16:一晩経て翌日
「誰もいなかった?」
そう俺が尋ねれば、向かいに座るベイガルさんがシフォンケーキを一口頬張って頷いた。
場所はギルドの彼の執務室。ギルドが賑わうにはまだ少し早く、程よい静けさは報告には適している。普段ならば忙しく書類仕事をしていたり、あっちこっちと声を掛けられているベイガルさんも、朝食を兼ねたこの時間は落ち着いて過ごせるらしい。
俺達が囲むテーブルには、二人分の紅茶と例のシフォンケーキ。シフォンケーキには生クリームが添えられており、男二人が挟むには些か華やか過ぎではある。ベイガルさんは既に半分程食べているが、俺はどちらも手付かずだ。
ちなみにお嬢様はまだ家にいる。
今までの疲労と心労が祟ってか西部さんが一向に起きてくる気配が無く、俺だけ先にギルドに向かう事になったのだ。西部さんの寝顔を覗き込み、「私がそばにいるから大丈夫よ」と囁きかけるお嬢様のなんと母性溢れる事か。聖母だ。拝みたくなる。
そんなお嬢様と西部さんを家に残し、先にギルドに来て依頼完了の手続きと報告を済ませ……先程の俺の言葉である。
「誰もいなかったってどういうことですか?」
「回収に向かわせた奴らから、ダンジョンはあるが誰もいないって連絡が来た」
「場所を間違えた可能性は?」
「念のためコラットにも確認に行ってもらったから間違いない。それに、お前が暴れまわった跡はあったらしい」
崩れた壁、あちこちに散る血痕、もがき苦しみ爪で床を掻いた跡。吐瀉物と汚物が残る跡地は、悲惨の一言に尽きるだろう。ファブっておくんだった。
だが今は回収の人達の嗅覚を案じている場合ではない。
なにせ、あれだけ痛めつけ逃げられないようにしたのに、ダンジョンには一人として残っていなかったのだ。
仮に逃げる手段があったとしても、責任を擦り付け自分だけは助かろうと命乞いしていた彼等が助け合うわけがない。己の保身のために出し抜き、能力だとすれば当人だけが逃げたはずだ。
となれば第三者が助けに来たか。……もしくは、攫われたか。
「彼等を心配する気は欠片もありませんし、どうなろうが知った事じゃありませんが、気分の良いものじゃありませんね」
「一応何人かは残って探ってもらうように言ってある。他のギルドでも調査が入るし、何か分かったら優先的に情報を回すようマイクスに頼んでおいた」
「そういえば、マイクス君は?」
シフォンケーキはあるのに、それを持ってきたはずのマイクス君の姿が無い。
それを問えば、ベイガルさんが話し出す前にと紅茶を一口飲み、そっとカップをソーサーに戻した。シフォンケーキに生クリームが添えてあったり、柄の揃ったティーカップとソーサーだったり、このオッサンモドキ、無駄に所作や身の回りが優雅である。
「マイクスは今回の件で近場のギルドをまわることになったらしい。達示とシフォンケーキを届けてすぐ出て行った」
「働き者ですねぇ。十代のマイクス君が慌しく働いてるのに、二十代の俺と三十代のベイガルさんがのんびりティータイムとは、なんだか申し訳なくなりますね」
「その申し訳なさは俺に抱け。そもそも、ティータイムって言ってもお前いっさい手を付けてないだろ」
ベイガルさんが俺の手元に視線を向けてくる。
切り分けられたままのシフォンケーキと、時間が経って崩れかけている生クリーム。紅茶は既に冷め切っている。
どうして手を着けないのかと言及するような彼の視線に、俺はどう答え良いものか迷い、誤魔化すように笑っておいた。
シフォンケーキと紅茶が嫌いなわけではない。
だけど自分が紅茶を飲みたいのか、シフォンケーキを食べたいのか、どうして良いのか分からない。
だってこれはお嬢様のためじゃない。
「……別に、今はそういう気分じゃないんです。朝食も済ませてきましたしね」
「ふぅん」
俺の説明に、ベイガルさんが素っ気なく返す。どうやら納得していないらしく、視線は随分と訝し気だ。
だが室内に軽いノックの音が響くと、意識と視線をそちらにやってくれた。俺も同様、扉へと視線を向ける。
そうしてベイガルさんが返事をすれば、ゆっくりと開かれた扉の隙間から、お嬢様がそっと顔を覗かせてきた。
俺達が話し込んでいると思ったのか、窺うように覗くその姿のなんと奥ゆかしいことか。己の執事とオッサンモドキが相手でも気遣いを忘れない、まさに聖母。
そんなお嬢様と共に姿を現したのは西部さん。お嬢様のワンピースを借りた彼女は、俺を見るなり勢いよく頭を下げてきた。
「そまりさん! 昨日は本当にありがとうございました!」
「いえ、お気になさらず。俺は依頼をこなしただけですから」
「でも、依頼の報酬も少ないのに助けてくれて……。それにれいちゃんの事まで」
「別に満田さんの件は面倒事を避けただけです。そうだ依頼と言えば、こちらがうちのギルド長です」
そう俺がベイガルさんを紹介しようとする。
だが名前を伝えるより先に、西部さんが「23歳……!?」と息を呑み、次の瞬間俺の右足に衝撃が走った。
思わず呻き声と共にテーブルに突っ伏せば、お嬢様が「そまりー!」と駆け寄ってきた。
「ぐぅ……今回もまた俺に唯一ダメージを与えるのがあんたか……」
「それが嫌なら変なこと吹き込むな」
ベイガルさんがきつく俺を睨みつけてくる。が、今更それに俺がひるむわけがない。
右足をさすってくれるお嬢様の手をひょいと掴んで握りしめ、少しずつ引き寄せていく。俺の意図を察したお嬢様が「囚われたわぁ」と甘い声と共に俺の腕の中に入ってきた。
そうして抱きしめれば、お嬢様がテーブルに視線をやり、パッと瞳を輝かせた。
何を見たのか? もちろん、テーブルの上にあるシフォンケーキだ。
一人分に切られていてもふかふかとした柔らかさは損なわれず、上部に飾られた砂糖漬けの花は美しく食欲を誘う。
一目で魅せられたのか、お嬢様のお腹の小鳥がクルルと鳴き声をあげた。なんて愛らしい音色だろうか。「やーん」と恥ずかしがって俺の胸元に顔を埋める姿も愛おしい。
「今すぐに切り分けて持ってきますね。それとも、手付かずですから俺の分を先に食べますか?」
「いいの、報告が終わったら杏里ちゃんと食べるわ。それにそのシフォンケーキはそまりの分だから、そまりが食べなきゃ。きっと紅茶とよく合うわ」
「えぇ、そうですね」
お嬢様に促され、シフォンケーキを切って口に運ぶ。
甘さを抑えたシンプルなシフォンケーキ、砂糖漬けの花が仄かな甘さと香りを滲ませる。確かにこれは至高の一品だ。美味しいと感想を告げれば、お嬢様の瞳に期待の色が満ちる。
次いでお嬢様の視線が向かうのは、このシフォンケーキを共に食べる予定の西部さん。
彼女は俺達のやりとりを苦笑交じりに見守っていたが、はたと気付くと今度はベイガルさんに頭を下げた。
「あ、あの! 依頼を受けて頂きありがとうございました! もしあのまま受けて貰えてなかったら、私もれいちゃんも今頃どうなってたか……」
「ギルド長として気になる仕事を拾っただけだ。だが話が少しでかくなってな、これから色々と話を聞かせてもらう。だが辛い事なら言わなくていい、報告を誤魔化すのは得意だ」
「……オッサンモドキさん」
「ベイガル・ラドグール!」
「ひあぁあ、すみませぇん……!」
西部さんが切ない声と共に再び頭を下げる。
「まぁいい、全てはそまりが悪い。それで君は……確か、西部・ゲンエキジョシコウセイ・杏里だったか。ここで働きたいなら、まず能力を見せて貰いたい」
「そんなミドルネームはありませぇん……!」
またも西部さんが切ない声で訴える。
そんな二人のやりとりに思わず俺がニヤリと笑みを浮かべれば、腕の中のお嬢様が「悪い顔ね」と俺の頬をツンツンと突っついてきた。――もちろんその後ベイガルさんのえげつないローキックが放たれたのは言うまでもない――




