22.魂の死淵
俺は死ぬことが怖くない。
死はただの状態であり、結果のごく一部だから。
俺が恐れるのは、死によって失われる物事だ。
名誉、約束、信念、家族――それから愛した人。
負けたという結果を残して死ぬのが怖い。
約束を守れなかったという、不誠実さを見せて死ぬのが嫌だ。
掲げた信念の半ばで終わることが許せない。
二度と家族を思い出せないのが、辛い。
想い人に、何も伝えられずに終わるのは死よりも苦しい。
だが、死んで何かを得られるのなら。
俺はきっと、直ぐにでも舌を噛み切るだろう。
◇
気付けばあれだけ感じていた痛みが消えていた。
その代わりに手足の、体の感覚がない。
まるで水の中にいるような、ふわふわとした浮遊感がある。
視界は、白一色に染まっていた。
それが時折水の中に絵の具を垂らしたように、濃淡を変えて蠢いている。
声は……出せない、意識だけがこの場にあるようだ。
ここはどこだろう? 俺は死んだのだろうか?
無名の神と戦っていた時までしか記憶がない。
あの後どうなった? 師匠は?
状況は何一つ分からない。
ただ、俺が負けたということだけは理解した。
多分敗因は、[リセットポーション]の仕様を勘違いしていたことだ。
ポーションは使用した対象のレベルを、"成長前"まで戻す。
この仕様通りだと、プレイヤーを含む生物は、大抵が赤子の時点――つまり"レベル1"になる。
ただ、特殊な方法で生み出されたり、呼び出された存在は例外。
無名の神はその類だった――と考えるのが妥当だろう。
あれはそもそも魂を生贄にしているので、その経験値を吸収しているという解釈も出来る。
だが、今更こんな事を考えても、益体無しだ。
いつだって、後悔や反省が失敗の先に立つことはない。
傷つき、打ちのめされ、人は初めて已を省みる。
取り返しが付かなくなって漸く、学び、教訓を身に刻みつけるのだ。
しかして、失意に沈み、思考を投げ出そうとしていた時。
ふと、目の前の白が歪んで景色が変わった。
無造作に動いていたマーブル模様の色彩が、はっきりと輪郭を形作る。
最初に映ったのは、赤子を抱いた、稲穂のような髪色をした女性だった。
穏やかに眠る子を、愛おしげに見つめている。
『ルキウス、私の可愛い子』
頭に直接響いた、溶けるように柔らかな声。
女性の呼ぶ名前は、ティアルナが師匠に向けて放ったものと同じだった。
そのすぐ後、油絵の具でキャンパスを塗り替えるように、景色が変化する。
次に見えたのは、薔薇の咲き誇る庭園だった。
先程の女性の面影を持つ少女と、彼女に追いかけられる雪白の少年の背中。
よく見れば、少女はティアルナ――ではなく、ミランダによく似ている。
『ルキウス、逃げるな! 姉の言うことが聞けないのか!?』
『うるせぇミラ姉! 俺は座って勉強なんざ御免だ!』
少年は木剣を片手に、柵を越えて何処かへ駆けていく。
その先には、見覚えのある帝都の影が伸びていた。
違うのは都市に溢れる活気と、人々の息遣いだ。
ここで俺は、自分が何を見ているのかを理解した。
これは師匠に纏わる過去の記憶だ。
『親父、悪いが已れは跡継ぎって柄じゃねぇ。ちっぽけなその椅子より、広い世界の方が性に合ってる』
次の記憶は、玉座に座る男と、瓜二つの青年が相対する場面だった。
青年は皇太子の立場を捨て、たった一振りの剣だけを手に玉座の間を後にする。
その様子を見る皇帝の表情は厳しい。
ただ、瞳は息子を気に掛ける父の情を隠しきれずにいた。
『ルキウス殿!』
『ルキウス……!』
景色は移り変わり、そびえ立つ山嶺に、巨大な竜の姿を映し出す。
ルキウスの隣には、刀傷のある侍。それから背の低い、髭を蓄えた男の姿があった。
2人の呼びかけに応え、彼は竜へと果敢に斬りかかる。
その体と振り上げた剣は雷を纏い、黄金に輝いていた。
そして、山のような体躯の竜を、たった一太刀で斬り伏せてしまった。
喜色満面で駆け寄る仲間の姿。
そんな輝かしい栄光の記憶から一転、世界が闇に閉ざされる。
『陛下!?』
玉座の間にて、怪しげな黒装束の集団に囲まれる帝国の兵士たち。
その中には師匠もいて、瘴気に塗れた皇帝を見て叫んでいた。
手を伸ばすも、墨で塗りつぶしたように全身が黒く染まっていく。
やがて肉体が肥大化し、俺の知る姿へと変貌すると、耳を劈くような咆哮を上げた。
声を聞いた兵士たちは苦しみ、狂い、最後には魂を奪われて消滅していく。
抗えた者の半数は逃げ出し、師匠はまだ幼い弟の手を引いて帝都を脱出した。
それから三日三晩、地獄の様相を見せるミッドランドを馬で駆けた。
弟を瘴気から庇うように抱きしめ、そして、俺と出会った砦まで辿り着く。
地下に降り、「兄を置いて行けない」と逡巡する弟を追い立てる勢いで、通路に急かす。
そうして、暗闇に溶けていく後ろ姿を見送り――師匠はその場に崩れ落ちた。
瘴気に蝕まれ、苦悶する息遣いだけが地下の空洞に響く。
見下ろした掌はぐずぐずに爛れ、もう命の灯火が幾ばくも無いことを告げていた。
何度かゆっくりと瞬きをした後、師匠は動かなくなった。
次が多分、最後だろう。
その光景は俯瞰ではなく、師匠の目線で再演された。
ぼんやりとした視界に映る、黒い髪の少女。
『んだよ、師匠』
俺が軽口を叩いた時。不平不満を漏らした時。
師匠は叱り、諌め、説き伏せながらも、内心では悪くないと感じていた。
同胞の刀に弟子が貫かれ、荒れた海のように波立つ感情。
実の姉の体を奪われ、冒涜されたことで滾らせた殺意。
死の光に呑まれそうな俺の前へ飛び出した時の覚悟。
全部が、俺の中に流れ込んでくる。
こんな形で他人の感情を知ることになるとは思わなかった。
知りたいと思ったことも無い。
けれど、これで改めて気付かされた。
俺が負けたことで、失ったものは俺の命だけではなかった。
俺の敗北は、この土地で散った全ての者の死を無為に帰す。
オボロの託してくれた希望も、約束も破ることになる。
師匠が俺にくれた慈悲も、優しさも、愛も裏切ることになる。
忘れられた物語のように、緞帳の降りた舞台のように、人知れず水底で命を落とす魚のように、宙の片隅で光になった星のように。犠牲になった者たちの怒りも、悲しみも、絶望も、恨みも、未だ果たされぬ切望も、誰にも継がれずに失われてしまった。
ただの迷子のよそ者が、責任を負う必要はないのかも知れない。
けれど、彼らの最期の望みを果たせるのは俺だけだった。
俺は俺の死の意味を知り、深い絶望に苛まれた。
死ぬこと自体は怖くない。
死はただの状態であり、結果のごく一部だからだ。
それによって失われる物事たちを、俺は恐れている。
死んで得られるものなど、なにもない。
心が徐々に冷えていき、世界が閉ざされていくように感じられた。
あらゆるものが曖昧になって、暗澹たる海の底に沈んで行くように、思考が緩慢になる。
段々と、自分の魂が死に向かっているの感じた。
そうして、最期、意識が闇へ溶け出す――
その直後。
「何をしている」
背後から、聞き慣れた誰かの声がした。




