凶転
── 土曜日
俺は、家族4人でショッピングに出かけていた。
視線の先では、母と妹が服を手に華やいだ声を上げている。
「長ぇな……」
もうかれこれ1時間近くこの服屋にいる。
いい加減何を買うか決めて欲しいが、この状態の女性陣を急かしても、藪蛇にしかならないのは経験で分かっている。
だからこそ、不満はポツリと零すだけに留めた。
「まあ仕方ない。女の買い物とはそういうものだ」
隣りに立つ父が、俺の独り言に反応した。
特に聞かせるつもりがあった訳でもないので、俺も「そうかね」と適当に相槌を打つ。
「それにしても安心したぞ? 元気そうで。母さんにずっと大学を休んでいると聞いた時は心配したが」
「あぁ……」
今日のショッピングは、俺の気分転換のようなものも含んでいるらしい。
と言うのも、俺は月曜日に大学から家に逃げ帰ってからというもの、大学に行くのをやめてしまったのだ。
あの友人達の真顔を思い出すと、どうしても大学に行く気にはなれなかった。
その結果、家族には体調不良だと言って、金曜日までずっと家に引きこもってしまったのだ。
最初は体調不良という言い訳を信じていたのかもしれないが、流石に5日間も閉じ籠っていれば、家族が心配するのも無理はない。
「悪かったな……心配かけたみたいで」
「いや、大学生活にも色々あるんだろう。無理に話さなくてもいいが、父さん達でよければいつでも相談に乗るぞ」
「ああ……ありがとう」
いつになく饒舌な父からは、本当に俺を案じているのだということが伝わってきた。
しかし、それでも俺はあの日のことを話す気にはなれない。
怖いのだ。
話した結果、もし家族が変貌してしまったらと思うと…………
* * * * * * *
「あぁーー楽しかった!」
「そうね、また来ましょう」
手を繋ぎながら楽しげに歩く母と妹の後を、父と並んで歩く。
結局、あの後も女性陣の買い物にひたすら付き合わされたが、なんだかんだで気は紛れたと思う。まあメチャクチャ疲れたが。
(月曜日……どうすっかなぁ……)
大学に行くべきだろうか?
いや、答えは出ている。
行くべきかどうかと言えば、当然行くべきだ。ずっと休んでいたら留年してしまう。
結局あの日以来、友人達が家に押しかけてきたり何か変なメッセージが送られてきたりといったこともないんだし、案外行ってみたら何事もなかったかのように普通に迎えてもらえる気がしないでもない。
あの日のあれは、一種の集団ヒステリーのようなものだと考えればいい。
(でも……)
真顔。
あの真顔が、頭の中にずっとへばり付いている。
あれが、どうしようもなく怖い。今でも、ふとした拍子に背筋が寒くなるほどに。
(どうすっかなぁ……)
交差点で信号が赤になるのを待ちながら、つらつらとそんなことを考える。
その思案は、突然響いた叫び声によって断ち切られた。
「ひ、ひやああぁぁぁーーーー!!!?」
恐怖に引き攣った男性の声。
驚いて声がした方を見ると、斜め前、交差点を挟んで対面にある歩道から、1人のサラリーマンが転げるようにして車道に飛び出すところだった。
ぞっとした。
サラリーマンが車道に飛び出したことに、ではない。
そのサラリーマンを見る、向こう側の歩道にいる人達の顔に、だ。
「ひっ……」
真顔。
あの、真顔だ。
サラリーマンも一瞬前まで混ざっていたであろう向こう側の信号待ちの集団が、例外なく異様な真顔で、サラリーマンの背中を視線で追っていた。
俺は一瞬にして察した。
あのサラリーマンは、この前の俺だ。
ついさっき、あそこで、あの話をしてしまったんだ。
そして、あの真顔から逃げようと……
「あっ──」
逃げるサラリーマンの横から、大型トラックが突っ込んで来た。
そのことに気付いたサラリーマンの表情が、驚愕と焦燥に歪む。
恐怖にもつれる足で、必死に逃げようとする。
スローモーションのようにやけにゆっくりと見えるその光景の中、俺は気付いてしまった。
今まさにサラリーマンを撥ねようしているトラックの、運転者席。
フロントガラス越しに見える中年の運転手が……真顔でサラリーマンを見下ろしていることに。
そのまま、トラックは速度を緩めることなく交差点に突入し────
バンッ!!
あまりにも呆気なく、サラリーマンの体が宙を舞った。
真横に数メートル吹き飛び、交差点の真ん中に不自然な体勢で転がる。そしてそのまま、ピクリとも動かなくなった。
「あ、あ……」
初めて遭遇した轢き逃げの現場に、それ以上言葉が出ない。
だが、倒れ伏したサラリーマンの周囲に赤い液体が広がっていくのを見て、俺の脳裏に閃光のように、「救急車!」という叫びが走った。
その声に導かれるまま、半ば無意識にポケットのスマホに手を伸ばし──そこで気付いた。
周囲の人影が、微動だにしない。
誰もが俺と同じようにサラリーマンの方を向いたまま、ただじっと立っている。
そのことを認識した途端、俺の体はまるで金縛りにあったかのように硬直した。
(おい……おい……嘘だろ? なあ、嘘だろ!?)
この奇妙な静寂には、覚えがあった。
月曜日に、俺が教室であの話をした時も、こうして──
自然と息が荒くなるのを感じながら、ただ眼球だけを動かし、周囲に視線を巡らせて──震えが止まらなくなった。
今や、交差点にいる全ての人間が、真顔でサラリーマンを見詰めていた。
もう歩行者信号は青に変わっているのに、誰も横断歩道を渡ろうとしない。
ただじっとその場に立ち尽くしたまま、無言でサラリーマンを見ている。
それは、歩行者だけではなかった。
信号待ちをしている車の中の人達も、誰1人車から降りることもなく、真顔で車内からサラリーマンを見詰めていたのだ。
(なんだよこれ……なんなんだよこれ……っ!!?)
がたがたと震えながら、頭の中で答えのない疑問を喚き散らす。
だが、このまま固まっている訳にはいかない。
今この瞬間にも、サラリーマンが助かる可能性は刻一刻と減り続けているのだ。
(くそっ! 落ち着け……落ち着けよ俺……スマホで救急車を呼ぶんだ。それだけでいい。今すぐやらないと、一生後悔するぞ!!)
内心で必死に自分を鼓舞し、俺は遂に動いた。
ポケットからスマホを取り出すと同時に、緊急電話モードにする。
震える指で119番を打ち込むと、スマホを耳に当てる。
『119番消防です。火事ですか? 救急車ですか?』
「あのっ! 人が、トラックに撥ねられて──」
そこまで、言ったところで。
前に立っていた母と妹が、こちらに振り返った。
真顔で。
ジッと、俺を見ている。
いや、2人だけではない。
隣りに立っている父も、真顔で俺を見下ろしている。
その隣の人も、そのまた隣の人も、その向こうの人も、そのまた向こうの人も。
真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔真顔……………………
気付いた時には、交差点にいる人間全員が、サラリーマンではなく俺を見詰めていた。
「う、あ……」
喉が引き攣り、言葉にならない。
通話口の向こうで通話相手が何かを言っているが、何を言っているか理解出来ない。
声はただの音として、耳を素通りして行ってしまう。
「あ、ああ、ああぁぁぁぁーーーー!!!」
俺は恐怖に衝き動かされるまま、走り出した。
顔を伏せ、人混みを掻き分けてただひたすらに走る。
行き先も分からず、ただ全てから逃げるように、死に物狂いで走り続けた。




