悪い男
『──家で飯作って待っててくれって言うのは、さすがにまだ早いか』
きっと、あの言葉は一生忘れないと思う。
ベリル・イーラムは、自分が場違いなのをひしひし感じていた。
レイと、その結婚相手──ニコルの結婚をお祝いする会場はベリルの持ち合わせている言葉では表せないくらい豪奢で、贅沢なものだった。
レイは、妊娠しているニコルに何度も体調を確認していて、彼女をうんざりさせていた。
彼は好きな女の子にはああいう態度を取るのだなあ、とベリルは思った。
レイは性格は最悪だし、意地悪ばかり言うが、見た目は良いので女性にさぞ人気かと思えばそうでもなかった。
新郎だからか、彼に見惚れている者はいても話しかける女性は一人もいなかった。
──逆に、性格も良いし優しいし格好良いし(以下略)自慢の恋人のナイジェルは物凄く声をかけられている。
皆、出るところが出ている綺麗で自信満々なキラキラしたお姉様方だ。
ナイジェルから紹介された唯一の女性は、第一支部の秘書官のマディソン・テイラーという人物だった。
身長はベリルより少し高いくらいに小柄だが、胸や尻がまあるい大人の女性だった。体にフィットした黒のドレスが似合っている。
笑うと垂れた目が溶けてしまいそうになるのが印象的だ。
こんな素敵な人が職場にいるなんて……不安になってしまう。
でも、マディソンにはフロイドという恋人がいるのでナイジェルには興味がない……はずだ。
そのフロイドはナイジェルの上司なので挨拶の際はとても緊張した。少し目が怖いと思ったのはベリルだけの秘密だ。
レイと初めて会った時と似た感覚……。
彼等からは、そこはかとなく危険な香りがする。
料理をいっぱい食べて、お酒もたくさん飲んで「美味しい」と言って笑うマディソンは年上なのに、とても可愛く見えた。
ベリルは少食で、すぐお腹いっぱいになってしまうので、食べ物を勧められても断ってしまい、とても感じが悪かったと思う。
マディソンは、そんなベリルを怒らないで「あなたの分も食べちゃうわ」と笑って、レイに「豚かよ」と言われていた。
なのに、全然気にしていなかった。強くて格好良い!
ベリルならそんなこと言われたら悲しい。
ベリルはこんな女の人には、今まで会ったことがなかった。
とても、素敵だと思った。
ナイジェルも、マディソンに懐いているように見える。
マディソンがナイジェルに何やら耳打ちをして、彼女の恋人とレイを交えて大笑いしてる場面を見て、もやもやとした気持ちになるベリルは性格が悪い。嫌な女だ。
絶対ナイジェルには知られたくない。
マディソンは、まともに挨拶ができないベリルを笑顔で許してくれた。
ついでになぜか頭を撫でられた。
その後、ナイジェルが少し機嫌が悪くなっていて反省した。
挨拶もできない自分が恥ずかしい。
少しだけ落ち込んでいたら、マディソンにデザートを食べに行こうと誘われて引っ張られた。
ベリルは、とても嫌な女である──笑いかけられて嬉しく思うのに、素敵なマディソンに嫉妬してしまう気持ちが生まれてしまう。
「あなたは、悪い男に捕まっちゃダメよ」
急に、言い出したマディソンに驚いた。
輝かしい笑顔を消して、ふっと一瞬だけナイジェルのいる方に視線を寄せたのだ。
ナイジェルは、悪い男の人なのだろうか。
ぶわりと背中に不安が押し寄せる感覚がして振り返ると、ナイジェル(とフロイド)が女性達に囲まれていた。
マディソンは、恋人が女性達に囲まれていても余裕な態度で、青い色のカクテルで喉を湿らせていた。
でも、ベリルには余裕などこれっぽちもない。
ニコルのように、輝かんばかりのオーラがあるわけでもなければ、マディソンのように大人の魅力もない。
今日着ているドレスの胸元は……控えめ過ぎである。
あるにはあるが、未発達な体は色気皆無だ。
ナイジェルは、そんなベリルに一緒に暮らそうと言ってくれた。
もう少ししたら金が貯まるから待っててほしいと真剣な顔で話された。
全額出させて、という夢みたいな素敵なお願いを聞いた。
──でも、どうしよう、怖い。
ベリルが帝都に来る前にいた田舎には、『おさんどん』という言葉がある。
名前の通り、食事の用意をする女を差す。
『悪い男に騙されちゃダメよ』
──悪い男。
マディソンの言葉が頭から離れない。
でも、ベリルは結局それでもいいと思ってしまった。
そもそも、自分は人から愛されるような人間ではない。
だって、父も母もベリルを愛していなかった。
ベリルはナイジェルが好きだ。
多分これからもっと大好きになって、愛になる人だと思っている。
いつか、『要らない』と彼から言われるまで一緒にいたい。
さようならと言われたら、せめて母のように惨めったらしくならないように努力しなければいけない。
ベリルは、育ってきた環境のせいで恐ろしく自己肯定感がとても低い。
言葉や表情には出さないが、「自分なんて」と思うのが常だった。
披露宴が終わった後、ナイジェルはベリルを部屋に送ってくれた。
泊まっていかないか、なんてはしたなくて言えない。でも、まだ一緒にいたい。
勇気を出して、「お茶でも飲んでいかない?」と誘った。
でも彼は、「おやすみ」と頭を撫でて帰ってしまった。
一瞬、ナイジェルの顔が歪んだ。きっと、軽蔑された。
こうやって、小さな不満を彼は重ねて、いつかベリルを嫌いになる。
ベリルは、自分に魅力がないことを自覚している。
ナイジェルは、綺麗な人とたくさん会って、ベリルを選んだことを後悔している。
どうしよう、悲しい。
鎖骨の奥が苦しくなる。涙を堪えて息を止めるといつも痛くなって苦しくなる。
泣いて縋ったら──嫌だ、そんなことは嫌だ。
母みたいには絶対なりたくない。
ナイジェルが休みの日にベリルの部屋を訪れるのはいつも昼間だった。
ご飯を食べて、夜には第一支部の寮に戻る。
ナイジェルはたくさん食べる。
何を作っても美味しいと言う。
いつもベリルに優しい。
だから、もうそれで十分だ。
『悪い男に騙されちゃダメよ』
頭から、マディソンの言葉が離れなくても、ベリルはまだ彼から離れたくない。
騙されててもいいのだ。
その日、ベリルはとっても落ち込んでいた。
勤めている食堂に、ナイジェルのファンだという女性が三人でやって来たのだ。
彼女達は、散々ベリルを馬鹿にした後料理に手も付けず帰って行った。
雇い主の女将は、ベリルにちくちく嫌味を言うし、近くにいた中年客はベリルを庇うふりをして体を触ってきた。そして嫌がると、怒鳴られた。
本当に、最悪な日だった。
ベリルは普段は絶対泣かないが、色々ずっと我慢してきた思いがぶわっと溢れてしまい、家路の途中で泣いてしまった。
通り過ぎる人々が、ちらっとベリルを見るのが分かる。
ハンカチで顔を隠しながら歩いて、部屋を目指せば扉の前にナイジェルが腰を下ろしていた。
ベリルは、いつでもナイジェルに会いたいが──今日は会いたくなかった。
「なんか顔見たくなったから」
そう言ってふらっと会いにくる彼に、なぜ今日なのだろうと思ってしまう。
もうベリルの気持ちはぐちゃぐちゃだった。
片想いしてる(と思っていた)時は、こんな不安になることはなかったのに……彼と恋人になれた途端、ベリルは母のように弱い人間になってしまった。
「ベリル……泣いてるのか?」
ナイジェルのせいだ。
彼の声がとても優しくて、ベリルの涙腺は崩壊してしまった。
一方、うええん、と泣き出したベリルに、ナイジェルは大慌てである。
おっとりしているが芯の強い彼女が、こんな風に泣くなんて思ってなかったのだ。
泣き方を知らない子供のような泣き方だった。
とりあえず、あやしてみたが……もっと泣いてしまう。どうしよう。
「どうした? 誰かに何かされたか?」
質問を、しながらナイジェルは完全犯罪を頭の中で組んでいた。
彼は今、冷静ではない。
ベリルがこんな風に泣くなんて、きっと酷いことをされたのだ──十八歳の想像力は、自分がしたい願望も混ざって、ベリルは彼の頭の中でかなり酷いことをされていた。
「殺してやるから、名前を教えろ」
物騒な言葉の割に優しい声色だ。
ベリルはしゃくり上げていた声を飲み込んだ。
強いて言うなら原因は、目の前の男。
でも、言うつもりはない。
ベリルは人への甘え方も頼り方も知らないので、こういう時は大抵嘘を吐く。
「ううん、ちょっと、転んじゃって……泣いちゃったの、ごめんね」
ベリルは騙せてると思った。
だって彼はいつもベリルの言うことを全部信じるから。
でも今日は違った。
ベリルの部屋の鍵で、中に入りベリルをベッドに座らせて自分はベリルの前に跪いた。
狭い部屋なので、ソファや椅子なんてない。
部屋でご飯を食べる時は、ナイジェルもベッドに座る。
でも今日は──というか、日が暮れた以降の時間は彼は絶対にベッドに座らない。
「ベリル、大丈夫。俺が何とかするから、言ってみろ」
「……こ、転んだの……」
「嘘言うな、お前は転んでない。いいから、言え。ぶっ殺してきてやるから。な?」
物騒である。『な?』ではない。
でも、ベリルは彼が自分の為に怒ってくれることが嬉しい。
笑っていない目を見ても怖くない。
やっぱりベリルは彼が大好きなのだ。
「ナイジェルは、悪い人なの?」
「…………何?」
「ナイジェルが、わ、悪い男の人でも、好きだよ」
「……」
ぐしゅぐしゅしながら言うと、彼はたまにする怖い顔をしていた。『悪い人』なんて言ってしまったのだから当然かも知れない。
「わ、私、ご飯作ることしか、できない……でも……」
──そばにいてもいい?
嗚咽で言葉が続かなかったが、ナイジェルには伝わったようだ。
何度も頷いてから、ベリルの両手を大きな手で包んだ。
「飯なんて、別に作んなくてもいいんだ。あれはお前のいるところに帰りたいって意味で言ったから。負担になるって知ってたら絶対に言わなかった。……ごめん。俺はベリルがそばに居てくれるだけでいい」
忘れ物を届けに行くと、彼は訓練中で会えなかった。
半分は、予想通りだなという気持ちで、もう半分は『がっかり』の気持ちだ。
眉を下げたマディソンに「ごめんなさいね」と必要以上に謝られ、お菓子とお茶をご馳走になってからお暇した。
本日のマディソンは、制服姿だった。
髪も一分の隙なく纏められてピシッとしていて格好良かった。ベリルには到底なれそうにもない素敵な女性である。
でも今日のベリルは落ち込んでいなかった。
「ベリル!」
後ろから、呼び止められ振り向くと恋人がいた。
「ナイジェル? どうしたの? 訓練中って……」
「お前が来てたって聞いたから。届け物ありがとな」
「ううん!」
走ってきてくれたことが嬉しくて、はしゃいだ声が出てしまうベリルは『大人の女性』にほど遠い。
でも仕方ない、嬉しいのは隠せないのだ。
「……もう行かなきゃダメだから行く。今日は早く帰れると思う」
「うん、待ってるね!」
同棲を始めたばかりなのに、月末の書類仕事で彼とは夜ご飯を一緒に食べれていなかった。
今日からは、それができると思うと嬉しくて堪らない。
「いってらっしゃい」
「おう」
走っていく後ろ姿を見て、ベリルはマディソンに言われたことを思い出していた。
『彼、あなたが好き過ぎて手が出せないみたいよ? 可愛いわよねえ。いいなあ、純粋な恋人』
それは……可愛い。
彼はいつも格好良いけれど、たまに可愛いのだ。
しかし彼ときたらキスも抱擁もしてくれない。
レイ的に言うならば『腰抜け』である。彼の言葉使いには思うところがあるけれど、これには少し同感である。
──今日の夜あたり、誘惑でもしてしまおうか。
女の子だって、好きな人には触りたい。
見かけに似合わず奥手な恋人を想いながら、ベリルは家路についた。




