【閑話】華鳥朱の華やかな休日(1)
年の瀬が迫っても世間を騒がせるとは、自分も罪な男になってしまったものである。
掲げていた新聞を折り畳むと、向かい席の貴婦人と目が合った。にこやか、されど記事の内容を考慮して少し困ったように笑みを溢すと、彼女はそれだけで満足したように布張りの椅子席にしなだれる。
齢は三十前後、朱色の落ち着いた着物に芥子色の帯。毛皮の羽織ものを膝から足元に垂らし、女性らしいふくよかな指は先ほどから度々、その新品の毛並みを愛おしそうに撫でている。
日本海までの旅路は長い。退屈であるし、話し相手になってもらおうか、と居住まいを正した私だったが、自制の思いからすぐに身体を引いた。もう一般人に声をかけるのはやめたのだったと、内心で舌打ちをした。
車窓から見下ろす集落は大層な積雪に覆われている。真白い世界に表情を付けるのは、かろうじて頭を出した大樹の緑のみである。どれも文句も言わず、厳冬に静まり返っている。
下積み時代に回った東北もそうだったが、彼らの故郷も遠すぎる。
過ぎていく山村の景色を一瞥し、いつもの饒舌を喉の奥に仕舞い込んで、私――華鳥朱こと片桐朱也は、延々と汽車に揺られていた。
***
「ああ、すみませんねぇ。人違いでした」
「でしょうね! ――ああ、いえいえ、お気になさらず。いいんですよ」
どうやらこの町には、こんなかっちりした洋装をする男は一人しかいなかったようで。
声を掛けてきた漁師らしい男に軽く手を掲げ、腹立たしさと寒さで引き攣った表情を和らげた。そうやって努めて愛想よく返しながら、こんな田舎町、和装で来ればよかったと激しく後悔していた。
――身体付きも同じくらいだし、どうりで既視感があると思った。
旅愁にかられて見に行った港を背にし、漁網を垂れ下げた納屋の外壁に沿って歩きながら、私はお沙耶ちゃんの言葉の意味を噛み締める。新雪を払うように革靴をさばきながら、私と彼女が出会った理由を考える。
それなりに磨き上げた容姿、佇まい。付け焼刃ではないから、今更自尊心に傷が付くようなことはない。が、この扱いはあんまりである。
来年は地方巡業でもして、この顔を、声を、華鳥朱という人物を、地方の人々の記憶に植え付けねば気が済まない。
「――竜治?」
大通りの裏側にあたる道に出ると、背後で私、実際は私ではないけれども、とにかくこの風体を呼び止める声がした。
もう何度目になるかもわからぬ人違い。振り向くのは気が進まないが、無視を決め込むほど冷淡にもなれない。
上半身だけその方を向くと、相手があっと驚く顔をした。私も少々驚いた。その青年が頭にのせているのは警察のシンボルマーク、朝日影であったから。
***
町の目抜き通りに差し掛かったところで警察官とは別れた。
若々しく闊達そうな青年だが、面差しに影がある。人懐こいようでいて、相手を見ないようにしているきらいがあった。
歴史ある港町を巡視する双眸。その小川の底の丸石のような目がまばたきし、睫毛の影が揺れる度、私は彼の中に、一つの諦めに近いものを見た。人に裏切られたことがあるのかもしれないと、一人になった路中でぼんやりと考えていた。
「ごめんください」
毒にも薬にもならない邪推を払うように、屋号の染め抜かれた暖簾をくぐる。閉められていた格子戸をカラカラと鳴らすと、何を見るより先に、磯の匂いが鼻腔に押し迫った。
「どうも、いらっしゃいませ」
出迎えた男と顔を合わせると、互いの足がはたと止まった。向こうが目を見張ったのはもはや予想の範疇であったが、なんだ、まさか当主にお目にかかれるとは思っていなかった。
言われなくともわかる。顔貌の相似はともかく、この男は竜治くんの血縁者だと直感が言っていた。佇まいか、いやそれよりも、声質が近い。
私は目の前の彼――聞いたところだと竜治くんの数少ない血縁者、鈴生潮に、あくまで来客然に話し掛けた。
「鈴生屋の本店で合ってますよね。帝都の鈴生夫妻には、お世話になっているものですから」
私のスーツ姿も相まって、彼の頭の中には竜治くんらのコミュニティの色相が浮かんだことだろう。着物の襟合わせを整えながら、当主は土間をすたすたと歩いてきた。
「恐れ入りますが弟のお知り合いか何かですか」
「友人です。竜治くんとは一緒にカフェにも入った仲でして」
嘘ではないから、自信をもって、満面の笑みで伝えた。
私の言葉にひく、と彼の頬が引き攣るのを見て、見た目の通りお堅い兄さんだ、と思わず唇が歪みそうになる。
弟とは似ない冷涼な表情に滲むのは怒りか戸惑いか。面白い反応を待ち受けたのも束の間、
「ご迷惑おかけしませんでしたか」
私の予想とは裏腹に鈴生潮は眉を下げた。怪訝そうとも、心配そうとも取れる顔である。それで気付いた私は、失敗したと心の内で苦笑した。
「ああ、そうか……いや、元はといえば私の所為だったので。……お嫁さんに一途に頑張ってますよ」
女性に触れられないとかいう彼の性質が、これほど面倒だとは。竜治くんへの嫌がらせのつもりが、どうして言い繕っているのか。
意地悪に返される心遣いがなんとも気まずい。適当に買い物でもして、店を出るべきである、そう考えて私が革靴を後ろに引いたのと、彼が草鞋の底を擦ったのは同時であった。
「うちに上がって一服どうですか。大したものは出せませんが」
水仕事のためか擦れた手の平をきっちりと広げ、鈴生潮は丁寧に私を奥へと誘った。
竜治くんの兄ならそれなりに若いだろうに、仕草も器量も声の張りも、既に大店の主人のそれである。これは竜治くんもお沙耶ちゃんも頭が上がらないだろうなと思いながら、私もまた素直に頷いた。




