02:雪州そまりと諾ノ森詩音
夢の中で、夢だと気付く。
夢の中で過ごす過去の俺は俺ではありつつも、薄ぼんやりとした今の俺の意志とは別に動いてしまう。さながらPOV方式で記憶を追体験しているような感覚だ。
小学生時代の、懐かしむ気も起こらない記憶。
色あせた世界で、なんでも出来るはずなのに何にも出来ず、何でも出来るんだからと周囲から言われ続ける日常。
そんな日々の終わり。
夏の暑さの中、ランドセルを背負って一人で帰路についていた俺は、背後から声をかけられた。
見知らぬ老人だ。俺をじっと見つめ、「そまり」と呼んでくる。次いで「こんなに大きくなって」と愛でるように俺へと手を伸ばしてくる……。
なので、俺はランドセルに着けていた防犯ブザーを鳴らした。
そりゃもう遠慮も躊躇もなく。
ビィイイイ!! とけたたましい音を周囲一帯に響かせた。
「そ、そまり、落ち着け、お前のじいちゃんだ」
「嘘つくな。母さん方のじいちゃんには会ったことあるし、父さん方のじいちゃんは俺が生まれる前に死んだって父さんが言ってたぞ」
「それは大人の事情ってものがあってな……。とりあえずそのブザーを止めてくれ」
見知らぬ老人に諭され、ひとまず警戒しつつブザーを止める。
心配そうに顔を出してきた近隣の家の方々には「大丈夫です」と頭を下げておいた。「何かあったら鳴らしてね」とおばさんが告げて家へと戻っていく。
「お前の父さんが出て行ってから殆ど絶縁状態だからな。本当ならこうやって面と向かって話すこともなかったはずだ」
「……仮に、万が一に、もしもの可能性で、本当に俺のじいちゃんだとして、どうして今声をかけてきたんだ?」
「随分と疑う……。まぁいい、お前に声をかけたのには理由がある。お前がどうにもみていられなくてな」
「みていられない?」
「あぁ、そうだ。お前は何でも出来る優れた子だ。私に似て……似すぎて……だからこそ辛かっただろう」
俺を見つめる老人の目が細くなる。子供を愛おしむ瞳とは違う、一人の人間を前にし、心から哀れんでいるという瞳。
初めて向けられるその瞳に、幼い俺はドキリとした。胸の内を見透かされているような気がする。
「辛いなんて……そんな……」
そんなことはない、という否定の言葉が出てこない。
何でも出来る身で辛いなど我が儘だと、そんな声が俺の脳裏に蘇る。家で、学校で、幾度となく聞いた声だ。父親、母親、兄、クラスメイト、教師……。
「そんなこと……ないから……」
ようやく絞り出した俺の声は随分と細い。
望遠鏡と共に世界が色あせたあの日から、父とどう接していいか分からなくなった。
父はあの一件でタガが外れたのか、俺と兄の対応に明確な差を付け始めていた。どんな状況であっても兄を庇い俺に我慢を強いて、「お前は何でも出来るんだから」と俺をお座なりに扱う。母親もそれにつられ、となれば兄も自然とそれを倣う。
いつしか、どころか早々に俺は家族への期待を失ってしまった。
色あせた世界で、色あせた家族と生きる。
色あせた学校では色あせたクラスメイトと教師が、俺を『何でも出来る』と冷ややかに話す……。
それを……。
「俺は何でも出来るから、辛いなんて言っちゃいけないんだ……」
俯きながら呟く。
それを聞き、老人が……俺の祖父が、落ち着いた声色で俺の名前を呼んだ。
「そまり、こちらに来ないか? これからはじいちゃんと暮らそう」
「やっぱり誘拐犯だ!」
「違うから防犯ブザーから手を離せ。お前がいまいる世界は、お前が生きていくには狭すぎる」
だから、と話し、祖父が手を差し伸べてくる。
俺は防犯ブザー片手にその手を見つめ……。
そして手を取った。
・・・・・・・・・・・
暗い部屋で、ぼんやりと目を覚ます。ゆっくりと起きあがって周囲を見渡せば、暗闇のなか、それでも見慣れた部屋の調度品が見えてきた。
諾ノ森家の従業員にある俺の部屋……ではない。だがさすがに一年近く過ごせば違和感は無くなり、今では自室と認識出来るほどに馴染んだ。
こちらの世界の、俺の部屋。
そこに設けられたベッドで目を覚ましたのだと改めて認識し、枕元においていた時計を手に取った。
まだ深夜とさえいえる時間だ。
この時間に目を覚ますのは珍しい。それほど夢見が悪かったということか。
「まぁ、爺の夢だったし早く覚めるにこしたことはないか。俺が悪夢を見るなんて珍しい」
祖父との再会を『悪夢』と言い切り、ひとまずベッドから出る。
本来ならばもう一度寝なくてはいけないのだが、どうにもその気にならない。落ち着かないというべきか、妙に目が冴えてしまったと言うべきか。
お嬢様との睡眠時間の約束があっても寝付けないとは俺らしくない。そう考えつつ、部屋の明かりを灯した。
もっとも、明かりをつけたとはいえ、以前いた世界のように日中同様に部屋が明るくなるわけではない。王宮やそれに連なる施設ならば明かりも十分だろうが、一般家屋の、それも間借りしているような部屋では明かりもたかがしれている。
机の上に置かれた明かりと併せてようやく本が読める。その程度である。
そんな部屋の中で、俺は特に目的もなく椅子に座り、申し訳程度の街灯が灯る外の景色を眺めた。
・・・・・・・・・・・・
爺の手を取った俺は、そのまま爺の運転する車で諾ノ森家へと向かった。
世界に名だたる諾ノ森グループ、小学生といえどもその名前は知っている。そこで祖父が働いていると聞いたときは幼いながらに驚いたものだ。
そのうえ、今日から俺も使用人として働くというではないか。
祖父は死んだと聞かされていた俺にとって、まさに青天の霹靂。
そうして向かった諾ノ森家で、まずは使用人見習いとして働く。
だが小学生といえど当時の俺は大人顔負けに優れており、教わったことは一度で覚え、たった数日で任された仕事を完璧にこなしていた。
「さすが源十郎さんの孫だな」
と、そんな声があちこちから聞こえてくる。
だがそんな声に対しても俺はどうして良いかわからず、それでも学校に通うよりはマシだと、唯一もといた家の名残であるランドセルを部屋の押入にしまいこんだ。
以降、俺は一度も学校に通っていない。――否、これから更に後、爺の思い付きで国内外問わずあちこち行かされ、その中には治安の悪い高校や国外の大学もあった。ゆえに正しくは『以降、俺は一度も“まともな手順では”学校に通っていない』というべきか――
「そまり、ちょっとお話しましょう」
そう声をかけられたのは、諾ノ森家にきて二年が過ぎた頃。
庭の手入れの最中に横から声を掛けられたのだ。
見れば、幼い少女が一人。ちょこちょこと俺に近付いてきて大きな瞳で見上げてくる。
諾ノ森家の一人娘、諾ノ森詩音。
初めてこの家に来たときに挨拶をした。だがそれだけだ。
それ以降は遠目で見かけることはあったが、彼女には常にベテラン使用人達がついていたので見習いの俺が近付く事はない。そのうえ小学校に続き中学も通わずにいる俺と違って、彼女は毎日学校にも通っていたため、今日まで直接顔を合わせることはなかった。
「俺とですか? 面白い話なんて出来ませんけれど」
「良いのよ。あっちの木の下でお話しましょう」
来て、と詩音お嬢様の小さな手が俺の服の裾を掴む。
まだ仕事中だが断ることも出来ず、仕方なく手入れ道具を手早くしまって彼女の後に続いた。
木陰に敷かれた花柄のレジャーシートに座り、用意されていた水筒からお茶を注いでやる。
「みんながね、そまりの事を心配してるのよ」
「俺のこと……?」
「そまりが、お仕事が終わったらお部屋で動かなくなっちゃうって」
詩音お嬢様の言葉に、俺は小さく「そのことか」と呟いた。
望遠鏡の一件以降、俺の世界は色あせたままで、そんな世界で何も出来なくなっていた。勿論やれと言われたことは出来る。だがその後は何をすべきかが分からない。
両親に聞いたところで「何でも出来るんだから勝手に何かやればいいだろ」と突き放され、もちろん兄も答えはくれない。本来ならば遊びに誘ってくれるはずの友人もいない。
その結果、あの家で過ごす時間の殆どを、俺は自室で机に向かって何もせず過ごしていた。
それは諾ノ森家に来ても変わらず、仕事が終わりタイムスケジュールに沿って食事と入浴をすませた後は、ひとり自室で椅子に座っていた。それどころか、休日に至っては一日この状況だ。
何をすべきか分からない。だから何もしない。
部屋で一人、椅子に座って、なにもない机をじっと見つめて過ごす。
なんでも出来るのに、何もせず、本を読むことすらしないのだ。
「どうしてそまりは何もしないの? 私なんて毎日やりたいことがいっぱいあるのに」
「それは……」
「お友達と遊びたい日もあるし、わんちゃん達のお散歩に一緒に行きたい日もあるわ。昨日はピアノのレッスンを頑張りたい日だったの」
「詩音お嬢様の毎日が充実しているようで、ようございます。……それに、詩音お嬢様と俺は違いますから」
「違う?」
「いえ、なんでもありません。俺と話していてもつまらないでしょう、他の者を呼んできます」
「そまり」
立ち上がろうとする俺を、詩音お嬢様が名前を呼んで引き留めた。
小さな手が、俺の手をそっと握ってくる。
「今日はそまりとお話したい日なの。誰かとお話したい日じゃないわ、そまりじゃないと」
「詩音お嬢様……」
「お話ししましょう。そまり」
幼いながらに言葉を選んでいるのだろう。詩音お嬢様は具体的なことは言わず、それでもじっと俺を見つめて話の先を促してくる。
その瞳に俺はわずかに躊躇い……。
「……自分のために、何もしたくないから」
そう、吐き出すように小さく呟いた。
「自分のために……?」
「俺は俺のためになることを何一つしたくないんです。だから仕事が終わったら何もしない、何もできない……だって」
世界で一番、俺は俺が大嫌いだ。
俺がもっと別の『雪州そまり』であったなら、家族とも友人とも教師ともきっと上手くやれていたのに。
子供らしく頑張ることも、甘えることも、駄々をこねることもしない可愛げのなさ。たった一度の反論だって成功しなかった。
何でも出来るくせに、俺のためになることは何にも出来やしない。
だから、世界で一番大嫌いな俺のためになんて何もしたくない。
そう胸の内を吐露するように話せば、俺の手を握る詩音お嬢様の手に僅かに力が入った。
俺の手だってまだ小さく、詩音お嬢様の手は更に小さい。俺の手を包んでいるが両手を使ってやっとだ。
「俺は何でも出来るから『俺のために何もしない』って決めたんです」
「だからいつもお部屋で椅子に座ってるのね」
「仕事なら何でもします。仕事の時間内は『諾ノ森家の使用人』ですから」
任された仕事はきちんとこなす。
だがそれが終われば、俺は『ただの雪州そまり』であり、俺が世界で一番嫌いな存在だ。だから何もしない。
そう俺が話せば、詩音お嬢様がしばらく考えたのち、グイと俺に身を寄せてきた。
「それなら、そまりを私にちょうだい!」
「俺を詩音お嬢様に? なにか仕事があるのなら仰っていただければ……」
「そうじゃないの。お仕事終わってそまりが『ただのそまり』でいる時も私のためにいて」
「お嬢様のために……」
「約束して!」
お嬢様が小指を立てて俺に差し出してくる。
指切りをしたいのだろう。はしゃぎながらのこの提案に、俺は肩を竦めつつ「かしこまりました」と答えて己の指を彼女の小指に絡めた。
子どもが交わす約束。
そんなことを、心のどこかで、子どもながらに考えて応じたのだ。
だが指切りが終わるや、詩音お嬢様は落ち着きを取り戻し、それどころか穏やかな声色で俺を呼んできた。
五つ年下のはずの彼女が、不思議と年上に見える。落ち着いていて諭すような表情だ。細められた瞳には慈愛の色さえ見える。
「これでそまりが世界で一番嫌う『ただのそまり』はどこに居ないわ。お仕事の時も、お仕事が終わった後も、いつだって『私のそまり』だもの」
「詩音お嬢様の俺、ですか……」
「そうよ。それでね、そまりが私のために生きてくれるなら、私がそまりのために生きてあげる」
穏やかな口調で詩音お嬢様が告げる。
そうしてゆっくりと両腕を広げると、小さな体で俺を抱きしめてきた。
細い腕が俺の首に回され、小さな手が俺の頭を撫でる。
「そまりが世界で一番自分を嫌っても、私が世界で一番そまりを好きでいるわ」
だから大丈夫。
そう告げてくる詩音お嬢様の言葉に、俺は言葉を詰まらせ……、
世界が色を失ったあの日から堪えつづけたものを、ようやく涙に代えることができた。
・・・・・・・・
随分と昔のことを思いだし、なんとも気恥ずかしい思いが胸にわく。
あの瞬間に俺はお嬢様のために生きると決め、すべてをお嬢様に捧げると誓ったのだ。
仕事が無い時も『詩音お嬢様のそまり』として、お嬢様に釣り合う存在になるべく勉学や運動に励んだ。少しでも早くお嬢様付きになりたくて仕事も意欲的に覚え、お嬢様付きのベテラン執事に弟子入りもした。
そうして、今の俺がある。
つまり今の俺の殆どは、お嬢様の優しさで作られているのだ。優しさ半分の医薬品なんて目じゃない割合である。
そんな事を考えていると、扉がノックされた。
声を掛ければ、キィと扉が開き……、
「夜更かし警察よ!」
と、お嬢様が元気よくぴょこんと部屋へと飛び込んできた。
「お嬢様、こんな夜更けにどうされました?」
「お水を飲みにきたの。そうしたらそまりの部屋から明かりが漏れてて、夜更かし警察の出番だと思ったのよ」
「それは参った。取り締まられてしまう」
冗談めかして返せば、お嬢様が楽しそうに笑う。
そうして俺が眠っていたベッドへと近付くと、もそもそとその中に入っていった。布団から顔を出して、すっかり眠る体制を作ってしまう。
そのうえ、ぽんぽんと枕を叩いて俺も来るように促してくるのだ。
「お嬢様、みだりに男の布団に入ってはいけませんよ。俺が眠っていたベッドに横になる、これは既に同衾したと言っても過言ではありません」
「夜更かし警察が眠るまで見届けてあげる」
「お嬢様が隣にいては、理性と欲望のせめぎ合いで眠れる夜も眠れません」
だからと布団から出るように促すも、お嬢様は頑として譲らず、目元まで布団をあげることで拒否の意志を示してきた。
これは徹底抗戦の表情である。
「眠っている間に襲われたらどうするんですか」
「そまりは眠る私を襲うの? 私の睡眠を邪魔するの?」
「お嬢様の大事な睡眠を邪魔するようなことはいたしません! ……なるほど、かしこまりました。眠れぬ夜を過ごします」
俺の負けだ、と心の中で白旗を上げつつ、お嬢様の隣に横になる。
お嬢様が俺にぴったりと寄り添い、ぽんぽんと俺の胸元を叩いてきた。
まるで子供の寝かしつけだ。さすがにそれは必要ないとお嬢様の手を取って布団の中に戻せば、くすくすといたずらっぽく笑う。
俺と一つの布団に入っているというのにこの余裕。
お嬢様がいやがることを俺がするわけがないと信じ切っているのだ。
その信頼はありがたく、まったくと溜息をつきつつ枕元の明かりを消した。
部屋が真っ暗になり、静かな呼吸の音だけが続く。
そんな中、眠れぬ俺はささやくような声でお嬢様を呼んだ。どうやらまだ起きていたようで、少し微睡んだ「なぁに?」という声が返ってくる。
「……もしかしたら、お嬢様は俺のせいでこちらの世界に連れてこられたのかもしれません」
「そまりのせい?」
「えぇ、そうです。色々と考えたんですが、俺はとある筋書きの裏方として投じられた可能性があります。お嬢様はきっと、俺に深く関わっていたから……」
仮に俺が目当てだとすれば、お嬢様は俺を操るための手段として連れてこられた可能性が高い。それも、端役ですらない裏方の補助として。
そのために親元どころか元いた世界から離されたとあれば、俺の胸に罪悪感がわく。だが申し訳ないと詫びようとしたところ、お嬢様がむにと俺の頬を抓ってきた。
「そまりのせいじゃないわ」
「お嬢様……」
「それに、もしもそまりのせいなら謝るよりも責任をとって」
「責任?」
いったいどう責任をとるのか。
そう尋ねようとするも、それより先にお嬢様がグイと身を寄せてきた。
彼女の顔が間近に迫り、形良い唇が俺の唇に……ではなく口の端にむにゅっとぶつかった。唇でふれるキスと、頬へのキス、その中間といったところか。
「あら失敗。暗いから目測を誤ったわ」
「お嬢様、なんてことを……!」
あわてて俺が身を引けば、部屋の暗がりの中、お嬢様が得意げに笑う。
そうして俺にすり寄り、
「責任をとって、こちらの世界で私を幸せにして」
甘い声でお嬢様が告げ、「おやすみ!」と恥ずかしそうに話をしまいにした。
そんなお嬢様の優しさと甘さに、申し訳なさが占めていた俺の胸もゆっくりと暖まり……。
「ではおやすみのキスを……。おっと、暗いから目測が」
わざとらしく告げて、彼女の額に……ではなく、唇にキスをした。




