11:形勢逆転
「……あれ?」
ゆっくりと身を起こし、自分の体を確認する。――頬を赤くさせつつ「そまりってば」とぷりぷり怒っているお嬢様は可愛らしいがひとまずおいておく――
殴打の痛みも火傷の痺れもまるで波が引いたかのように軽くなり、とりわけ深い胸元の傷も傷跡こそあるが血は止まっている。さすがに触れれば痛みは走るものの、刺され切り裂かれた傷とは到底思えない軽さだ。
俺にも回復能力があるとはいえ、ここまで急激に効果があるのはおかしい。そもそも俺の上位互換であるマイクス君がいまだ地に伏せ、ようやく顔を上げていられる程度なのだ。
突如として身を起こし平然とする俺を怪訝に睨み、次いで何かに気付いたのか目を見開いた。悔し気な視線が横に逸れ、お嬢様を睨みつける。
お嬢様が何かあったのだろうか。
だが今はそれを呑気に考えている場合ではない。
どういう理屈かは分からないがお嬢様のおかげで俺は回復した。
ふらつきこそするものの立ち上がることもでき、ペンライトを握る手にも力を込められる。火傷の痺れはまだ残っているが、それだって耐えられないものではない。
まだ戦える。そう己の体が訴えてくる。
「これぞ愛の成せる業……!」
素晴らしい、と感動しつつお嬢様に感謝を告げる。
はたして本当に『愛』なのかは定かではないが、なんにせよお嬢様のおかげであることに違いない。
俺の感謝にお嬢様はほっと安堵し、涙で潤んだ瞳で俺を見上げてきた。形良い唇で俺の名前を呼ぶ。先程までその唇に触れていたのだと考えれば、より鋭気が満ちるというもの。
そんなお嬢様の視線に深く一度頷いて返し、マイクス君へと向かって歩きだした。
さすがに駆けることは出来ない。歩くのがやっとだ。
だがやっととはいえ歩けている俺に対して、マイクス君はいまだ立ち上がれずにいる。上半身を起こすことこそ出来てはいるが、悔しそうにこちらを睨む表情からそれ以上は無理だと分かる。
「これで完璧に形勢逆転ですね」
まだ体に残る痛みと疲労で深く息を吐きながら告げれば、マイクス君の表情がより歪む。
彼もこの形勢逆転と己の立場の危うさを理解しているのだろう。忌々しいと言いたげに俺を睨みつけ、ギリと音がしそうなほど歯ぎしりをしている。
だがいかに俺を睨みつけようとそれだけだ。体は動かず、無理に立ち上がろうとして痛みに呻いている。
「ご安心ください。さすがに殺したりはしませんよ。……ですが、かといってこれで終わりでは済ませられません」
今のマイクス君の様子は非常に痛々しく、誰が見たって勝敗は決したと分かるだろう。
これで止めをさすのは酷である。
……だが、これでも止めをさすような男だからこそ、マイクス君は俺を選んだのだ。
情けはかけるまいとマイクス君の目の前まで立ち、オレンジ色に灯したペンライトを振り下ろした。
……その瞬間、
「ま、待ってください……!!」
と高い声が響き、西部さんが俺とマイクス君の間に割って入ってきた。
これには俺もぎょっとして、振り下ろしかけていたペンライトを慌てて止めた。
危なかった。あと少し反応が遅かったなら、俺のペンライトは間違いなく西部さんに当たっていただろう。お嬢様以外の人間はどうでもいい俺だが、さすがに西部さんはお嬢様の友人として認識している。
「西部さん、何を考えてるんですか」
「あの、待ってください……。私……!」
自分でも考えがまとまっていないのか、飛び込んできたわりには西部さんは的を射ない言葉を口にする。
割って入ったものの彼女には俺とやりあおうという決意や敵意は感じられず、それどころか弱々しく眉尻を下げて視線をそらしてしまった。その表情には恐怖と戸惑いしかない。
マイクス君に背を向けていることへの恐怖か、それとも俺の性格を知ったうえで俺に立ち塞がることへの恐怖か。見れば強く握りしめた拳が小さく震えている。
だがそれでも彼女は退くことなく、犬童さんとベイガルさんに名前を呼ばれると、逆にそれが背を押したと言いたげに俺へと向き直った。
「そ、そまりさん。もう霧須君は戦えません。こんなにボロボロで、立ち上がれないし……」
「えぇ、先程までほぼ同じ状況でしたから俺にも分かります」
「それなら、もう終わりにしてくれませんか……?」
お願いします、と頼み込んでくる西部さんの声が震えている。
だがそれを見ても俺の心は変わらず、立ち塞がる西部さんの横を抜けようとした。
次の瞬間、西部さんがカッと目を見開き……。
そしてあろうことか、俺のペンライトを掴みにかかってきた。
「さ、西部さん!?」
「止めてくれないなら、私が止めます……! わ、私が怪我をすれば、詩音ちゃんが悲しみますよ!」
ペンライトを両手で掴み、西部さんが自身を人質にして声をあげる。
幸いペンライトの色は打撃特化のオレンジ色にしており、掴んだところで彼女に被害はない。だが仮にこれが赤や青であったなら、今頃彼女の手は目も当てられぬ状態になっていただろう。
オレンジ色と判断したうえでの行動か、もしくは躍起になってのことか。
思い返せば、彼女は初対面時に自らを報酬にして満田さんを助けようとしていた。
追いつめられると誰より予期せぬ行動をとるタイプなのかもしれない。
「西部さん、いくらお嬢様の友人とはいえ、俺の邪魔をするなら容赦しませんよ」
あえて厳しい口調で言い捨てれば、西部さんがビクリと肩を震わせた。
だが手を離す様子はなく、決意を宿した表情で俺を見上げてきた。
「……確かに、復讐はいけない事かもしれません。止めなくちゃいけないのは分かります」
「いや、別に俺はその件に関しては」
「でも! 元々は私達が悪いんです!」
西部さんが胸の内を吐き出すように声をあげた。
苦し気な声だ。横目でマイクス君へと視線をやるが、その表情には罪悪感と後悔が綯交ぜになっている。
「霧須君が虐められていたのを目の前で見て……学級崩壊が起こってからも、霧須君が教室に通っていたのを知っていて、それでも私達は何もしませんでした……」
「次のターゲットにされるのが怖かった、といったところでしょうか」
分からない話でもない、と俺が問えば、西部さんがコクリと頷いた。
虐めは止めねばならない。だがそれが分かっても、立ち上がり行動に出るには相当な勇気がいる。
西部さん達はその勇気を抱けず、逃げに徹したのだ。
……霧須君を見捨てて。
「霧須君が……じ、自殺して……学校が休みになったんです。私達、怖くて誰も何も言えなくて……」
未来ある少年の自殺。学校側は虐めの事実を頑なに認めなかった。
世間はこのニュースに飛びつき、学校周辺には連日マスコミが集っていたという。
学業どころではなくなり小津戸高校はやむを得ず休校措置をとり、とりわけ霧須君が所属していた一年三組の生徒達は外出を控えるようにきつく言い渡された。
学内はさぞや騒然としたことだろう。その際の騒ぎは縁のない俺の耳にも届いたほどだ。
だがそれもそう長くは続かず、世間の興味もしばらく経つと次の話題へと移っていく。あれほど学校周辺に屯っていたマスコミもいつの間にかいなくなり、それを見計らって小津戸高校は学業を再開させた。
結果的に、虐めの真偽に関しては噂の域を出ないままだ。言葉は悪いが、だんまりを決め込んだ学校側の粘り勝ちとでも言えるだろうか。
「学校が再開して、菅谷君達も大人しくなって……それで、私達、思ったんです……」
ようやく終わった、と。
これで平穏な学校生活を送れる……と。
それがどれほど薄情な考えかは、誰だって言われずともわかるはずだ。
だがそれでも考えてしまう。再会された学校生活に安堵してしまう。
霧須武人についての話題はタブーとなり、誰もその話題に触れるまいとする。
進級しクラスメイトの顔ぶれも変われば尚の事その意識は強まり、大学進学を控える三年生に進級すれば、誰もが将来のことを口にし未来を見据えていた。
忘れたわけではない。
ただ思い出したくなかったのだ。
そして思い出せずにいられるほどには、霧須武人の存在は過去のものとなっていた。
「さすが、未来ある若者ですね」
皮肉めいた言葉を口にすれば、西部さんが耐えきれずに俯いた。
俺に言われずとも自身の薄情さを実感しているのだろう。見れば犬童さんや上津君達も苦し気な表情を浮かべ、耐えられないと言いたげに俯いている。
「霧須君が私達を恨むのは当然です……。私達は霧須君の虐めを見て見ぬふりしていたから……だから……」
「だから今回は助ける、と、そう言いたいわけですね」
西部さんの言わんとしていることを代弁してやれば、彼女は小さく肩を震わせたのちに頷いて返してきた。
「こんなことになって、私達の事に巻き込まれて、そまりさんが怒るのは当然だと思います。でも、悪いのは霧須君じゃないんです……!」
「いや、だからその件は」
「そまりさんと詩音ちゃんが連れてこられたのは私達のせいです……。だから、霧須君を殴るなら私を……!」
自分を殴ってくれと西部さんが訴える。
マイクス君の復讐心に罪悪感と責任を感じているのだろう。
そんな彼女の強い訴えを聞き、俺は小さく息を吐くと掴まれたままのペンライトを手放した。
西部さんが顔を上げる。信じられないと言いたげに見開かれた目が、俺の胸中を察するように次第に細められていく。
それに対して俺は一度頷いて返し、そっと彼女の肩に手を置いた。女性らしい小さな肩だ。
「西部さん、貴女の訴えは分かりました。お嬢様がこちらの世界に連れてこられたことに対して、マイクス君だけを咎めるのはおかしいということですね」
「そまりさん……!」
俺の理解を得たと、西部さんが感極まった声で俺を呼ぶ。ペンライトをぎゅっと両手で掴み、涙で潤んだ瞳を輝きやかせてじっと俺を見つめてくる。
そんな視線を受けつつ、俺は彼女の肩を掴み……。
「ですが、それはそれ! これはこれ!!」
と高らかに宣言すると共に、西部さんをグイと横にどかし、マイクス君へと殴り掛かった。
そりゃもう遠慮なしに、馬乗りになっての殴打である。
さすがにこれにはマイクス君も反応が遅れたのか、両腕で顔を庇うだけだ。
「そまり、さん。いま、西部さんの話、分かったんじゃ……!」
俺の拳を時に腕で受け、時に顔面にモロに喰らい、途絶え途絶えにマイクス君が訴えてくる。
それに対して俺は殴打の手を止めることなく「理解はしました」と答えた。
西部さんの言い分は理解した。
彼女が、マイクス君の復讐劇は自分達の責任だと言うのならそうなのだろう。それを否定する気はない。
巻き込まれた仕返しに自分を殴れと言われれば、さすがに俺も手を止める。お嬢様の友人を殴るわけにはいかない。
そもそも、お嬢様を巻き込んだことへの落とし前こそつけようとはしているが、俺個人としてはこちらの世界に連れてこられたことに関してはどうとも思っていないのだ。
お嬢様さえ居ればどこだっていい。
そしてお嬢様もまた、俺と同じように考えてくださっていた。
ならばなぜ馬乗りになって殴り続けているのかといえば……。
「惚れた女の前で無様な姿を晒して、引き分けではい終わりなんて出来るわけねぇだろ!」
そう告げてひときわ強い一撃を放てば、頬にもろに喰らったマイクス君が掠れた声を出し……、
顔を庇っていた腕をぱたりと地に落とした。




