5. バルジと懐石料理と純米大吟醸と。
■ 13.5.1
初めて実物の全体像を眼にする天の川銀河は、圧倒的な美しさと迫力を持って俺の前に横たわっており、念願のその姿を眼にした俺はしばらくその姿に魅入られてしまって、まともな思考も出来ず、言葉を発することさえも出来ないまま、まるで魂を抜かれてしまったかとでも云う様にしばらく身動きさえ取れずに呆けてその姿を眺め続けてしまった。
もちろん今までもネット上に転がっているCG画像で銀河全体の巨大なアップを眺めたこともあるし、実際に光学的に観察した本物の映像でアンドロメダ銀河などの他の銀河の全体像を眺めたこともある。
大きくズームして、自分の身体を包み込むほどに巨大な視野一杯に広がる高い解像度の光学観察画像を延々と眺め続けたこともあるし、立体的に再現された精密なCG画像の中に文字通り飛び込んでいったことさえもある。
だが今実際に約30万光年も離れた位置から直接眺める我らが渦巻き型銀河の壮大で、荘厳で、そして限りなく美しいその姿は、どれだけ言葉を重ねようとも言い表せない迫力と存在感と、そして俺の精神を完全に打ちのめすだけの壮麗さをもってただただ俺の視線と心を捉えて放さなかった。
それはもちろん、前人未踏とまでは行かないまでも、古今東西銀河を離れこんなところまでまでやって来る物好きなどまず居はしなかっただろうというとんでもなく遙かな場所に今自分が立っており、そして通常であれば人の一生をしてまず眼にすることが無いであろう生まれ故郷の銀河系の全景を直接自分の肉眼で眺めているのだという頭で理性的に理解している情報が、受け止めた感動をより一層大きなものに増幅しているという面もあるだろう。
だがそれらを差し引いてもやはり、光学望遠鏡のファインダーの中や、モニタに表示される光学センサーのウインドウの中の映像では無く、自分の眼で直接眺めるその姿は、筆舌に尽くしがたい衝撃と感動を俺に与えてしばらく動けない状態にするに充分な美しさだった。
「NESHGOS展開完了しました。光学での観察を開始します。」
ルナがNESHGOSでの30万年前の太陽系の光学観察開始を宣言する。
反応速度が速い上に戦闘能力が高く、闘争本能が強くそして息絶えるまで戦うことを諦めないという、銀河中で様々な言われかたをする地球人類のそのような特質が付与されたであろうファラゾアによる遺伝子改造が正に行われていたのが、30万年前、その時代だ。
今回の依頼を持ちかけてきた連邦軍も、当然それに関する情報が得られることを期待して30万年前という時代を設定したのだろう。
もちろん30万光年彼方からの観察で、ファラゾアが行った遺伝子改造の詳細が分かるわけなど無い。
だがその当時ファラゾアが太陽系に居て、地球人類に対する遺伝子改造を行っていたという確たる証拠が得られるだろう。
遙かな昔の太陽系にファラゾアがやって来て地球人に遺伝子改造を行ったであろうという学説は、地球では一般にまで広まっており今や半ば当たり前の知識として誰もが知っているのだが、実は意外なことに決定的かつ直接的な証拠は未だ見つかっていない。
辺境の片隅にあるソル太陽系なんぞに300年前わざわざファラゾアがやって来たこと、そのタイミングが銀河系に棲息する一般的なヒューマノイドが、類人猿を卒業して原人となり、ある程度の知能を獲得して言語などの社会性を身に付け始めるタイミングと一致していること、侵攻時に彼等が地球上に建造した基地に地球人類の祖先である原人の標本が保管されていたことなどから、ファラゾアの仕業であることは確実視されてはいるものの、それを直接的に示す遺物や遺構などは何も見つかっていないのだ。
「光学データ取得中です。解像度低く、地球周辺の状況を精確に捉えられません。精度向上のため、データ積算続けます。」
ルナが冷ややかな声で状況を報告する。
地球周辺を細かく捉えられないという言葉に少々落胆する思いだが、無理も無い話だ。
システムの試運転を行った300光年の距離に対して今度はその千倍の距離に居る。
単純計算で、約1億5000万km彼方の地球を眺めているに等しい。
即ち、火星から地球を肉眼で見たところで地球は只の青白い光点にしか見えず、その周辺に停泊する船どころか、白い雲が渦巻き茶色い大陸がその下に覗くような地球の姿を見ることは出来ない、という事だ。
「レジーナ。NESHGOSの直径を広げて倍率を上げることは出来ないのか?」
「不可能ではありません。外縁部ドローンのジェネレータをキャパシティ限界まで使えば、重力レンズ直径を今の1.2倍にまで広げることが出来ます。画像倍率は約1.5倍に向上しますが、リアクタの燃料消費がおおよそ倍になり、能力限界までエネルギーを外部から注ぎ込まれるジェネレータの寿命を著しく短くします。最悪、実行後数時間で複数のドローンが寿命を迎える可能性があります。実行しますか?」
ドローンが寿命を迎えても、試運転に使用したドローンのセットを回収してあるのである程度交換は可能だ。
だが、ドローンが次々消耗するのではまともな重力レンズを維持するのも難しいだろうし、そもそも指示されている十日間という期間の間そのスペア在庫が保つとも思えない。
「アデール。聞いていたか? このまま観察を続けるか?」
と、席が無くブリッジには詰めていないが、自室でこちらの状況をモニタしているはずのアデールに尋ねた。
「構わん。計画通り現状のまま所定の期間観察を続けてくれ。得られた画像データは持ち帰ってそれ用の解析システムに掛ける事になっている。聞いた話では、そのシステムでの画像処理で解像度を数百倍向上させられるそうだ。30万年前の地球の様子を見たくて期待していたところ悪いが、現場での詳細観察は無理だな。無理せず十日分の積算データを取る方に専念してくれ。」
「諒解した。目の前にとびきりのごちそうがあるのにお預けを食らっている気分だが、依頼主の要求が優先だ。我慢しておくとするか。」
「であれば、観察はこちらで続けますので、皆さん待機状態に入ってもらって大丈夫ですよ。ドローンが故障した場合の交換も、こちらでやっておきます。」
と、レジーナが言った。
つまり、俺達はもうやることが無いので好きにしろ、という事だ。
働きづめのレジーナには悪いが、そうさせてもらおう。
「諒解した。レジーナ、悪いな。待機状態に入る。よろしく頼む。何かあったら教えてくれ。」
「諒解。」
俺達生体の身体を持つ四人がブリッジの自席から立ち上がる。
レジーナ一人に働かせて俺達は待機状態に入るというのは、なにやら彼女に酷い仕打ちをしているようにも思えるが、実のところヒトの数万倍の演算速度を持つ彼女にしてみれば、片手間で適度に仕事をこなしつつ、待機状態に入った俺達と共に会話を楽しんだりしながら適当に休憩も取れる状態とのことで、全く気にする必要は無いと以前彼女に言われたことがある。
そもそも俺達ヒトが睡眠を取っている間も彼女は常に働き続けている。今更、という話だ。
なので彼女の言うとおり甘えさせてもらうことにしている。
ルナはそのままダイニングに向かって歩いて行ったが、俺は自室に戻った。
ブラソンとニュクスも自室に戻ったようだった。
部屋に入った俺は、外部カメラ映像を壁と床に投映し、部屋の明かりを消した。
途端に部屋の中が漆黒の宇宙空間へと変わり、まるで空飛ぶ絨毯のような板一枚の床の上に立ち、宇宙空間を漂っているような気分になる。
この船を作ったときに、絶対に必要だと我が侭を言って俺の部屋に付けた機能だ。
ソファに腰を下ろした俺の前に天の川銀河が浮かぶ。
30万光年彼方の銀河が、オリオン腕にある太陽系の位置で240km/sの速度で回転していようと、もちろんその動きを感じ取れることなど無い。
だが実際は静止しているようにしか見えない銀河系が、その渦巻く形をじっと眺めていると、まるでゆっくりと渦を巻いて回転しているかのような錯覚を覚える。
他に何をするでも無く、俺は一人がけのソファに深く身体を預けて、音も無く佇む巨大な渦巻きを眺め続ける。
至福の時間だった。
多分、周囲二十万光年四方には俺達以外の誰も居らず、生き物も、或いは星さえも存在しない、空間を漂う僅かな原子さえも銀河系領域の空間に較べて遙かに低い、本当に何も無い虚空が広がるのみの銀河系間空間。
その場所に、大仕事で当てた全財産をつぎ込んで建造した最新鋭の船殻と装備を備えた自分の船で到達し、停泊して漂う。
目の前には、漆黒の宇宙に散りばめられた星と見紛う遙か無数の銀河系の散らばりを背景にして、仄かに青白さを纏う柔らかな薄く黄色味がかった白色の天の川銀河が、千切れかけた羽衣のような暗いガス雲を軽く纏って僅かに煙り朧に光り浮かぶ。
虚空に浮かぶ孤独や、音の伝わることの無い真空の静寂や、生存不可能な絶対零度の冷たさや、無数の生物が生きる銀河の光りの暖かさといった、様々なものが自分の中に流れ込んでくるような不思議な感覚のまま、独り宇宙空間に静かに漂い続ける。
不意にドアがノックされる音が響いた。
入室を許可すると、宇宙空間に突然ドアの隙間が空き、明るい通路からアデールが入ってきた。
「なかなか壮観な眺めだな。確かにこれは、一見の価値がある。」
部屋に入って一瞬立ち止まったアデールが言った。
こちらに向かって再び歩を進め、手に持ったグラスとボトルをテーブルの上に置いて、テーブルを挟んで横に並ぶもう一つの一人掛けソファに腰を下ろした。
「こんな時に開ける良い手持ちが無くてな。マーカス・モリトールのリースリング・ハウス・クロスターベルク。トロッケンだからそれほど甘くないはずだ。私の生まれ故郷の近くの街のワインだ。」
そう言いながら器用にコルクを抜いたアデールが、グラス二つに僅かに黄味がかった液体を注ぐ。
そのままグラスを取ると、もう一方のグラスに軽く打ち付けた後に口へ運んだ。
「ふむ。大丈夫だ。懐かしい味だ。ブドウ畑の広がるなだらかな山あいをモーゼル川が流れるのどかなところだ。低く丸みを帯びた山と山の間を曲がりくねって流れる川沿いに小さな街が点在していてな。このワイナリーがあるのもそんな街の一つだ。ふふ。こんな景色を眺めながら、地球の片隅にある故郷を想うのは、確かに悪くない。」
と、珍しくアデールが笑った。
その眼はしばらくグラスの中の液体を見ていたかと思うと、再び正面で霞む様に明るく輝いている銀河に戻る。
普段殆ど表情を変えない彼女のその艶やかな笑顔を見て、俺ももう一方のグラスを手に取って口に含む。
柔らかな葡萄の香りとほのかな甘さが口の中に広がる。
俺はワインに詳しいわけでは無いが、よくあるただ甘いだけの白ワインとは違い、彼女が厳選した逸品であろうというのは俺にも分かる。
しばらく言葉を交わすことも無く、ゆっくりとグラスを傾けた。
グラスの中身が無くなると、アデールがゆっくりとした落ち着いた所作でボトルから次の琥珀色の液体を注ぐ。
何か軽く摘まむものが欲しくなってきた。
「大丈夫だ。そろそろ何か来るはずだ。ルナが厨房に入っていた。」
特に何を言ったわけでは無いのだが、アデールがそう言った。
どうやらこの女も、案外「イケる」口らしい。
などと思っていると、再びドアがノックされる音が響いた。
「お食事をお持ちしました。」
ネット越しに頭の中に響くルナの声に入室の許可を出すと、再び宇宙空間に明るいドアの隙間が開き、ワゴンを押したルナが部屋の中に入ってきた。
ワゴンを俺達の座るソファの後ろに止めたルナが、白ワインのボトルを取り上げて、ワゴンに置いてあるワインクーラーに差した。
静かな室内に氷の立てる涼やかな音が響く。
「冬瓜の包み蒸しと、鮑の塩辛、炭火で軽く焙った烏魚子です。鮑は三陸、烏魚子は台湾のものです。お酒は先日美姫さんから良いものを戴きましたので、とりあえずそれを持って来ました。会津若松の冩樂、純米大吟醸初しぼりの生です。米は会津湯川の五百万石を使用した、地元でしか手に入らない限定樽だそうです。」
そう言ってルナが料理の入った小鉢を、グラスを端に寄せたサイドテーブルの上に並べた。
そして最後に大吟醸の入った色鮮やかなカットグラスを置く。
「これは?」
「薩摩切子です。先日日本に行ったときに買い求めました。」
俺は柔らかな香りの立ち上がる液体の入ったグラスを用心深く持ち上げ、天の川銀河から放射される光りにかざしてゆっくりと回してみた。
少し濃い目の鮮やかな紫の下に滲む淡い青色が、カットした透明な部分と注がれた酒の中を透過してくる少し黄味がかった銀河系の光りにキラキラと輝いて、思わず魅入られてしまう。
はて、日本に居たときにルナが長時間買い物に出掛けていた記憶は無いが、と思ったのちにすぐに気付いた。
彼女達はネットワーク上に再現された現物を幾らでも眺めることが出来る。
人間の何万倍もの処理速度で吟味し買い物するならば、どれだけ悩んで大量のものを買い込んだとしても僅か一瞬だろう。
特にルナの場合、最悪配送さえも必要無い。
スキャンデータを送ってもらって、レジーナ船内でニュクスに再現してもらえば良い。
もちろん、著作権法でそんな事をしてはいけない事になっているが、今更だ。
「会津の酒を、薩摩のグラスに入れたか。」
数百年経った後も、彼等はまだそれを口にする。
実際ついこの間、美姫が冗談めかして言ったのを聞いたばかりだ。
「はい。ミスラがともに居るこの船に良く合うかと。」
・・・なるほど。
いつの間にかそのような趣向に気の回る様になったルナを振り返り見上げる。
彼女の表情は相変わらずいつも通りで、何も読み取れないが。
「何か面白い謂れのありそうな話じゃないか。教えてくれよ。」
こちらは少し暗めの赤と濃い青の滲むグラスを持ったアデールが、機嫌良さそうに俺を見て尋ねる。
その後俺達は、眼前に渦巻く天の川銀河の煙るバルジの明かりを眺めながら、次々とルナが運んでくる懐石料理に舌鼓を打ち、ゆったりとした時間と上質な酒を楽しみながら長い時間を過ごした。
そして十日後、アデールが言ったとおり一切のトラブル無く、データを収集し終えたレジーナは針路を再び天の川銀河にとってホールに向かって飛び込んだ。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
マサシ「むっ。なんだこれは!? このダシを取ったのは誰だ!? 料理人を呼べ!」
ルナ「私ですが。」
マ「この深みのある味わい、ほのかに口の中に広がる甘さと、その向こうに流れるふくよかにして控えめな潮の香り、これはまさしく利尻産昆布のものだ! しかも昆布に合わせて絶妙な時間で出汁取りを終えている! 見事だ!」
ル「アミノ酸分子リストと含有ミネラルのリストを使用して、ニュクスに手伝って戴いて理想配分を合成しました。」
マ「・・・」
というのをやろうかと一瞬思いましたが、やめました。(笑)
酒は筆者の個人的な好みです。但し、ルナが長々と述べている様な限定品は現実にはありません。(多分)




