10
――俺の中に他人の記憶が入ってくる、そんな気がした。
全身をびっしょりと濡らす汗は冷たく、頭痛と吐き気が同時に襲い掛かってくる。どうにもたまらず、俺は膝を折って床に手を付いた。四つん這いになると額からボタボタと汗が落ち、埃っぽい床に黒いシミを作っている。
「お、おい、暗黒剣――こりゃあ……なんだ。俺は急いでんだよ……ちくしょう……」
『まぁ、初めてだかんな。驚くのも無理はねぇが、すぐに終わらぁ』
「あ、う……あ……ここはどこだ……俺は……どうなってる?」
意識が脳の中に吸い込まれていくような感覚と共に、視界が急速に閉ざされた。代わりに別の景色が、網膜のスクリーン映し出される。これはビショップの記憶……百五十年以上も昔のことだ――と直感的に思った。
■■■■
冬空の下、石畳の街路を手を繋いで歩く兄と妹が見える。兄はまだ十代で、妹は五歳か六歳だ。家路を急いでいるのだろう二人は早足で、大きな袋に詰めたジャガイモやゴボウといった根菜類を持っていた。
「ごめんな、こんなモンしか買えなくて」
「いいよ、父ちゃんも母ちゃんもいないんだし!」
ニッと笑う妹には、前歯が無かった。乳歯から永久歯に生え変わる途中なのだろう。だからこそ兄であるビショップ――俺の意識は――妹に栄養のあるものを食べさせてやりたかった。成長するにつれて容姿が整ってくる妹を見るのは、ビショップにとっても嬉しいことであったから。
家に帰りつくと、先程持ち帰った根菜を煮込み、塩だけで味を付ける。それをただ一つしかないひび割れた器に入れ、兄妹で交互に食べた。
もっともビショップは最初に一切れだけジャガイモを食べると、あとはスープを飲んでいただけだが。
何しろ今日持ち帰った野菜だけで、この冬を越さなければならない。だからビショップが満足いく分だけ食べる訳には、絶対にいかなかいのだ。
といってビショップの身体は、骨が浮き出るほど痩せ細った状態。彼もまた成長期にある為、限界も既に近かった。
ビショップがなぜ、そうまでして妹を大切にするのか――それには理由がある。二人の血が繋がっていないからだ。
だからこそ兄として血よりも強い絆を示そうと、彼は妹の為なら出来る事を何でもやるつもりだった。
もとはと言えば村付きの神官だった父が教会の外に捨てられていた妹を、哀れと思い拾ったことが始まりである。赤ん坊を捨てた者は、神官が命を無碍にするはずも無い――と考えての確信犯だったのだろう。
ビショップの家は、決して裕福とは言えない。それでも父は「これも神の思し召しだ」と笑い、家族として彼女を迎え入れたのだ。同時に父は、こう言った。「今日からお前は兄さんだ。この子のことは、何があっても守りなさい」と。
ビショップにとって神官である父は誇りであり、鉄の掟でもある。だからこそ父が亡くなった今、彼は自身の命よりも大切な存在として妹を育てているのだった。
――ビショップの父母が死んだのは、先年の流行り病である。あっけない最後だった。そして住み慣れた教会に次の神父がやってくると、幼い兄妹はすぐに追い出されたのである。
神官といっても千差万別。特に中央で出世を望む者にとって地方とは金銭を貯める場であり、欲しいものは賄賂だ。したがって育てる為には、それを吐き出さねばならない孤児など邪魔なだけなのである。
だから二人は両親の葬式が済むと、すぐにも教会を出て行かなければならなかった。
両親が辛うじて残してくれたものは、近くの山にある小さなあばら屋と僅かな家財一式、そして老いた馬が一頭だけ。
もちろん家財はすぐに売り払っている。そして今また最後に残った馬を売り、この冬を越せるかどうかという野菜を手に入れたのだった。
もう後がない――ビショップはそう考えたようだ。
冬を越せたとして、春になっても生活を再建出来る保証は無かった。自分はともかく、妹に物乞いなどさせられない。そのような事をしていれば最悪の場合、奴隷として売り飛ばされてしまう可能性もあるのだから。
冬も間近の寒い夜のこと。ビショップは妹が寝た後で、ガタガタと風に揺れる我が家の板戸をじっと見つめ考えていた。早く、何らかの仕事を見つけなければならない。
条件は妹と一緒に暮らせて、かつ二人で食べていけるだけの稼ぎがあることだ。
実は今、ビショップの下には二つの話が舞い込んでいた。常々、「仕事は無いか?」と方々に聞きまわっていたお陰だろう。
一つ目は、ララオーバ伯爵の下へ奉公に出るというもの。
二つ目は、近頃勢力を伸ばしているという秘密結社――神々の黄昏に入るというもの。
――どちらも、悪くない話であった。
伯爵の下へ奉公に出るならば、妹も共に住めるよう部屋を用意してくれるという。給金の方は下働きなのでたかが知れているが、ここならば隙間風の入らない部屋で、暖かいものが食べられるはずだ。
一方、神々の黄昏に入れば、それだけで大金を得られる。もちろんこれは犯罪組織だから、その後、一体何をやらされるのかは分からないが……。
だがその大金が魅力的だった。金さえあれば父から受け継いだあばら屋を直せるし、質の良い服を妹に買ってやることができる……。
「どうしたもんかなぁ……」
こうして悩み抜いたビショップは、結局ララオーバ伯爵の下へ奉公に出る事にした。犯罪組織に入った場合、死の危険が付きまとう。自分が死ねば、妹はどうなる? と考えた結果だ。
それから十数年間、ビショップは懸命に働いた。
この時期に彼は下働きをしながらも勉学にも努め、神官の資格を得ている。ゆくゆくは一つの教区を担当する司教になりたいと考え、ララオーバ伯爵もまた、彼の夢の後押しをしてくれていた。
当時、教会勢力は貴族にとって無視できない存在だったのだ。そこに自身の息が掛かった者を送り込むことは、彼等にとっても重要な意味を持つ。
もしもビショップがララオーバ領の司教とばれば、それは、この地域において伯爵に異を唱える者がいなくなる、という事だった。
そうした事情も手伝ってか、この頃には妹もララオーバ家で侍女として働くことを許されている。同時に淑女としての教育も施されているから、それだけビショップは高く評価されていたのだろう。
貴族と同等の教育を受けて、妹もまた実に美しく可憐に成長を遂げていた。
この頃に妹はビショップと血が繋がっていないことを知り、衝撃を受けている。けれど、それで二人が仲互いをすることは無かった。それどころか血が繋がっていないことを幸いとして、二人はすぐに将来を誓い合う仲となったのだ。
二人はずっと心の中に、秘めた想いを持っていたらしい。だから、そうなるのは当然だった。
――多分ビショップにとって、最も幸せな時期だったのだろう。
しかし状況は一挙に暗転する。
ビショップと妹を応援してくれていたララオーバ伯爵が、突如亡くなったのだ。放蕩者の息子に勘当を言い渡した晩のことだった。
その一週間後、勘当されたはずの息子はララオーバ家を継ぎ、年若い侍女たちを順番に寝室へと呼んだ。中にはビショップの妹もいたのだが――彼女は当然、若き当主の命令を必死で拒んでいる。
「嫌です! いくら若様でも、夜のお相手なんて出来ません!」
「そう言うが、お前を雇っているのは私だ。私の命令に逆らえば、どうなるのか分かっているのか?」
「――どうもなりません! 私、奴隷じゃありませんから! 平民には平民の権利があって、いかに貴族の方と言えども、同意なしに肉体関係を強要するなんて出来ません! そう、法律で決まっています!」
貴族と同等の教育を受けていたからこそ、彼女は理路整然と当主を受け入れる必要が無い事を訴えた。
しかし彼女の知性と気の強さを気に入った新当主は、余計に執着の度合いを強める。こうなるともう、妹は諦めて屋敷を逃げ出す他に手立てを見いだせないのであった。
感想、評価、ブクマなど、頂けましたら励みになります。




