9. カルチャーショック
■ 15.9.1
「どうかしたか?」
俺の方を注視する二人の視線に少し戸惑いながら、訊いた。
何も特別なことをしているつもりも無ければ、おかしな事をしているつもりもない。
「それは、テラの食い物か? 随分美味そうな匂いがする。」
と、視線をこちらに向けたままディングが言った。
そこで気付いた。
三人が乗船してからすでに何日も経過しているが、乗客に対する様々なサービスのことを考えて、食事を共に摂ったことは無かった。
食事中に彼等が追加のメニューや飲み物、その他様々な要求をしてくる事を考えて、彼等が食事をしているときには主にルナを中心として常に誰かがダイニングルームに待機するようにはしていた。
だが、要求に応じて遅延無くサービスを提供するために、一緒に食事をするという事をしていなかった。
俺達乗員の食事は、乗客が食事を終えて自室に引っ込んだ後に取る様にしていたのだった。
ベルセンテルーク帝国は、封建制を敷いているため各地方にはその地方を治める領主としての貴族が存在する。
貴族とは地方領主でもあるが、一方では文化の維持者という一面も持っている。
領内から吸い上げた莫大な金を当然ながら領地運営に注ぎ込まねばならない義務を負っているが、それとは別に自領の文化や技術と云った無形のものを維持し育む義務も負っている。
そのため封建制国家は共和制国家や独裁制国家に較べると豊かな文化を維持している傾向があり、ベルセンテルーク帝国もその例に漏れない。
食文化とそれを支える料理技術といったものも貴族が保護すべき対象なのだ。
正にその貴族であるディングの手元には、市井に較べてそういった文化的なものが沢山残っているはずであり、それは帝国の国内に限ったことでは無く、他国と較べても随分文化的な暮らしをしているはずだった。
しかしそんなディングとレイシャが、俺がパクついているクロックムッシュから目を離さない。
それほどに物凄い料理を食っているわけでは無い。
むしろスナック(軽食)に分類される簡単なメニューだ。
どうやら俺の前にある皿から湧き立つ、チーズの焼けた匂いや、ペシャメルソースが僅かに焦げた匂い、焼けたハムから漂う肉の匂いが二人の嗅覚と視線を捉えて放さないようだ。
「クロックムッシュという軽食だな。ちょっと小腹が空いたときにちょうど良い。」
「テラには我々が失った多様な文化が存在すると聞いている。遠く離れた殆ど交流も無い帝国にまでその噂は聞こえてくる。」
ベルセンテルーク帝国は、銀河の反対側とまでは云わないが、しかし地球から相当な距離にあることは確かだ。
ソル太陽系に定期航路を持つハブ星系や、地球を訪れた商人達が寄港していく比較的近場の星系では、雑多で中毒性の高い地球文化がかなり浸透し始めている。
侵蝕、と言っても良い。
遙か彼方のベルセンテルーク帝国にまでその噂が聞こえているとは、ちょっと鼻が高いぞ。
まあ、ディングが貴族だからそういう情報にも明るいだけなのかも知れないが。
「知っての通り、俺達はまだ若い種族だからな。ほんの十万年前まではまだ洞穴に住んでいたような未開の種族だよ。」
「いやむしろ、僅か十万年で多様性に富んだ文化を開花させ、戦争に参戦して無視できない存在感を有するに至ったその勢いこそ驚嘆すべきだと俺は思うね。少なくとも我が国には、そのクロックムッシュという食べ物ほどに殺人的に美味そうな匂いを撒き散らす食い物は存在しない。」
そう言ってディングとレイシャはなおもクロックムッシュを注視している。
「ルナ、クロックムッシュとピザトースト、フレンチトーストをそれぞれ一人前、追加できるか?」
「諒解しました。三分十五秒後に出来上がります。」
まるで欠食児童か或いはラマダン明けのムスリムのように、俺の手元のクロックムッシュを食い入るように見つめる二人の視線に耐えかねて、ルナに追加の注文を出した。
ダンダスはと見れば、余り興味の無い振りを装いながらも、美味そうな匂いを発する食い物が実は相当気になっているというのが、チラチラとこちらに向く視線で丸分かりだ。
「この凄まじく美味そうな匂いは、その、上に乗っかっている非常に粘性の高いペーストか?」
とディング。
熱で蕩けたチーズのことを言っているのだろう。
チーズの焼ける匂いは、慣れた人間にとっては我慢のならない殺人的に食欲を刺激する香りだが、食べ慣れない者は強烈な悪臭に思える場合もあると聞く。
しかしどうやらベルセンテルーク帝国人、少なくともエシオンフダイージオ侯爵家の人間にとっては堪らなく食欲をそそる香りであるようだった。
「そうだな、チーズという。牛乳・・・ああ、家畜が幼体を育てるために分泌する液体を、菌類を使って発酵させたものだ。色々な種類があって、これに使ってあるのは熱をかけると溶けるタイプだな。」
「一緒に乗っかっているのは肉か?」
「そうだな。ハムと云って、別の種類の食肉化専用の家畜の肉を固めて調味料で味を調えたものだ。」
「下にあるのは、リグリに似ているが、随分軽くて柔らかそうに見える。それも美味そうだ。」
リグリというのは、帝国で日常的に食されているパンのような、穀物から作られたものだ。
俺達地球人が想像するパンというよりは、どちらかというとナンやロティに近いものだが。
「そうだな。穀物の粉に水を加えて練ったものを焼くんだが、焼く前に菌類を使って発酵させる工程が入る。発酵させたときに菌類が発生するガスが生地の中に溜まって、こういう軽くて柔らかい質感になる。」
地球の食い物を知らない人間に分かり易く解説していると、だんだん食い物じゃないような気になってきて、微妙に食欲が失せる。
だが、聞いている三人はそんな俺の説明も耳に入らないほどに、クロックムッシュから漂う香りに心奪われているようだった。
「ご注文の品が焼き上がりました。」
そうこうしているうちに頼んでいたものが出来上がったようで、ブリッジに居るルナからネット越しに音声で連絡を受けた。
「ちょっと待ってろ。」
そう言って俺は席を立ち、キッチンに向かった。
オーブンの蓋を開け、中から熱々のトースト類三皿を取り出す。
載っているトーストは熱々だが、皿はトーストを冷やさない温度でほんのり暖かい程度だ。
この辺りのルナのコントロールもなかなか絶妙だ。
そして俺は三つの皿に載った三種のトーストを両手に持ち、ダイニングルームへと向かった。
手に皿を持った俺がダイニングルームに入ると同時に、チーズの焼けた香ばしい匂いと、砂糖が焦げた甘い匂いが部屋に充満する。
ここに来て新たな三つのトーストが加わり、湧き立つ暴力的に美味そうな香りに流石に抵抗できなくなったか、こちらの手元を見る事を隠さなくなったダンダスを含めた三人の前に皿を置く。
「こっちから、ピザトースト、フレンチトースト、それと俺が食っていたのと同じクロックムッシュだ。試してみてくれ。」
俺の言葉が終わるや否や、三人ともが手を伸ばしまるで掻っ攫うように皿の上のトーストを手に取る。
熱々のチーズが細く長く伸びるのを、教えたわけでも無いのにトーストを回して巻き付けて切る。
熱く蕩けたチーズに顔を顰めながらも、ハフハフと息を吐きながら凄まじ勢いでトーストを口に入れる三人。
口の中は火傷で酷いことになってそうだな。
ものも言わずに凄まじい勢いでトーストを食い続け、ディングが再び言葉を発したのは三つの皿が空になってからだった。
「テラの食い物を少し舐めていた。たったひとつの惑星上に信じられないほど多くの種類の食い物が存在して、それがどれもこれもことごとく美味いんだという噂は聞いていた。だが、生まれたときから慣れ親しんだ食い物に勝ると思っていなかった。帝国には比較的多様な食文化が残っている。俺達帝国人の舌には帝国の料理が一番だし、テラの食い物の噂も大げさに誇張されたものだろうと思っていた。どうやら俺は間違っていたようだ。」
成る程ね。
三人が乗船して何日も経ち、その間何度も食事を提供しているが、これまで三人ともレジーナで提供している地球のメニューを選んだ事が無いのを少し妙に思っていた。
機械知性体が乗船しているレジーナを選ぶほどに進歩的な連中なのだ。
珍しがって地球の食い物にすぐに手を出すものと思っていたのだが、そうでは無かった。
どうやら自分達の持つ食文化へのプライドだったようだ。
そして今やプロ並みの料理の腕を誇るルナと、データさえあれば素材から完成した料理まであらゆる食い物を合成するニュクスのコンビに掛かれば、例え名前すら聞いた事の無い異国の料理だろうと、最低限客に出せるレベルのもであれば鼻歌交じりに再現してしまうだろう。
出発まで十日間もあったのだ。
これから乗船してくる客のことを考えて、ネット上に転がっているベルセンテルーク料理のレシピは総ざらいしたに違いなかった。
三人は今まで、侯爵邸の料理人が提供するものに勝るとも劣らない質の高いベルセンテルーク料理を楽しんでいたという訳だ。
だが、それが今上書きされてしまった。
「おべんちゃらを言うつもりは無いが。慣れ親しんだ食い物が一番なのは間違いないだろう。ただ地球には確かにとんでもない数の食い物がある。その大量のメニューの中に、お前達の好みのど真ん中に突き刺さるような、そんな食い物があっても不思議じゃ無い。」
「今日の夕食からは、持参した食料から作ってもらったものでは無く、もともとこの船で提供されている食事を戴くとしよう。」
「喜んで提供させて戴こう。本船自慢のメニューだ。一般の旅客船に較べて高級な部屋とサービス、良質で味わい深い食事、そして安全かつ快適で高速な移動。それがこの船が提供する快適で充実した旅だ。期待していてくれ。」
侯爵サマの狩猟休暇はまだまだ始まったばかりだ。
休暇が終わる頃には、地球の料理の虜にしてやろうじゃないか。
休暇が終わった後の侯爵邸の料理人が苦労しそうだが、そんなのは知らん。
「で、何だったかな。そうそう、あと五十時間ほどで到着するのだったな。」
と、茶の入ったマグカップを持ち上げながらディング。
蠱惑的な地球の軽食を平らげて腹と気持ちがそれなりに落ち着いたらしく、やっと本来の話に戻った。
「ああ。ただ少し残念なことに、到着時には現地はすでに夕方になっているようだ。積み荷を展開してベースキャンプを作るのは翌日になってからだな。」
「構わんよ。到着した日は早く寝て、翌日早朝から行動開始だ。上手くやれば午前中には設営は終わるだろう。そうすれば午後からでも早速ひと狩り楽しめる。」
レジーナのカーゴスペースには、ディング達が持ち込んだ中型コンテナが二つ格納されている。
狩猟に使う武器だけで無く、現地に設営するベースキャンプを作るための資材や、その他諸々の物資も全てコンテナの中だ。
俺達の側からは、俺とルナ、ニュクスが現地入りする。
俺達は毎日レジーナに戻って寝ても良いが、護衛を兼ねている関係上ディング達とキャンプに泊まる方が望ましい。
今回はディング達がたった三人しかいないので資材に余裕があり、俺達も彼等が持参したコテージを使って良いことになっている。
レジーナのカーゴスペースはそれほど広くないので、俺達用のキャンプ道具を詰め込むと結構苦しいことになっていたので、これは助かった。
当然のことながら、インドア派のブラソンはレジーナに残って自宅警備だ。
まあ、現実世界側の誰か一人が船に残ってくれるというのは、色々な面で都合が良いので助かる。
「コンテナ二つ分だぞ? そんなに早く設営できるのか?」
お貴族サマのお気楽道楽狩猟なので、大量の資材を持ち込むナンチャッテアウトドアだ。
本物のキャンプの様にヘビーデューティなものではない。
パワー供給用のリアクタもあれば、料理だってコテージに付属のキッチンで出来る。
なんなら、その気になればネットワークも展開できて、コテージの中でビデオ鑑賞会だって可能だ。
それらの大量の機材は、大概が半自動で展開するようになっているらしいのだが、とにかく量が多い。
ディング達を入れてもたったの六人で、半日でキャンプ設営できるものなのか。
「問題無い。人数が居れば、茶を数杯楽しんでいる間に設営が終わる様なキットだ。俺達も使い慣れている。六人でも数時間あれば充分だ。」
金に任せてそれなりのものを準備しているのだろう。
まあ、お世話係の俺達にしてみれば楽で良い。
侯爵サマの道楽狩猟が、ナンチャッテアウトドアだろうが、キャンプとはとても言えない快適なものだろうが、知ったことでは無い。
俺達は約二ヶ月間の侯爵サマのお守りの仕事を完遂すれば良いだけだし、侯爵サマが持ち込んだリッチな便利アイテムでその仕事が楽になる分には何の文句も無い。
それだけのことだ。
そう。
それだけのことだった、筈だったのだ。
いつも拙作お読み戴き有り難うございます。
飯テロ回です。
・・・牛乳を家畜の分泌物とか言ってる時点で飯テロも怪しくなってますが。w
まあ、異世界ものでも良くやる食い物のカルチャーショックですね。
流石にカレーライスは宇宙最強メシとかやるとちょっとパクリが酷いのでやめました。
ちなみに筆者は、クロックムッシュはシンプルなタイプが好きです。
ホットサンドは余り好きではないのですが、なぜかこれだけはホットサンドの形になっているのが好きです。
口に入れて噛んだときに、中からトローリと熱いチーズが出て来て、暖まったハムの肉汁と一緒に口の中に広がるのがたまらんのですわ。
家の近くにあった、美味いクロックムッシュを出す喫茶店が閉店してからこっち、美味いのにありつけなくてちょっと悲しい。




