声で言う方ではないだろう。当然のことと自身を戒めていらっしゃったのだと思う。でも長い月月が経ち、子を育てあげるという責任を全うし、また好きなものに触れることができると思ったら気分が浮かれてしまったんだ。きみ相手に口を滑らせてしまうくらいには」
船のことを語る父の嬉しそうな表情がふと思い出された。
「じゃあ、これからは好きなことをたくさんやってほしいわ。わたくし、お父様をうんと応援するつもりよ」
家族全員が好きなことをしているのだ。
当主の責任があるとは言え、父だけが我慢しているなんて、そんなのいやだ。
エマの言葉にグレイは小さく頷いた。相変わらず無表情。けれど雰囲気は暖かく優しいものだった。
行きの馬車ではグレイと対面で座った。夫婦なのだから隣に座ってもいいだろうに、夫はこの辺りをとてもきっちりしている。まるで交際したての初々しい恋人同士のようで――
そこまで考えてエマの顔がぽっと赤くなった。
(わたくしったらなにを考えてるの。そんな、恋人同士なんて)
あわわ、あわわ、と頭の中から邪念を追い払う。よく考えたら恋人の距離感でもない。もっとくっついたり甘い言葉をぽんぽん浴びせてくるのが恋人だ。エマが読んだ本にはそう書いてあった。となるとエマとグレイの距離感は友人知人くらいのものじゃなかろうか。
(でもデートの約束はしたわ。それにこの人、わたくしのこと、好きって……)
可愛らしいプロフィール用紙。好きな人を問う欄に書かれた自分の名前。それを思い出しておさまりかけていた熱がまたぽぽっと上がる。
そんな時に限って夫は目ざとい。
「大丈夫か」
「ど、どうもしてませんわ」
馬車内はさほど広くない。逃げ場のない空間で向かい合っていることに耐えられず、すっと視線を横に逸らす。
その先には家令のエリク。
そ知らぬ顔で馬車に同乗している。彼もまた主人と似て寡黙だ。何を考えているかわかりづらい。その長い黒髪を後ろでくくった青年が主人であるグレイへ耳打ちをする。
「……いやしかし。時期尚早ではないだろうか」
わずかに眉間のしわを深くしたグレイ。いったい何の話だろうと思っていると、エリクはなぜかエマに矛先を向けてきた。
「奥様はいかがでしょう」
「はい?」
「おふたりが結婚されてひと月ちょっと。私どもが馬車に同乗するのはもう違うかと思いまして、進言した次第です」
ちなみにエマの横にも側仕えがいる。
これまで夫婦で出かける時は必ず同乗者がいた。ふたりきりで馬車に乗ったことはない。エリクはそれを止めようと言っているようだ。
(グレイとふたりきり……)
まるで夫婦のようではないか。
いや、エマとグレイは神の前で誓い合った正真正銘の夫婦ではある。しかし実態が伴っていない今、みんなと一緒がいいと言うのも違う気がして、エマは視線を外したままごにょごにょと口を動かす。
「わたくしは、ふ、ふたりきりでも平気ですわ」
「……そうか」
「だって、夫婦ですし」
最後はかなり小さな声になってしまった。馬車の音にかき消されたかもしれないと思ったけれど、グレイの耳はきちんと拾っていたようだ。
「ありがとう」
見ていないけれど、グレイは小さく笑っているような気がした。いつもより声音が明るい。
「では、帰りはそうしてみよう。もし心身に異常を感じた場合はすぐに申し出てほしい」
「心身に異常……?」
夫は相変わらず何を考えているか分からない。
◇
公爵家での晩餐は始終穏やかなものだった。
グレイは父の話にも興味を示し熱心に耳を傾けていた。それに気をよくした父が顔を綻ばせて一層話に熱が入る。
エマはそれが嬉しかった。
父の楽しそうな姿もだし、夫のことを気に入ってくれていることもそうだ。物語で「貴様に娘は渡さない」とか言って父が娘の交際相手と決闘するシーンがあったが、そうならなくてよかったと心底思った。
父はエマが政略結婚したことを申し訳なく思っている節があった。貴族であればそういうこともあるだろう。平民こそ結婚に自由がないとも聞く。
グレイとは政略目的ではあるけれど、今のところ仲良くやれていると思う。今日は父にそのことも伝えられたらなと考えていた。でもそれ以上にいい印象を残せそうだ。
「グレイ君、きみはなかなか見どころがあるな」
「恐縮です」
「忙しいとは思うが、またぜひ遊びに来てくれたまえ」
「光栄です。ぜひ」
父の手元にはエマたちが贈った海洋図鑑。気に入ってくれたようだ。
そして食事もひと段落すると談話室へと移動した。
父がエマに渡したいものとは、大量の絵であった。それも海の生物が小さくかわいく描いてある。聞けば、父の秘蔵コレクションで、海が恋しい日はこの絵を見たり、切り取って手帳に貼っていたと。
「かわいい。きれいな水彩だわ」
薄い紙に塗られた美しい顔料。海の生物ということで青色を多用してあるけれど、この絵の具の原料はもしかしたらラピスラズリだろうか。
「プティポートレイトクラシックと言ったか。それと同じで最近画家の稼ぎのひとつになっているのだ。これはとあるルートから入手した人気シリーズの中のひとつ、『海の生き物』。あえて簡易的に描くことに注力した新派の作品だ」
「聞いたことがあります。写実的であることが絵の価値を高める美術の風潮に、風穴を開けた者がいると」
グレイの相槌に父がこくりと頷きを返す。
「ああ。写実派からは猛バッシングを受けているが私は好きだ。もし彼らが困窮するのであれば援助も惜しまないが、まあすでに人気を得ているようだから心配もあるまい」
鑑賞してよし、切って貼るもよし。
他の絵と組み合わせるコラージュという技法でさらにかわいくするもよし。シーリッシュイラストリーフと呼ばれ、最近若い淑女のなかではシールで通っている。日記帳や手帳に貼ったり、仲のいい友人同士で交換したりもするらしい。
「わたくしが頂いてよろしいの?」
「私には本物の海が待っているのだ。もうそのようななぐさめは不要だしな」
父は満足げに頷いた。
「それにちょっとばかり収集に力が入りすぎて似たようなものをまだ持っている。そういう意味でもエマにもらってほしい。おまえはこういうものを集めていると聞いたが違ったか?」
「……集めてますけれど」
「そうかそうか」
どこでバレたのだろう。エマが集めているのは花や蝶、森の動物たちが描かれたものだ。公爵令嬢として皆の手本になるべき存在であったエマがそのようなキュートなものを集めているとは言えず、ひとりでこそこそしていた。側仕えにも言っていないのに。
そこへ割り込んで来たのはなぜか夫。
「であれば閣下。こちらなどいかがでしょう」
「こ、これは……!」
グレイが懐から出したのは手帳よりも少し大きな包みだった。中身は海の生き物が描かれた小さな紙片。デフォルメされたタッチで、どれも絵にそって器用に切り抜かれている。父が持っていたものとはまた違ったかわいらしさがあった。
「実は閣下へ贈りものをしたいと懇意にしている商人に相談したのです。するとこのようなものを提案された次第で」
「なんと見事な。しかし今日は既にすばらしい図鑑をもらっているし……その、グレイ君さえよければ私の持っているものと交換しないかね」
「よろしいのですか」
「もちろんだとも」
あとで聞いたところ、グレイが懇意にしている商人とは例の鍵付き日記帳やおそろいの文房具を販売しているらしい。女児どころかおじさんのハートまで掴んでいる。すごい。
「閣下、こちらもどうぞ」
「水くさいぞグレイ君。お義父さんと呼んでくれたまえ」
喜ぶ父と、それに付き合う夫。
ふたりを静かに見つめるエマ。
(おじさんたちが大まじめにシール交換してる……)
顔にはにこにこと微笑を浮かべているが、膝の上に乗せていた手はぎゅうっと握りしめられていた。
(べ、べつにうらやましいとか思ってないんだから!)
公爵令嬢として培った外面。特に父がいる前でおいそれと投げ出すわけにはいかない。それがエマの矜持である。
いや心は正直になろう。心だけは何者にも縛ることはできない。それが自身であっても縛る必要はないのだ。兄や姉たちを思い出してみる。自由の象徴かというくらい、みんな好きなことをやっているじゃないか。庭いじり、愛の伝道師、男装近衛、飼育員、下町三昧。みんな公爵令息令嬢なのに。
そう、エマは今、父たちがうらやましい。
とってもとってもうらやましい。
だが今は父と夫の交流を邪魔しない。
エマは高貴で立派な淑女であるので空気は読めるのだ。子どものように衝動のまま会話へ割って入るなどナンセンス。
しかし、後で覚えていなさいよと笑顔の裏で誓った。
帰り際、乗り込んだ馬車の室内にエリク達の姿はない。宣言通りに帰りはふたりきりとなったようだ。対面に座ろうとするグレイを自分の横に来るよう手で示す。こっち、と無言でシートをぽんぽんと叩けばグレイは大人しくそれに従った。ただし若干挙動が怪しい。いつもの無表情ではあるが、いつになくソワソワしているように思えた。
エマはグレイの服を無言で引っ張った。言いたいことの代わりにぐいぐいぐい。恥ずかしいので顔は伏せているが、頭上で困惑する夫の気配が伝わってくる。夫を相手にするとどうにも子どもっぽくなってしまう自分に呆れながらも、エマは意を決して口を開いた。
「わたくしもグレイとシール交換したいです」
「エマ……」
服を掴んでいた手にきゅっと力を入れる。
「色々持ってますのよ。森のキノコとうさぎシリーズなんて特別かわいいんですから。画家と約束したわたくしだけのシリーズで、他では手に入らないんですから」
思っていたことを素直にぶつけてしまった。
変な子だと思われたらどうしようと今更ながら不安が込み上げる。エマは高貴な令嬢で、十八歳で、今は立派な既婚者だ。駄々をこねるなんてあまりにも子どもではないか。気になって顔を上げると予想通りに無表情を浮かべる夫。エマをじっと見つめる瞳も変わらず冷たく澄んでいる。でもなぜかグレイは左手で胸の辺りを押さえていた。
「すまない。動悸がするようだ。きみといるとたまにこうなるのだが、今度医者に診てもらう予定だから心配しないでほしい。それとシール交換の件は喜んで受けよう。実はお義父上の分と別にきみへのシールも用意していたんだ」
エマの胸に広がったのは安堵と心配。
シールの件は嬉しいけれど動悸がするなんて。心身に異常をきたしているではないか。
「お体は大丈夫ですの?」
「今も苦しい。けれど平気だ。経験上一時的なものだと認識している」
全く苦しそうに見えないが、本人がそう言うのだから間違いないのだろう。しかしエマの中でひとつの疑惑が生まれていた。動悸とはつまり胸がどきどきすること。特定の人物を前にした時にどきどきするなんて、それってもしかして。
「……そうか。お義父上の気持ちがわかった気がするよ。確かにきみをひとり残して神の国へは行けないな。もし将来子どもを授かったとしたらなおさらだ」
おずおずと。
グレイの手が伸びて、エマの顔の近くまで来る。
頬を撫でようとしたのかもしれない。前髪を払おうとしたのかもしれない。けれどそれは空中でさまよったまま、結局触れてくることはなかった。
もどかしいけれど、そんなグレイを好ましく思った。
何を考えているか分かりづらくて、変わってて、優しい人。そろそろプロフィール用紙に好きって書いてあげてもいいかもしれない。そうエマが考えていると――
「きみも頬を赤くすることが多い。何かあったらすぐ使用人に伝えて、体を大事にするように」
「乙女心も気遣って!!」
まったく、エマを振り回すなんてひどい男である。
罰として腕を組んで横にぴたりとくっついてやった。さらなる胸のどきどきに、慌てふためけばいいのである。




