表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/55

家族・2

 淡いピンクの柔らかな素材のドレスに濃い紫のマントを羽織ったアンヌ・テレーゼは、どこか少女めいた風情が有って、美しいというより愛らしいという言葉のほうが似つかわしいのだった。結婚して十年過ぎてようやく懐妊した事に、まだどこか戸惑ってもいるようだが侍女のネリーがしっかり目配せしているから、さほど心配しなくても良いのかもしれない。だが、ロベルトは心配で、つい日に幾度も顔を見に来てしまう。まあ、今のところ外交的にも内政面でも大きな問題が無いからではあるし、育成してきた若手の官僚や貴族たちがそれぞれに手腕を発揮してくれるようになったからでもあって、ロベルトとしては大いに妃にかまけても差し支えは無いのだ。

 しいて言うなら、あの麻薬事件以来音沙汰のないヨーゼフ・オイゲンの消息が気がかりだが、一旦大君主国に入った所までは確認済みだが、それ以降はわからないのだ。定期的に文通をしている大君主国の国母によれば、大君主国よりさらに東方の国に向かったのだそうだ。

「あれが何をしたいのか、さっぱりわかりませんが」という彼女の手紙からすると、例によって思いつきで突発的に何事か始める事にしたようだ。当分西大陸の国々に影響は無いだろうという国母の予測は、恐らく正しいのだろう。

 あの時の麻薬中毒患者の男は今では嘘のようにおとなしくなって、まじめに百姓仕事に励んでいるようだ。更に黒い森の奥地の切り開かれた一帯で栽培されていた麻薬は、近隣の国々と協力してすべて抜き取りすっかり焼却処分した。聞けば、その処分以降、麻薬類は東方からの高価な輸入品のみとなり、使用する人間が激減し、その結果、西大陸全体で中毒患者も激減した。


「何をお考えで?」

「お前が子を産む時期も平穏無事に過ぎそうで、ありがたい事だと思っていたのだよ」

「かの人が東方に向かったというのは、まことでしょうか?」

「すくなくとも国母様はそう見ておいでだな」

「姉上もそうお考えのようですが……諦めたのでしょうか? もっともあの人の能力ではかつての神聖帝国の遺民全てをまとめ上げるなど、できそうもないですけどね。小さな公国ですら、治められるかどうか」

「随分移り気で、得手勝手な所がある人のようだからな」

「下々の者と自分が違うと、何の根拠もなく思い込んでいるのだと思います。あのチャチャイ人のフーチョンだって、いつまでも奴隷扱いするかの人よりロベルトを選びました。身近に使えるものの気持ちも推し量れないのですから、多くの人々の気持ちをまとめ上げる事など出来ようはずもありません」

「随分、辛口だが……正しいと私も思う」


 ヨーゼフ・オイゲンが命を狙っているのは明らかなのだが、それでもロベルトに憎しみの感情は無い。アンヌ・テレーゼの兄なのだから、バカな事はやめてほしいと思うばかりだ。自分の手で命を取らざるを得ないような状況にならない事を願っている。


「あんな人でも兄ですから、これ以上馬鹿な事をしないでほしいと思いますのに……諦めてくれないのでしょうか」

「どうなのだろう。何かよほど、それまでの生き方を変えたいと思うような事でもない限り、難しいだろう」

「何があると、考えが変わるでしょう?」

「……さあ、なあ。国母様からの手紙によれば、ヨーゼフ・オイゲンの身の回りの世話を命じていた女が懐妊し、女の子を産んだそうだ。その女は神聖帝国の血筋を濃く引く女だそうで、生まれた女の子は器量よしに育ちそうだとの事だ」

「……あの人は、自分の娘が生まれた事を……」

「知らないのだろうな」


 ヨーゼフ・オイゲンの娘は国母の庇護のもとで生きていくのだろう。親子の縁に恵まれていないその子があまり辛い目にあわずにいてほしいなどと、つい思ってしまうのは、妻の出産が近いせいだろうか。


「国母様が御元気なうちは良いのですが、義母と同じお年頃であったと思いますから……何かあったら、その女の子が気の毒です」

「姉上にお願いするか……いっそのこと、お前が引き取るか」

「よろしいのですか?」

「国母様がわざわざ手紙に書いて寄越すというのは、それなりの含みが有るのだろうと私は思うのだ。おそらく国母様自身に万が一の事が有れば、その子を守りきるのは難しい……そうお考えなのだろうよ。まだ、しばらくは大丈夫なのだろうがな」


 第一、あまりに幼い子は長い船旅をさせるのは心配でもある。


「マンスールちゃまは……ずいぶん無理をしたのですねえ。今はすっかり大きく育ったようですが」

 確かに大君主の跡取り息子のマンスールは、何やら訳のわからぬ後宮での勢力争いのあおりを受けて、赤ん坊の時から船に乗せられてさらわれてしまったのだが、今は立派に育ったようだ。

「運の良し悪しというのは確かに有るよなあ。その女の子の運が、それなりに良いもので有るといいのだが」

「あの困った人の娘でも、赤子に罪はございませんからね」

「あれでもお前の兄上だ。私も余り悪い関係ではいたくないのだが御本人に『死ね』などと言われてしまったからなあ」

「申しわけございません」

「お前に何の罪が有るものか。もうこの話はよそう。な?」

「はい」

 

 再び二人は手を取って、ゆっくり庭を歩く。花の少ない季節だが、フーチョンがチャチャイから持ってきたつややかな丸い葉の花木は、ちょうど今大きな赤や白、薄桃色の花が満開だ。見慣れたバラにも負けない華やかさで、ロベルトが一輪八重咲きの白い花を折り取り、アンヌ・テレーゼの結い上げた黒髪に挿してみると良く映る。


「何と思いのほかよく似合うな。華やかなのにバラのような棘は無い。香りもないのが寂しい気もするが、食事や気に入った香水の香りを邪魔しないという面も有る。そう考えれば、悪くないか」

「では、時折髪に飾って見ることに致します」

「それは良いな。本物の花は金銀珠玉の髪飾りに引けを取らない美しさが有る。そうは思わないか?」

「おっしゃる通りですね」


 うれしげなアンヌ・テレーゼの表情は、ロベルトの気分も明るくしてくれる。


「さあ、そろそろ昼食の支度ができたころだ。今日はな、鴨の美味いローストが出るぞ。好きだろう?」

「はい。御一緒に頂くと、同じ料理でもおいしく感じます」

「それではまるで鴨の良し悪しではなくて、私が一緒か否かが重要なのかと思いたくなる」

「……でも……本当にそうなのです。傍に居て下さるだけで、食べ物の味も良く感じますから」


 いささか不器用に、それでも懸命に想いを伝えようとする妻は実に可愛い。


「あまりに可愛いことを言われると、どうすれば良いのかわからなくて、困ってしまう」


 妻を抱きしめて口づけを降らせても、全く足りない。だが、身重の妻に無理はさせらないし、食事も食べさせねばいけない。妻がひとしきり口づけにこたえて、甘い吐息を漏らし、目を潤ませた所で踏みとどまり、用意のできた二人専用の食堂に向かう事になる。


「さあ、食べよう」


 椅子を引いてやったり、肉を切り分けてやったり、かいがいしく妻の世話をしてやりたくなる。昔から身近にいた「可愛い子」だという意識がいつもあって、夫となった今でもどこか保護者的な気分が強く、時折妻に真顔で「きっと優しいお父様って、このような感じなのでしょうね」などと言われてしまう。今日選んだ鴨肉のローストは滋養に富み、肉もやわらかだ。あっさりしているのに、味わい深い。


「まあ、オレンジを使ったソースが爽やかで、これなら食がすすまない時でも、美味しくいただけそうです」

「サフラン風味の貝のリゾットも人参のクリームスープも、ちゃんと食べたね。良かった」

「はい。どれも美味しくて、優しいお味で、すんなりお腹におさまります」

「そうかそうか」

「いつもありがとうございます」

「私は夫なのだから、身重の妻を気遣うのは当たり前なのだ。母になるのは大変なのに、男は大して手助けもしてやれない。それがもどかしいし、心苦しいのだ」

「三人のお子達がお生まれになるときも、そうやって色々細やかに御心を配られたのでしょうね」


 自分の子を産んでくれた愛人たちは、いずれもしっかりとした気丈な人たちであったからなのか、このように気をもんだ記憶がない。だからと言ってアンヌ・テレーゼがしっかりしていないわけでもないが……


「いや、三人とも良い子を産んでくれたので感謝はしているが、このように気をもんだ事は無かったな」

「……私が、ふがいないからですね」

「いやいや、それは違うよ、アンヌ・テレーゼ。それは全く違う。私が自分勝手に気をもんでしまうだけだ」


 アンヌ・テレーゼは小首をかしげて、ロベルトの言葉について考えているようだ。


「つまりな……その、アンヌ・テレーゼ」


 やはり可愛い、やはりどうしようもなく可愛い……食べてしまいたいほど可愛いとは、こうした事か……


「私はお前が可愛くて仕方がない、それだけの事だと思うのだよ。だが、自分ではこの感情をどうすれば良いのか、どうもわからなくてね。何しろ生まれて初めての経験だから」


 その言葉をようやく理解したアンヌ・テレーゼが、見る見るうちに顔を真っ赤にさせてしまったのを見て、そこはかとなく幸福だと感じるロベルトであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ