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【閑話】華鳥朱の華やかな休日(2)

 人差し指で睫毛を持ち上げると、凍り付いた雪の粒がほろほろと零れ落ちた。

 視界がないわけではないが、地吹雪が酷い。おまけに路上の雪は踏み固まっていて、革靴では足元が不安定である。


 そういえばかつて、東北を回っていた時代の冬は和装であった。それは金銭的な理由に他ならなかったわけだが、今思うと冬用の洋服を一式揃えたとしても、風土的に向かなかったのではあるまいか。

 少年期から洋装に縛られている彼は、冬場はどうしていたのだろう。


 鈴生潮との話はなかなかに面白く、日が沈むまで続いた。込み入った内情は話せないまでも、土地柄の話題だけでも興味深いし、ネタになる。


 途中、座敷脇の土間を抜けていった兄妹は、訊けば夫妻の子であった。茶を運んできてくれた細君のお腹にももう一人いるらしく、それを話す主人の頬には喜びと緊張と、わずかばかりの気まずさが浮かんでいた。

 その表情に、もしかするとあの二人の養子になったりして――などと想像したのは下世話がすぎる。今日限りで忘れるべきだと思った。


 滑りにくい足場を選んでいると、数人に道を越された。みな歩調が早く、寒風に引き締まった顔で駅へと歩いていく。時間を鑑みるに、おそらく本日最後の便なのだろう。

 私はしばらく彼らと道のりを共にした後、通りの半ばに差し掛かったところで足を止めた。


 相対したのは、春には赤々とした花を咲かせるらしい、大きな木瓜(ぼけ)の木。横の入り口には、『急患は勝手口へお願いします』と、独特の流れるような筆致で張り紙がしてある。


 田舎の診療所としてはまぁまぁの大きさか、というほどの建物を壁伝いに周るとすぐに裏口があり、備え付けの呼び鈴を鳴らすと、すぐに中から足音がした。


 錠の外れる音と共に、木製の開き戸が軋む。

 現れた人物は私の姿を認めると、可笑しそうに頬をゆるめた。


「ごめんなさーい。今日の診察は終了してまーす」

「おや。急患の受け入れはどうしたんだい」

「傷心に出せる薬はあったかなー、なんて。もしかして大当たり?」


 女性よりも艶やかな髪をゆったりと流し、彼は楽しげに私の顔を覗く。その美味い食い物を見るような目を、私は恨みがましく睨み返した。唇を開き、真白い吐息を威勢よく吐き出した。


「やっぱり一枚噛んでいたな。とにかく入れてくれないか。寒いんだ」



***



 通してもらった二階の畳部屋は、想像よりも彼が悠々自適な生活をしている感があった。


 書机の上に寝かせられた紙人形と、傍に積み上がった大量の着せ替え服。高級生地を用いた特注の文化人形。日本画、西洋画、刺繍絵画。


 いたるところに一人の女性が散りばめられていて、彼が普段人を入れていないことは明白であった。


(しずか)ちゃんの住まいにしてはやや手狭だね」

「仕方ないよ。あ、上着掛け適当に使っていいよ。押し入れに布団もあるから、ご自由にどうぞ」

「仲良くしているところに押し入ってすまないね。ありがとう」


 彼が大事にしている恋人のどれにも触れないようにして、荷を解き、着物に着替えてしまう。帯を締めて顔を上げると、壁にかけられた水彩の美人と目が合った。

 長い艶髪を垂らし、静かな表情をこちらに投げかけている。この麗しく賢しい人を、私は実際に会って知っている。


「事前に言ってくれてたら、ご飯とか食べに行ったのになー」


 背後から柔らかな声が聞こえる。


「大したご飯ないよ? 何か作る?」

「いいや、実は手土産があるんだ。つまめたら十分だろう、お互い」


 私はそう言って振り返り、鮭とばの包みを持ち上げた。どこに寄ったかなんて口にせずとも伝わったろう、「そういう朱也くんの図太いところ、好きだなー」と、閑ちゃんは和やかに笑った。



***



 地酒、というのは手に入りにくいものである。

 ガラス瓶が普及し保存や運搬が容易になったとはいえ、都市部に出てくる数はいまだに少なく、有名な酒となると値段が青天井なところがある。そこに目を付け瓶だけ拝借し、別物を入れて販売しようとする悪質な輩だっている。

 つまるところ美味い地酒というのは、気軽に舐められるものではないのである。


 山の女神がつくりたもうたとまで称される某酒を口に含むと、その軽やかな馴染みように驚いた。いくらだって飲めそうだが、酒はしっかり酒である。よって美味いし、呑んだ分は酔いが回る。


 無言で感嘆していると、向かいで鮭とばと対峙していた閑ちゃんがゆっくりと口を開いた。


「災難だったね。ファンに殺されかけたらしいじゃない」

「私くらいになると、それも致し方ないというものだよ。巻き込まれたのが私だけだったなら良かったのだけど」

「言っておくけど、その男と僕は無関係だからねー」

「そうでないと困るさ」


 器用に裂かれた鮭の一切れに手を伸ばし、口に放った。脂ののった身は引き締まっていて、歯で擦る毎に味が出る。多少の生臭さも今日の酒にはよく合った。


「手を加えたのはお沙耶ちゃんの方だろう。行き会ったよ、君が好きな小川町の書店で」

「純で、いい子でしょう」

「そうだね。けしかけてくれてどうもありがとう」

「けしかけたのは朱也くん側のつもりなんだけどなー」


 悪びれる様子もなく紡がれた声音は、全く昔の通りであった。

 果たして一緒に歳を取っているのか疑問な部分はあるが、それでも変化がないといえば嘘になる。私が知る限り、水橋閑は自分から人を動かさない人間であった、以前は。


「事件の詳細、どうせ知っているんだろう」

「うん。伯爵伝手だけど、一緒にいた内の二人が竜治くんらだったのは彼も知らなかったな。倶楽部に気付かれなかったのは、さすがだね」

「ほとんど玉利男爵子息のおかげさ。でもそうすると、閑ちゃんは竜治くんかお沙耶ちゃんから聞いたってこと?」

「沙耶子さん。石月さん家からお嫁に入った、鈴生沙耶子さんからだよ」

「へぇ、嫉妬してしまうな」


 思わず踏み入れたくなるような魅力があるのだろうと、酔い始めの頭で考えた。

 ――どうせ名付けるなら港でなくて、渚の方がよかったのかもしれない。


「ごめんねー。まさか本気になるとは思わなかったから」

「本気なわけないさ」


 鼻で笑い飛ばそうとすると、先に「ふふっ」と零された。

 じゃあなぜここにきたの。そう言いたげな視線をすいと(かわ)す。しかしそうすると、今度は美しい装いの文化人形が薄っすらと私に微笑んだ。


 放っておいたわけでもないのだから、あまり見ないで欲しい。君の恋人は閑ちゃんであるし、こちらもまだ王子の面を捨ててはいない。

 喉を舞台向きに繕って優しくあやすように、私は目の前の人に呼び掛けた。

 

「まだ帝都に帰れないのかい。紗綾姫がいない夜海は、華やかさがなくて寂しいものだよ」

「――今度遊びに帰ろうかしら。わたくしも貴方に会ったら、煌びやかな都が恋しくなったことよ」


 雪の降りしきる町に、まるで別人の声が湧いた。

 『紗綾』という概念を愛する彼。愛するあまり、自らをその姿につくり上げた彼。

 麗しく賢しいノクチルカの姫は、自慢の長い髪を撫でるように梳きながら、「またよろしくお願いね」と首を傾げた。

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