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【22】海と、花と

 土の香る季節になった。

 麗らかな陽射しを受けた南天が新しい芽を付け、鳶が朝からよく鳴いていた。

 窓を開け放した部屋で洋服を畳み、上機嫌に二人分の身支度を整えていると、ふいに呼び鈴が鳴った。


 玄関へと向かっている途中で外から投げかけられる「ご機嫌よう!」の明朗とした声、硝子戸に映るシルエット。誰が来たかなど、考える必要もなかった。


「竜治くんは?」

「珈琲豆、買いに行ってる。趣味なんだ」

「ああ、好きそう」


 戸を開けて出迎えると、普段の和装に身を包んだ朱也は二、三の挨拶の後、簡単に相槌を打った。

 やっぱり予想を外さないよな、と思う。他人を外でもてなす……つまりは家に入れない理由に使ったりもするけれど、竜治は自分で焙煎して淹れるくらいの珈琲好きだ。


 しかし明るい時間に朱也が来るのは珍しいことで、一体何用だろう。窺うように瞬きすると、彼は被っているカンカン帽のつばをやや持ち上げて、甘やかな笑顔を見せた。


「今日これから撮影なんだよ。よかったら二人で見に来ない」

「気持ちは嬉しいけど、竜が戻ったら帰省するんだ」

「へぇ」

「兄夫婦の子どもが生まれたから。お祝いに」


 私が嬉しさを零してはにかむと、朱也は「それはめでたいね」と言って目尻を下げた。この美男の典型は撮影といった言葉の通り、つい最近銀幕デビューを果たしている。


「よう、朱也」


 玄関の外を見やれば、買い物から帰参した竜が門柱を回ってひょいと姿を現した。


「おかえり、竜」

「ただいま帰りました」


 竜は柔らかく笑って答えると、日が照りつける置き石を軽やかに踏んでこちらへと歩み寄る。フロックコートの片腕に紙袋が抱かれていた。彼が一歩近づく度に、新鮮な珈琲豆の香りが強くなった。


「なんだもう帰ってきたのかい、なんて。嘘だよ。撮影見学の誘いに来たのだけど、故郷に帰るらしいね」

「ああ。せっかく来てもらったのに悪い」


 前々から、君たちなら撮影見学ができるよ、と朱也からお誘いを受けていた。せっかくの好意だから行ってみたい気持ちはあるのだが、春の訪れが見えてもなかなか時間が合わないでいる。


 互いの忙しさは承知の上で、それでも付き合っていける関係。時間が合えば気易く会うし、しばらく離れていても縁が薄れるような心配が不思議とない。

 それは人なのか相性なのか偶々なのか、思いつく理由はおそらく全て正しいのだろうけれど、素直に失いたくないと願っている。


 私たちが揃うと朱也は手中の懐中時計を覗いた。こちらの時間も慮ったのだろう、彼は帰る空気を匂わせて、懐から冊子を一冊取り出した。


「これさ、映画雑誌の新刊。私のインタビューが載ってるから読んでみて」


 いつかのように差し出されたそれを受け取ると、こちらが表紙を確認するより早く彼は身体を翻した。


「じゃあねぇ」


 私たちに後ろ向きに手を振って、朱也が去っていく。

 今を惜しむことなく、かといって急くこともなく。下町の小路を愛でるように闊歩していく様子は風流で、映画史に名を残す人の背中は移ろう時代の彩光を浴びたように華やかだった。



***



「沙耶子さん。何考えてるんですか」


 フロックコートをかけてもらった膝の上、両手の指をくいくいと弄んでいると、隣に座っていた竜が久しぶりに口を開いた。ちょうど本を読み終えたところらしく、手の平には小振りだけれどやや分厚いそれが収まっている。


「洋裁の勉強しようと思うんだよ」


 ぴくり、と動いた竜の指の隙間から本の表題が覗いた。銀の箔押しが施されたアルファベットの優雅な綴りは、車窓の外からわずかに入った光を反射して、雫のような煌めきを放った。


「洋服のこと考えるの楽しいし、竜や私が着る服とかさ、買うだけじゃなくて作れるようになったら、面白いだろ。……駄目かな」

「いえ、そんなわけはなくて。ただ、嬉しくて……言葉でどう表現していいかわからないです」


 二人の乗る汽車は松林の中を、前に前にと進み続ける。懐かしい景色が流れていくこの沿線は、いつだって幸福感に満ちている。

 少しの放心から戻った竜は布張りの座席に手を付くと、私を正面から見据えた。


「俺が沙耶子さんに着て欲しい服とか、作ってもらえるんですよね」

「作れるようになったらな。あと、あんまり恥ずかしいのは却下するぞ」

「え……」

「あからさまに残念な顔をするなよ」


 縋り付くような竜の視線を跳ね返し、はぁと息を吐く。私にも恥じらいがあって、限度というものがある。――そう澄んだ瞳で求めてくるのは、嫌いじゃないけれど。


 ふいに視界が開き、車窓の一面がかっと白く瞬いた。顔を前に戻すと、小さく波の立った濃青色の海が、穏やかな表情で私たちを迎えていた。


「……あ。大漁旗」


 共に先を見る竜が、ぽつりと呟いた。


「鈴生家でも揚がってるかな」

「でしょうね。祝い事ですし」


 声を弾ませて笑いかけると、竜もまた花の笑みをほころばせる。


 早春の海風をいっぱいに孕んでは翻る、豊穣のしるし。

 じきに汽車の音は遠くなり、潮騒と温かい故郷の匂いが、今も私たちを包みこんだ。



完結まで予定より時間がかかってしまい、申し訳ございませんでした。

締めることができほっとしているのが今の正直な心境です。

ドタバタを入れた大正恋愛モノ、今シリーズで登場した人ら、当時の文化や建物、全て書きたかったものなので楽しかったです。

お付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。

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