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【4】花の都に住む人は(4)

 明くる日の朝。本家へ電話しに行く竜を送り出そうと外に出ると、玄関から通りにかけて敷かれた置き石に霜が光っていた。生垣の葉には凍てついた朝露がある。雪こそ見られないが、寒気からしてもう立派に冬だった。


 既に空は水色に澄み渡っているが、電話先の故郷はまだ日の入り前かもしれない。ちょうど山々の稜線が白み始めた頃と予想するが、竜のお兄さんは起床しているはずだし、客入りのある日中よりはこの時間の方がかえって都合がいいはずだ。


「では、玉利様のことを兄貴に相談したら、そのまま朝市見てきますね」

「ああ。私も支度したら早めに出掛けるよ」

「ゆっくり出て下さい。なんなら午後からにして、お昼は『俺選、朝市のお土産』食べましょうよ」

「竜が一度帰ってくるなら……どうしようかな」

「ね。そうして下さい」


 寒さで頬をほんのり染めながら、竜はふわりと笑った。甘えるように言うけれど、甘やかされているのは私の方なんだよな。そう思って吐いた息は白い。冬の霞も眠たくなるようで、私は言われるままに頷いて、彼の軽い足取りを見送った。


 普段通りになってくれて素直に嬉しい気持ちだった。昨晩、塞ぎ込んでしまいそうだった竜を元気付けるために、私はデートの誘いをもちかけた。期日は市も休みの明後日。この間貰った洋服は先の晩に披露したきりだったから、あれで一緒に街を歩きたい、という名目だ。

 それから洋服のお返しの英書を贈って「読み終わったら内容を教えてくれ」と頼んだのだが、ありがたいことに私なりのおねだりは効果があったらしかった。


 夜は止んでいた鳥のさえずりが聴こえ始め、生垣の向こうでは時折、小さく足音がする。一日における胎動の時間帯。静かだが寂々とはしていない、呼吸を準備する最中の閑静だった。



「鈴生沙耶子」


 竜の姿が見えなくなってすぐ。通りに面した生垣の上から顔を見せたのは知り合いの頸木(くびき)だった。

 探偵業の傍らで新聞配達や牛乳配達、サイダー売り等、細々した雇われ仕事で生計を立てているこの青年。竜と同い年の彼と話すようになったのは、その雇われ仕事がきっかけだ。


「玉利様とは玉利(のぞむ)、男爵家の跡継ぎのことか」

「そうだけどさ……盗み聞きは困るよ」

「職業柄だ。済まないとは思っている」


 落ち着いた口調と物腰だが、この男の目にはどこか貪欲さがある。本当かよ、と目を(すが)めれば、彼の視線はすっと私を逸れて、庭の南天を見た。


「玉利望、三十八歳。一族の中でも商売に長けた切れ者で、様々な業界に手を出し利益を上げている。前妻とは円満離婚し現在の妻は二人目。子どもは前妻との間に一人だったか」


 頭の引き出しを一つ開け、そこに揃えられた小道具を順々に確認するかのような口ぶりだ。頸木は続けた。


「仕事、私生活、社会への献身ぶり。良い噂しか聞かないな」


 私も竜の同伴で一度だけ玉利様に会ったことがある。確かに社交的で感じのいい人だった。パーティーだというのにダンスを踊れない――これは竜の性質だけでなく夫婦揃って踊り方を知らない田舎者だったという理由なのだが――そんな私たちに彼は滞在時間の殆どを費やし、話し相手になってくれた。ばかりでなく、今にも続く伝手を作らせてくれた。

 贔屓にしてくれているのだ。そもそも、あのときは飲食店関係者の集まる倶楽部のような催しがあって、玉利様から竜治にお呼びがかかったのだから。


「信用できる人ではあるのかな」

「どうかな。あれだけ有名でやり手で、聖人君子の噂しかないのもかえって怖い……ま、俺は性根が捻くれているからな」


 頸木の視線がまたゆっくりと動いた。底光りする瞳は、今度は私の市松柄の帯を見つめている。


 玉利様を出資者に、鈴生屋の販路をさらに広げ、分店を増やさないかという誘い。これが昨日竜が持ってきた話なのだが、正直こちらとしては乗り気ではなかった。

 帝都での地盤固めができていない。人手も足らない。

 そういった理由から、竜と私の間でも反対の考えは一致したし、保守的なお兄さんも良しとは言わないだろう。


 ただ、心配なのだ、下手な断り方をして心証を悪くしないか。これまで十分世話になっているから、誘いを無下にすることに対して申し訳なくも思う。しかしそれ以上に、目を付けられれば帝都にいられなくなるかもしれないという不安があった。華族との付き合い方をいまだ知らない私たちに、突然舞い降りたこの話は重い。


「どの程度の付き合いかは知らないが。向こうも君らの性格を知ったつもりで言ってきていると思うぞ。そもそも出会いはなんだったんだ」

「竜が築地を歩いているときに声を掛けてきたらしいよ。あの辺で洋装は珍しいだろ」

「確かに新進気鋭の商売坊ちゃんに見えなくもない。その辺は玉利望に似ているな」

「実際はお貴族様には程遠いけどな」


 品はあっても切れ者のような風格は感じられない。どちらも伴わない私が言えることではないけれども。


 そうやって砕けた調子で話し込んでいると、やがて隣家の勝手口がきい、と音を立てた。


「どうも。おはようございまし」


 寝巻きらしい長着に茶色の毛皮コートを羽織って出てきたのは、二十歳の女の子。子吉川家の一人娘、花江さんだ。

 身嗜みは整っているが、声を聴くに寝起きと思われる。彼女はあくびを我慢するように口元を手で押さえると、頸木に向かってくいと顎を上げた。

 それを見た頸木も無表情で頷き、


「ではな。鈴生沙耶子」


 とだけ言って、隣家の裏へと足早に歩いて行く。


 朝も過ぎ、活動する者が増えてきた。ふいに物音がして顔を上げると、子吉川家の二階、窓を開けて煙草をふかす守谷さんが見えた。寝巻き姿の彼もまた上方から二人の行方を眺めている。

 冴えた空気に燻る紫煙は白くくっきりとした輪郭を持ち、なかなか消えない。しばらく隣家の窓辺に纏わりついていた。

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