07:雪洲そまりと霧須武人
一度目の自殺をはかり、異世界で新たな人生を得て、そして再び戻ってきた。
そんな霧須武人を迎え入れたのは、強い覚悟と訴えの末に変わった世界……ではなく、白い天井と壁に包まれた精神病院だった。
真っ白な空間は期待を絶望に変え、次第に復讐心が生まれる。
そんな矢先、一人の男が部屋に入ってきた。
医師や看護師ではない。パジャマ同然のラフな服装をしているあたり患者なのだろうが、この病院特有の鬱々とした雰囲気はない。
「……誰ですか?」
「おや、入室されている方がいましたか。これは失礼。前々回ぐらいにこの部屋を使っていた者です」
「この部屋を?」
「えぇ、その際に隠していたものを使いに来ただけですのでお構いなく」
丁寧な口調ながら、男が部屋へと入ってくる。
誰なのかだとか、どうやって鍵を開けたのかとか、そういった事がどうでもよくなるほどの堂々とした態度だ。礼儀こそあれども遠慮はない。
そうして男は勝手に椅子を移動するとひょいと乗り、天井の一角を押し上げて歪な機械を取り出した。大きさを言うならばトランク一つ程度だろうか。
いかにも『ありあわせの機械を組み合わせた』と言いたげな見目をしている。
男はそれを持って窓辺へと近付き、機械の一部を耳に当て、サイドに付いているハンドルを回しはじめた。その姿は、さながら映画に出てくるスパイが秘密裏に通信を取っているかのようだ。
あまりに突然のこと過ぎて、不審者だの医師に連絡だのといったことまで頭が回らない。
「……あの、それは?」
「これは俺が簡易的に作った通信機のようなものです。有り合わせで作ったので人様にお見せできるようなものではないんですが……あ、お嬢様? 聞こえますか?」
どうやら『電話のようなもの』が繋がったらしく、男の声がパッと明るくなる。
「ノイズ混じりのお嬢様の声もまた一興。えぇ、ご心配なく、明日の朝にはちゃんと帰ります。油壺マリンパークに行く約束ですもんね!」
"お嬢様”とやらと話す男の声は溌剌としている。
そうしてしばらく"お嬢様”と話すと、耳に当てていた受話器らしき機械を元の位置に戻した。どうやら通信は終わったらしい。
次いで再び装置を天井に隠してしまった。相変わらず真っ白な天井で、そこに通信機があるなどと誰も思うまい。
「休憩中のところ突然お邪魔して申し訳ありませんでした」
「い、いえ……」
「見たところ随分と若そうですが、苦労なさったようで。しかしここは脱走さえしなければ親身に寄り添ってくれる病院ですので、ゆっくり療養するのも良いでしょう」
「だ、脱走……?」
「明日は少し五月蠅くしてしまいますが、どうぞごゆっくり」
では失礼します、と男が一礼して部屋を去っていく。
その仕草や言動は優雅の一言に尽きる。これが病院で支給される服ではなくスーツや燕尾服だったならさぞや様になっていただろう。
思わず「何のお構いも出来ず……」と明後日な返事をし、退室する男を見送った。
その翌日、確かに院内は騒々しかった。
バタバタと小走り目に看護師が走り周り、いったいどうしたのかと武人が部屋から顔を出せば、たまたま看護師長が通りかかった。五十半ばの気風の良さと優しさを持ち合わせた女性だ。
「武人君、うるさくてごめんなさいね。起こしちゃった?」
「いえ、もう起きていたんで大丈夫です。……でも、何かあったんですか?」
「ちょっと問題が……。あ、でも大丈夫よ、安心して」
患者に気を使わせまいと考えたのかーーとりわけ病院が病院なだけにーー、看護師長が笑って誤魔化す。
それとほぼ同時に、パタパタと若い看護師が数人駆け寄ってきた。普段は穏やかに微笑んでいるが、今だけはどことなく焦りを感じさせる表情だ。
「師長、そまりさんどこにも居ませんー!」
「またあの男は……。仕方ないわ、誰か、雪州さんの家に電話して!」
「私さっき電話したら、意気揚々とそまりさん本人が出ましたー!」
情けない声で看護師達が訴える。
そのうえ、
「そまりさんから師長に『お孫さんの誕生おめでとうございます』って伝言まで託されましたー。おめでとうございますー」
半ば悲鳴のような切ない声をあげる看護師に、師長が盛大に溜息をついた。「今朝出産だったのに……」という声は随分と渋い。
なぜ知っているのかだの、騒動の張本人が祝うなとか、そういった感情が入り交じっているのだろう。胸中はかなり複雑そうだ。
だがそんな胸中も最後には諦めが勝ったのか、盛大に溜息を吐き、「部屋を片付けておいて」と指示を出した。渋かった声も今は覇気の無い掠れた声になってしまった。
「あの、そまりさんって、もしかして物腰穏やかな男の人ですか?」
「そうよ。あら、知り合いだった?」
「知り合いじゃないんですが、昨日見かけて少しだけ話をしたんです」
突然部屋に入ってきたかと思えば、謎の通信機でどこかに連絡を取り、礼儀正しく去っていった……とは、さすがに言い難い。あの謎の通信機についても、はたして師長に話してしまって良いものか躊躇われる。
だからこそ偶然出会って少し話をした程度だと伝えれば、師長はその件に関しては疑わずに信じてくれたのか、「そうなのね」と一言返すだけで話し出した。
雪州そまりは諾ノ森家に仕える執事である。
生まれもった才能と斜め上すぎる祖父の教育方針により、多数の言語を操りどの方面にも長けた技術を見せる、いわば『万能』の男。
何でも出来て、何をやらせても完璧にこなすという。ーー話を聞いていた看護師が「脱走も完璧です……」と肩を落としながら去っていったーー
いじめられ、その挙げ句の自殺にすら失敗した自分とは大違いではないか……。そんな自虐の考えが武人の胸に浮かぶも、師長達に気を使わせまいと出かけた言葉を飲み込んだ。
その代わりに、浮かんだ疑問を口にする。
「そんな凄い人が、どうしてこの病院に……?」
話に聞く『雪州そまり』は何でも出来る万能な男だ。
実際に話をした本人も、見たところ精神病院に入るような気配は感じられなかった。むしろ堂々としており、この病院では浮いて見えた。
だが思い返してみれば、そまりは部屋に入ってきた際に『前々回この部屋を使用していた』と言っていたではないか。少なくとも今回で三回目の入院、師長達の口振りからするに更に多いのかもしれない。
「そまりさんは確かに何でも出来るのよ。……でもね、あの人は何でも出来るのに何も出来ないの」
「何も出来ない?」
何でも出来るのに何も出来ないとは、まるで言葉遊びのようだ。
いったいどういえことかと尋ねれば、師長がまるで哀れむように目を細め、ゆっくりと話し出した。
・・・・・・・・・・
「そこでそまりさんの事を知ったんです。何でも出来るはずなのに、仕える主人のため以外には何も出来ない。自分の事を何一つ出来ないって」
「あの病院、患者の個人情報どうなってるんですかね」
「師長さんが『脱走する患者は患者にあらず』って言ってました」
「ぐぅの音も出ません」
反論出来ない、と俺が悔しげに声を出せば、マイクス君が苦笑しながら肩を竦めた。
だが俺の個人情報はさておき、これでマイクス君がどうやって俺の事を知ったかが理解出来た。
俺としては入院も脱走も数え切れぬほど繰り返しているので『いつ』と聞かれれば明確に思い出すのは難しいが、彼にとっては記憶に残る出会いだったのだろう。
……そして同時に、『この人だ』と明確に思ったに違いない。
他者とは比べ物にならない対応力。
万能で、それでいて培った技術を己のためには使えない最大でいて致命的な欠点。
唯一の動機である『お嬢様のため』であればなんでもこなし、さりとて、『お嬢様のためにならない』となれば何もしない。明確でいて簡単な取捨選択基準。
「それで俺を調整役に選んだわけですね。なるほど確かにこれで辻褄が合いました」
「そまりさんの事を知って、これもまた神様の巡り合わせかと思いました。今となっては、僕も悪魔に魂を売るように仕向けられただけかもしれませんけど」
まるで他人事のようにマイクス君が話す。
相変わらず俺が悪魔に魂を売った前提で進めてくるが、まぁ今それを気にするところではないだろう。
「それで……。あとは何か質問はありますか?」
話題の重さに反して軽い口調でマイクス君が尋ねてくる。
その声色は他愛もない会話をしているかのようだ。
「そうですね。他に聞きたい事と言えば……元いた世界に帰れるか、とか」
「あぁ、それですか。残念ながらお答え出来ませんね」
わざとはぐらかすマイクス君の声色は依然として軽い。
そこに俺達の境遇を想う色もなければ、全て己が仕組んだ事だと知られてもなお詫びる色も無い。西部さん達が絶望的な表情を浮かべて悲痛な声を出してもいっこうに変わらず、それどころか軽く笑い出した。
その態度は話す内容との温度差があり、見る者に畏怖を感じさせるのだろう。
だが俺はまったく畏怖も何も感じない。
なぜかと言えば……。
「話せば話すほど、マイクス君と俺の性格が似通っているように思えてきました。その薄ら寒く張り付いただけの笑みもよく鏡で見ます。これが似た者同士ってやつでしょうか」
「まさか本性を出した後に親近感を覚えられるなんて」
「なんでしたら、これからは『兄さん』と呼んでくれてもかまいませんよ」
冗談混じりに告げれば、マイクス君が困ったように笑う。
次いで「そんな……」と小さく呟き、張り付いた笑みを浮かべたまま、
「これから、なんてありませんよ」
と淡々とした声色で返してきた。
だがその声が僅かながら冷たさをもっているのは、このやりとりに呆れたからか、もしくは、もう仕舞いにしようと考えたからか。
「まだ僕の気が済んでませんから、全て明かされて終わり……なんてことは出来ません。そまりさんにはもうしばらく裏方を担って頂かないと」
「ここまで話して、俺が『はいそうですか』と従うと思いますか」
「思いませんね。……でも、力尽くって方法もあるでしょう?」
「おや驚いた。俺と一戦やりあうつもりですか」
マイクス君は元々俺のことを『壊れてはいるが万能』と知り、こちらに来て以降も俺がドラゴンとやりあったり闘技会で優勝していると知っている。それでも俺を力尽で従わせるつもりらしい。
彼と初めて出会った時は「情報屋ゆえに荒事は苦手」と自ら言っていたというのに。
だがよほど自信があるようで、自棄になって挑んできたという様子もなく、過剰に意気込んでいるようにも見えない。
となると、『荒事は苦手』という話自体が嘘だったのだろう。
「見たところ強そうには思えませんが、荒事に適した能力を持っているとなれば厄介ですね」
「えぇ、一番厄介だと思いますよ。僕の能力は……そまりさん、貴方と同じ能力ですから」
マイクス君が不適な笑みを浮かべる。
それを聞き、俺はもちろんこの場にいる誰もが驚愕の表情を浮かべ……。
全員の視線が、マイクス君の下半身に向かった。




