【21】顛末、絡み溶けるシベリア
十二月三十日。大晦日を明日に控え、今年予定していた最後の卸仕事が終わった後のことだった。私と竜が朝市から帰ると、門先に来客の姿があった。
「よう」
私たちの帰りを待っていたのだろう。生垣の端に立つ門柱に背もたれていた頸木が、上体を起こしながら小さく挨拶した。
『ノクチルカ』以来に会う彼は、マントの中に両腕をすっぽりと隠し、茶色のハンチング帽子を目深に被っている。足元には横側の擦れた、しかし頑丈そうな革のブーツ。
着古した衣類と気安い声音はあの夜の彼を全く想起させなかったが、手にしていた拳銃の発砲音や硬質な威圧感は、まだ私の中に生々しい記憶として残っている。
私が反射的に足を止めると、それよりも一歩多く進んで、竜が言った。
「先日は互いに災難でしたね。もう平気なんですか」
猜疑の色をわずかに帯びた竜の挨拶に、頸木は短く「ああ」とだけ答えた。次いで私たちが警戒しているのに気付いたようで、マントの裾から左右に手を生やす。
何も持っていない。ただ年暮れの風が抜ける小路にばささ、と厚手の灰土色がひらめいた。
待っていたということはそれなりに用事があるのだろうが、彼はこれ以上続けない。あまり関わり合いになりたくないとはいえ、家に入れた方がいいのだろうか。
その迷いが頭をよぎったと同時、竜がへらりと笑った。
「珈琲の気分なので、良かったらミルクホールでも行きませんか。年末でも空いているところ、いくつかありましたし」
***
竜が先立って選んだ喫茶店は、家から一番近所にある、英吉利帰りの男店主がやっている軽食屋だった。
木造二階建ての建物の一階のみを店舗としているそこは、四人掛け、二人掛けの卓席が二つずつにカウンター席が五席と、それなりに広さがある。
四方に腰壁が巡らされていて、欧風に飾り彫りされた材木がくっきりと白色の床と壁とを隔てている。私たちの座る木製椅子もヴィクトリアン調だ。
後から店主の趣味に沿うよう改装されたのだと、竜から聞いていた。
私と竜の前には珈琲、頸木の前にはミルク。それから三人全員にシベリアケーキが配膳されると、頸木はつらつらと喋り始めた。
「釈放されたのはつい先日だ。被害者を守ったということできちんと決着したが、取り調べがしつこくてな。もっともそれは俺だけで、片桐朱也と玉利望はその日のうちに帰されたようだが」
「あの二人は別格だろ。……何にせよ、守谷さんの太腿に誤射したお咎めがそれだったんだよな。こう言っていいのかは分からないけれど、ありがとう。事態を収めてくれて」
肝が冷えたけど、と胸中で付け加えながら私はシベリアをつついた。あんこをカステラで挟んだ三層のケーキだが、癒着した二つの甘味を舌でさらに絡ませるのがこれを食す楽しみだ。
玉利様から竜に手紙が来ていて、事件の大体のあらましは伝わっていた。朱也とも話したいと思いスーツを返しに片桐家に行ったのだが、あの姉妹曰く、若は休暇を取っていて帝都にいないとのことだった。
「そもそも、どうしてあの店にいたんですか」
ひとしきり珈琲を味わった舌で竜が訊いた。頸木は考える素振りも見せずに、シベリアを刺したフォークを掲げながら口を動かす。
「子吉川花江にな、片桐朱也の調査を依頼されていたんだ。いやなに、追っかけだからではない。そんな理由なら流石に断っていたんだが、あの娘、守谷の部屋で件の原稿を読んだらしくてな。あまりの妄執じみた内容に片桐の方が何者なのか心配になったそうだ。で、いざ調べて倶楽部に潜り込めば、君たちがいるじゃないか」
頸木と花江さんが早朝に会っていたのは、どうやらその依頼のためだったようだ。
「花江さんは事の顛末は」
「殆ど知っているが、俺が守谷を撃ったことは言っていない。どうか黙っていてくれないか。あいつと守谷は関係があったから、何を言われるかわからん」
易々と顧客情報を垂れ流す頸木に溜息を吐きそうになりながらも、私はうんと頷いた。
その辺りの話は私の耳にも入っている。痴情のもつれではないかという下世話な周囲の噂話に、彼女はわざわざ頷いて、
――成美ったら華鳥朱に嫉妬するほど私のことが好きだったのかしらん。私ったら朱ばかり追い掛けて、あの人に可哀想なことをしたのかも。……元々生真面目で不器用な人だったから。
などと吹聴していたのだ。真相を知る私としては、とぼけたのではないかと思った。守谷さんを庇ったのかもしれないと。
憧憬に取り憑かれたのは自分。守谷さんは恋の被害者なのだと騙ることで、守谷さんの風評があれ以上面白おかしく広まるのを防ぎたかった。
的外れの推測かもしれない。けれど、なぜか色恋沙汰の方が同情される世相だから、私はそう考えることにした。
「むしろ花江さんの方が華鳥朱に嫉妬してたんですかね」
「さぁな。あの娘は高慢ちきが過ぎて、最後まで付き合いにくかった」
「ああ。気持ちはわかります」
竜と頸木が顔を見合わせ苦笑した。同い年なのだが、口調のせいか態度のせいか、頸木の方が年上に見える。苦笑いしたそのままの顔で、彼は言った。
「いずれにしろ。守谷のことを思っての依頼だったのに、その守谷を撃ってしまったからな。金は受け取ったし、俺はさっさと消えようと思う。いずれは奴も出所するだろうし、万が一顔を合わせてしまったら、気まずくてかなわん」
出所したら、彼は子吉川家に帰ってくるのだろうか。それとも帝都を去るのだろうか。刑期ってどのくらいだ。
「そういえば。カクテルの中、何が入っていたんだろう」
「十中八九、猫いらず(※殺鼠剤)だ。卓の全員のに入れていれば、飲ませる際もごまかせたかもな」
不安を滲ませて訊けば、頸木はしれっと答えた。丁度珈琲を口にしていた竜が吹きそうになる。私も思わず顔をしかめて、飲みかけていた珈琲カップを卓上に戻した。
「竜の存在に気づいてたよ、守谷さんは」
「だからやめたのかもしれない」
揺らいだ珈琲の液面が視界に入って、自分の手で覆った。上がる熱気が冷え固まった手指を温める。
同情するわけはないが、どうしたって気が滅入る。そんな私たちの様子を見てか、ホットミルクの入ったカップを取りあぐねて、頸木が続けた。
「気に病む必要なんかない。守谷成美は君らを巻き添えにする気は無かったのだろうが、君らが殺人の容疑者になるのはかまわなかったんだぞ。お人好し夫婦だな、どこまでも」
「分かってるけどさ。元々知り合いなんだよ、心の整理が追い付かないんだ」
「君らに関係なく、奴は半端だから失敗した。それだけだ。……まぁ、かくいう俺も太腿に留めたのだから、人のことは言えないがな」
「えっ」
誤射でなかったのか。目を見張ると、彼は唇の端をかすかに上げた。
「早く忘れてしまえ。忘れる技術は大切だ」
向こうの皿の上はいつの間にか無くなっていた。シベリアをぺろりとたらい上げ、縁の広いカップで口元を隠しながら、頸木はまたあらぬ方を見た。




