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19/33

19 熱海&鎌倉(1923)

 1923年1月の終わり近く、俺……中浦(なかうら)秀人(しゅうと)は熱海に向かっていた。もちろん一人ではなく、閑院宮(かんいんのみや)載仁(ことひと)親王や俺の婚約者の智子(ともこ)さん、それにセバスチャンこと隠密の瀬場(せば)須知雄(すちお)も一緒だ。


 このころ鉄道で熱海に行くのは少々面倒だった。

 まず1923年……大正十二年の東海道本線は熱海を通っていない。今は御殿場経由、つまり箱根の北を抜けて東西を結んでいた。

 元の歴史だと東海道本線が熱海経由になるのは1934年、それまで国府津(こうづ)駅から熱海を通って沼津駅を目指す経路は熱海線と呼ばれていた。というより、この区間の全線開通によって東海道本線が熱海経由に移り、旧ルートを御殿場線としたのだ。


 しかも現時点だと熱海線は国府津駅から真鶴(まなづる)駅までの18キロメートル程度、つまり熱海どころか湯河原にも届いていない。

 ただし熱海への鉄道は別に存在した。その名も熱海鉄道、軌間が762ミリメートルと狭い軽便鉄道だ。

 このころの熱海鉄道は、蒸気機関車で真鶴と熱海を結んでいた。最初は小田原からだったが、先月末に熱海線が真鶴まで延伸されたとき重複区間を廃止したのだ。

 このように東京から熱海まで鉄道のみで行くのは可能だが後のように新幹線一本とはいかず、特急を使っても国府津まで一時間半は必要だ。しかも国府津から熱海も一時間半近く、乗り継ぎを含めたら更に時間がかかる。


 そこで今回、俺達は自動車を選んだ。

 まだ渋滞するほどの交通量はないし、東京から熱海は100キロメートル少々だから二時間もあれば着くだろう。それに車なら自由に移動できるし、車中で未来知識に触れても問題ない。

 今は宮家の使用人達も含めて数台に分乗し、東海道を西へと走っている。といっても東京市を出た直後、品川を過ぎたばかりだ。

 俺を含めた三人は『デイムラー タイプ45』の後部座席、左端から俺、親王、智子さんの順で並んでいる。そしてセバスチャンが運転席、助手席には同じ年代の女性使用人だ。


「小田原の別邸に行くのも久しぶりだな。確か……いや、これは失言だった」


 載仁親王は懐かしげな様子で言葉を紡ぐが、途中で表情を改めると智子さんに謝った。

 閑院宮家の人々は、二年近くも小田原の別邸を使っていない。これは元の歴史だと、そこで智子さんが命を落とすからだ。

 今年9月1日の関東大地震で小田原の別邸は倒壊するが、そのとき載仁親王を含めた宮家の人々が滞在していた。智子さん以外は(から)くも軽傷程度で助かるものの、彼女は崩れた(はり)に頭を強打されて落命する。

 おそらく親王は、俺が未来を告げて以来と言いかけたのだろう。しかし当人の前で触れることではないと、言葉を濁したに違いない。


「大丈夫です。もう運命は変わったのですから」


 智子さんは載仁親王に微笑みを返す。

 地震発生の日時が分かっていれば回避するのは簡単だ。しかも載仁親王は本邸や別邸に耐震補強を施したから、倒壊しないかもしれない。

 そもそも当日、載仁親王や俺は東京で震災対応に当たるし智子さんも俺達と共に皇宮の屋外で地震の瞬間を迎える予定だ。したがって元と同じ道を辿(たど)らないのは明らかである。


「ええ、我々は新たな未来へと歩み始めたのです! 既知の事柄など恐れるに足りません!」


 俺は敢えて景気よく声を張り上げた。

 今回は公用を含んでいるが、保養や観光で有名な熱海と鎌倉への訪問だ。そこで俺は楽しい旅に戻すべく、最初の訪問先で待つ人物を持ち出すことにした。


「智子さん、エドワード王子にビリヤードを教えてもらいましょう。熱海では名人として名を馳せているそうですよ」


 俺は先日届いたエドワード王子の手紙に記されていたことを紹介する。

 このころ既に、温泉地などの遊技場にはビリヤード台があった。しかも熱海には玉突場……専用のビリヤード場もあり、王子も頻繁に通っているそうだ。


 エドワード王子は病気を理由に王位継承権を放棄し、ウィンザー公エドワードとなった。もちろん病は口実だが、形式も整えている。

 王子は昨年10月に来日すると、しばらく伊豆の保養地に腰を据えた。しかし月に一度や二度は東京に来るし、そのときは英国主催の晩餐会やダンスパーティーにも顔を出す。

 このような生活に伊豆は少々遠かったらしく、王子は今年に入ってから熱海に移った。もっとも手紙に書いてある通りなら、一通り楽しんだから新たな地をという思いもあったらしい。

 暑くなったら軽井沢などの避暑地、再び寒くなれば南の温泉。このように気ままな生活をしつつ、あまり活動的に見えない範囲で外交にも協力する。どうせなら数年かそこら、のんびりしたいものだと手紙は結んでいた。


「面白そうですね!」


撞球(どうきゅう)殿下と呼ばれているそうだな。私もフランス留学中に興じたものだ」


 智子さんは華やいだ声を上げ、載仁親王も顔を綻ばせる。

 ちなみにフランス留学とは明治十五年から、1882年から1891年にかけてのことだ。渡仏当時の親王は満年齢で十七歳前、サン・シール陸軍士官学校やフランス陸軍大学校で学んだ後に軽騎兵第七連隊付になったのだ。

 もちろん皇族や軍人としての勉強が第一だが、向こうの文化や風物を学ぶ意味もあったからビリヤードを習うのも当然だ。大正天皇や昭和天皇もビリヤードを楽しんだという逸話があるが、こういった皇族や要人の留学が大いに影響しているのだろう。



 ◆ ◆ ◆ ◆



秀人(しゅうと)、よく来た! 載仁殿下、お久しぶりです! 智子嬢もますます美しくなったね!」


 老舗旅館の奥座敷に入るなり、エドワード王子が朗らかな笑みと共に歓迎してくれた。

 王子の隣には側近かつ友人のマウントバッテン卿、更に数名のお付きが控えている。彼らは世話役として日本に長期滞在しているのだ。


「お久しぶりです……しかし随分と和装に馴染みましたね」


「私も驚きましたぞ」


「それに皆さんも……」


 俺と同じ感想を(いだ)いたらしく、載仁親王や智子さんも感嘆めいた声を漏らす。

 エドワード王子を始め、全員が浴衣の上に丹前という装いだった。帯もキチンと締めており、文句の付けようがない着こなしである。


 こちら側は俺と智子さんが洋服、載仁親王が和服とバラバラだ。

 親王は元帥陸軍大将だけあり軍服姿が殆どだが、今日は微行だからと羽織袴にしていた。とはいえトレードマークの立派な八の字髭が目立っており、あまり意味がないような気はする。

 智子さんは俺がワシントン会議の際に手に入れた冬用のワンピースとコート、俺はスーツである。智子さんが洋装を選んだから合わせたのだ。


「先ほどまで温泉に入っていてね。それに洋服より目立たないから」


「観光客に紛れるには、こちらの方が良いようです」


 王子の言葉をマウントバッテン卿が補う。

 洋装の場合、本来の身分に合わせると高級すぎて人目を惹く。かといって常に労働階級のような安物を着るのは気詰まりだ。

 しかし旅館が用意した和装なら、正体を誤魔化せる上に異国情緒も楽しめる。これは伊豆で色々試しているうちに学んだそうだ。


「そうでしたか」


「ああ、温泉三昧で快適な毎日だよ!」


 手紙や東京に来たときの話で、俺は大まかにだが王子の暮らしぶりを知っていた。しかし実際に心から楽しんでいる姿を目にし、改めて大きな安堵を(いだ)く。

 王子が日本に移り住んだのは俺が未来を伝えたからで、責任めいたものを感じてはいたのだ。


「さあ港に行こう! 地曳網は朝だから見物できないが、浜の散策でもしようじゃないか! それに午後は舟遊びも良いな!」


「これはこれは……。では御好意に甘えさせていただきますぞ」


 エドワード王子が場を仕切ると、載仁親王は楽しげに顔を綻ばせた。

 おそらく親王も、王子が日本滞在に満足していると感じたのだろう。それに日本人の自分がイギリス人に熱海を案内される事態に、一種のおかしさを覚えたのかもしれない。


 王子の案内で、俺達は熱海の浜へと向かった。あの有名な尾崎(おざき)紅葉(こうよう)の『金色夜叉』の舞台、お宮の松がある場所だ。

 ただし後のように小さな人工の砂浜ではなく、弓状の緩い湾全体が白い砂で覆われている。このころは軽便鉄道の熱海駅の前も開けた原っぱで、実に長閑(のどか)な風景なのだ。


「秀人、智子嬢と『寛一お宮』を演じてはどうかね?」


「智子さんを蹴飛ばすなんて出来ませんよ。それに婚約を反故(ほご)にされてもいません」


 からかうエドワード王子に答えつつ、俺は智子さんの手を取って浜へと降りていった。そして苦笑いを浮かべた載仁親王やセバスチャン、済まなげな顔のマウントバッテン卿達が後に続く。

 ちなみに『金色夜叉』は1897年から1902年にかけて読売新聞に連載された作品で、エドワード王子は熱海に来てから知ったそうだ。


 冬の熱海は風も冷たく、海も少しばかり色が濃いように感じた。

 もっとも俺が比べたのは二十一世紀の夏の熱海、タイムスリップ前の記憶だ。そのため海自体よりも、()()()()()()()()()()が気になった。


「だいぶ進んではいるが……」


「何も無いより遥かに良いと思います」


 焦りを滲ませた俺に、智子さんが(ささや)きで応じる。

 関東大地震で津波の被害が(ひど)かったのは、伊豆半島から千葉県の館山にかけてだ。そこで俺達は少しでも被害を減らせたらと防波堤の建設を進めている。


 人の避難は地震の前に済ませるし、船も影響のない遠方へと移す。しかし家屋などへの被害も、幾らかでも抑えたい。

 もっとも建造しているのは海面から人の背を幾らか上回るくらい顔を出した程度、平成時代なら珍しくもなんともない規模だ。


 しかし熱海以外にも築くから、これでも精一杯だった。

 既にクレーン船はあり、一例を挙げると海軍省は『さんこう』という最新鋭機を持っていた。これは二十一世紀でも現役の300トン起重機船で、昭和に入ってから戦艦大和の主機関や装甲板の据え付けをすることになる。

 この『さんこう』は本来今年の7月に竣工するはずだったが、前倒しで完成させて港湾工事に回した。

 関東で建造中の軍艦は震災で大きな被害を受け、建造中止に追い込まれた船も多い。つまり今このときに軍艦を建造しても無意味、ならば幾らかを防災工事に回しても良いとなったわけだ。

 とはいえ数は限られているし、吊り上げ能力だけで工事が進むはずもない。そのため熱海湾の防波堤も、予定の半分に達した程度のようだ。


「そうですね……」


 俺は静かに頷き返した。

 元の歴史だと、現時点の熱海湾に防波堤など存在しなかった。確かに何の守りも存在しないよりマシなはずと、俺は自身に言い聞かせる。

 ごく僅かでも津波の威力を減衰できれば、その分だけ浸水地域が減る。もちろん流出する家屋や財産も。この僅かな違いで、復興が早く進むかもしれない。


 タイムスリップ前に見たシミュレーションで高さ約3メートルの防波堤に倍ほどの津波が押し寄せたケースがあったが、全くない場合に比べると三割程度の浸水抑止効果があるとされていた。今回築いている防波堤は更に劣るだろうが、仮に一割でも当事者にとっては大きな差だ。

 本来の歴史だと、熱海では百五十戸近くが流出したという。もし命が助かっても自身の家や周囲が大打撃を受けたら、後の人生が大きく変わるに違いない。


「おいおい、楽しむときは楽しまないと! ほら、恋人同士らしく砂浜を駆けて!」


 エドワード王子は俺の肩をパシンと叩き、俺達を浜辺へと押しやった。

 一方の俺だが、どう答えるべきか迷ったものの結局は王子の勧めに従うことにする。流石に走りはしないが、将来を誓った仲らしく智子さんと海を楽しもうと思ったのだ。


「行きましょう」


「はい……」


 俺の誘いに、智子さんは頬を染めつつも応じてくれた。そして俺達は、水際(みぎわ)へと歩んでいく。

 ここにいると、王子どころかセバスチャンや載仁親王にまで冷やかされそうな気がしたからだ。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 俺達は午前中を浜遊び、旅館に戻って昼食を済ませると午後からは舟遊びで楽しんだ。そして夕方、エドワード王子達と共に小田原へと向かう。

 この日は閑院宮家が王子と一行を饗応する。つまり小田原の別邸で晩餐会を開いたのだ。

 各宮家からも若手を中心に招き、食事を終えた今はダンスホールに移っている。


「鎌倉は秋に行った……紅葉が綺麗だったね。京都や奈良ほど壮麗ではないが、立派な仏像や寺が沢山あると感心したよ」


 ダンスパーティーの合間、エドワード王子は鎌倉の印象を語り出す。ここはホールの脇に置かれたソファー、聞き手は俺と智子さんだ。


 王太子として訪れたときは寄る機会がなかったから、エドワード王子は昨年11月の終わりに鎌倉巡りをした。

 鎌倉なら東京に赴く際に立ち寄れば良いし、静養を名目に長逗留しているから時間も充分にある。そこで王子は宿を取って数日を過ごした。


「鶴岡八幡宮に高徳院の大仏、長谷寺……それに円覚寺、東慶寺、明月院にも足を伸ばしました。そうそう、禅の修業もしましたよ」


 マウントバッテン卿は、座禅にもチャレンジしたと明かす。

 時間もあったから、気の赴くままに色々と試したそうだ。それに多くの場所では正体を隠し、ごく普通に巡ったという。


「昔の武士の都でもあるのだったね。日本刀や甲冑も堪能したよ……今年に入ったら見れないからね」


「はい。今ごろは各地の展覧会に貸し出しているはずです」


 王子が触れたように、今は多くの文化財が鎌倉を離れていた。これは俺も絡んだ件で、良く知っている。

 関東大震災では鎌倉も大津波に襲われる。それに津波による家屋流出も(ひど)かったが、地震自体で潰れた家や寺社も多かった。

 このころ鎌倉町の戸数は四千少々だが、全壊と半壊を合わせると三千戸を超えたという。そこで俺は文化財を他に貸し出したらと提案した。

 関東から離して奈良や京都、そこまで遠方でなくとも震災の範囲外に移せばよいと考えたのだ。


 ちなみに本来の歴史だと、関東大震災の教訓を元に鎌倉国宝館が誕生した。貴重な文化財を守るためにと鎌倉同人会が中心になり、1928年に完成する。

 逆に言うと大正時代の鎌倉には、文化財を所蔵可能な耐震性の高い建物は存在しなかった。そして最新の建築でも絶対に安全という保証はない。


 寺社自体の耐震補強も取り組んだが、重要文化財が多く大規模な改良は難しかった。せいぜいが目立たない場所に補強材を入れる程度、どこまで効果があるか怪しい。

 そこで思い切って文化財を他所に避難させた。もちろん移動不可能なものも多いが、少しでも後世に残せるようにと俺達は取り組んだ。


「明日は総仕上げだな。楽しみにしているよ」


 エドワード王子は言葉通り、期待に瞳を輝かせていた。そして彼は席を立つ。

 どうやら王子は再びダンスに興じるらしい。


「ええ。立会人として見届けお願いします」


 俺も応じつつ、智子さんの手を取って立ち上がる。そして俺達は、華やかな衣装を(ひるがえ)す人々に交じっていった。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 翌朝、俺達は鎌倉に赴く。ただし二手に別れ、載仁親王と智子さんは使用人達と共に鎌倉の高台、そして俺はセバスチャンやエドワード王子達と共に海上にいる。

 実は俺を含む後者は、戦艦加賀(かが)に乗っているのだ。


「機関全速、このまま進め!」


 艦橋で声を張り上げたのは海軍大臣の加藤(かとう)友三郎(ともざぶろう)、歴戦の軍艦乗りだ。そして俺達は彼の側で船の行く手を見つめ続ける。


「機関全速! 最大戦速を維持!」


 復唱の通り、全長230メートルを超える巨艦は約27ノット……時速50キロほどで海上を突き進んでいる。しかも鎌倉の至近、俺達がいる艦橋からは由比(ゆい)ヶ浜もハッキリ見える。

 このような場所で全速を出しているのは、この加賀を防波堤にするためだ。加賀を含めワシントン海軍軍縮条約で廃棄が決まった艦船を、俺は即席の堤防にすればと思いついたのだ。


 加賀は建造途中の愛宕(あたご)を曳航し、浜の反対側に戦艦土佐(とさ)が同じく艦体のみの高雄(たかお)を曳いて向かっている。

 土佐は加賀の同形艦、愛宕と高雄を含む天城(あまぎ)型巡洋戦艦と共に八八艦隊計画の一環として造られた。しかし加賀と土佐は標的艦となって自沈する運命、愛宕と高雄は建造中止で廃棄されるはずだった。

 本来の歴史だと建造中の天城が関東大震災で修理不能となり、加賀は航空母艦に改装される。しかし実は天城型の方が大きく、空母に向いている。

 そこで建造中の天城を震災前に横須賀から出して守り抜くことにし、当初の予定通り加賀を廃棄することにしたわけだ。


 反対意見はあったし、鎌倉だけ厚遇して良いのかと疑問も提示する者もいた。

 しかし標的艦や廃棄より武家の古都鎌倉の守りにという声も多かった。同じ沈めるにしても、どうせなら武人の守り神である八幡様に捧げようという主張だ。


「燃料、残り僅か!」


「回し続けろ! 総員衝撃に備え!」


 機関長の叫びに、加藤海軍大臣は落ち着いた声音(こわね)で応じた。そして彼は見本を示すかのように両手で手すりを握り締める。

 もちろん俺達も同様の姿勢で衝突に備える。腰には命綱を装着しているが、それは最後の守りでしかないからだ。


 既に艦からは砲塔などを撤去し、内部も余計なものは降ろした。それに燃料も使い切るから爆発の危険はないはずだが、浅瀬に乗り上げる衝撃はどうにもならない。

 なるべく奥深くに進めるように岩場を避けたが、それでも衝突時は地震並みに揺れるだろう。しかし加藤海軍大臣は加賀達の最後の勇姿を見守るべく、艦橋での指揮を選んだ。

 俺も発案者として、そしてエドワード王子は艦船処分の見届け人として臨席した。危険だからと反対したのだが、王子は二度とない機会だからと乗艦を望んだのだ。


「着底! しかし順調に前進!」


「これは凄い! ナムハチマンダイボサツ!」


「殿下、舌を噛みますから!」


 ゴゴゴッと鈍い音が響く中、士官が対抗するように絶叫する。

 一方エドワード王子は『南無八幡大菩薩』と唱えていた。おそらく鶴岡八幡宮で覚えたのだろうが、怪我をしてはいけないと俺は(たしな)める。


「進路、速度、共に予定通り!」


「愛宕も問題なし!」


「土佐に順調に突入と打電せよ!」


「土佐から入電! 本艦および高雄も突入を開始……以上!」


 強烈な振動の中でも、士官達は持ち場を死守していた。彼らは自艦に有終の美を飾らせるべく、全身全霊で任務を果たし続けているのだ。


 加賀は由比ヶ浜を東、つまり逗子の小坪へと向かっている。今は弓状の浜の最奥から1キロメートルほどの場所を、ほぼ真東へと突き進んでいた。

 西は土佐、こちらは坂ノ下と呼ばれるあたりを目指している。


 加賀と土佐、そして曳航する二隻を合わせると長さ1キロメートルほどにもなる。突入地点の湾の幅は1800メートル強だから、半分以上を塞げるわけだ。

 しかも四隻は戦艦だけあって深さもあるし吃水が高い。元の吃水が9メートル以上だから、鎌倉を襲った津波にも勝るはずだ。

 もちろん周囲は岩やコンクリートブロックで補強するし、中もコンクリートで固める。それに軍艦の先にも多少だが堤防を伸ばすつもりだ。


「加賀、停止!」


「船首は小坪海岸に達しましたが、浜に留まっています! 大成功です!」


「愛宕の衝突がある! 総員そのまま衝撃に備えろ!」


 喜びに沸く士官達に加藤海軍大臣が叫び返す。すると彼の言葉が合図だったかのように、後方で鈍い音が響いた。曳航している愛宕が加賀の艦尾にぶつかったのだ。

 しかし多少の揺れが起きたものの、加賀は屹立し続けた。愛宕は船体のみで中身は空だから、思ったより衝撃は少なかったのだ。

 そして愛宕自体も無事だと観測員から知らせが入り、更に通信手が土佐と高雄の突入成功を伝える。


「お見事でした! 一糸乱れぬ操艦、危険を(かえり)みず任務を果たす優秀な乗組員達……。このエドワード、心からの賞賛を送ります! ハチマン様やアミダ様もお喜びでしょう!」


 大きな拍手と共に、エドワード王子は作戦の成功を讃える。

 ちなみにアミダ様とは鎌倉大仏のことだろう。高徳院の大仏は阿弥陀如来の坐像である。


「ありがとうございます。この加賀を含め未来永劫、鎌倉の……そして日ノ本の守りになってくれるでしょう。海の底で寂しく眠るより、幸せな余生だと思います」


 加藤海軍大臣は、しみじみとした様子で言葉を紡いでいく。

 確かに標的となって海底に沈むより、よほど良いと思う。それに堤防としての整備が終わった後は、記念艦として保存するつもりだ。


 おそらく加賀や土佐は人々の憩いの場となるだろう。上部構造物がない愛宕や高雄と違い、この二つは下をコンクリートで固めるだけで他は残すのだ。

 加藤海軍大臣が日露戦争で乗った戦艦三笠(みかさ)が、二十一世紀の横須賀で記念艦として余生を送っているように。


「それでは退艦しましょう……総員、敬礼!」


 加藤海軍大臣の号令で、俺達は一斉に敬礼をした。もちろん礼を捧げる相手は、文字通り護国の(いしずえ)となった戦艦達だ。

 エドワード王子やマウントバッテン卿も俺達に(なら)ってくれる。彼らはイギリス海軍軍人でもあるから、船を捨てる悲しみを深く理解しているのだろう。


「次に来るときは記念艦ですな。そのときは孫達を連れて訪れましょう」


「良いですね……そのためにも長生きなさってください」


 加藤海軍大臣の(ささや)きに、俺は同じく小声で応じた。

 ワシントン会議も無事に終わり、震災対策も終盤に入った。そこで加藤海軍大臣は成すべきことは成したと、大腸ガンの治療を決意した。

 エドワード王子の紹介でイギリスから優秀な医師を招き、最新の治療器具も整えた。しかし大腸を切除してストーマを形成するだろうし、そうなると今までのようには働けない。

 とはいえ元の歴史通りなら大震災の直前に病没するから、彼は大きな賭けに挑むことにしたのだ。


 加賀や土佐が新たな姿に生まれ変わるように、加藤海軍大臣も第二の人生を迎えてほしい。既に彼は充分に日本のために働いたのだから。

 俺の思いが通じたのだろう、加藤海軍大臣は穏やかな笑みを浮かべた。そして彼は一度だけ艦橋内を振り返ると、確かな足取りで前へと進んでいった。


 お読みいただき、ありがとうございます。


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