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22.魂の死淵

 俺は死ぬことが怖くない。

 死はただの状態であり、結果のごく一部だから。


 俺が恐れるのは、死によって失われる物事だ。

 名誉、約束、信念、家族――それから愛した人。

 

 負けたという結果を残して死ぬのが怖い。

 約束を守れなかったという、不誠実さを見せて死ぬのが嫌だ。

 掲げた信念の半ばで終わることが許せない。

 二度と家族を思い出せないのが、辛い。

 想い人に、何も伝えられずに終わるのは死よりも苦しい。

 

 だが、死んで何かを得られるのなら。

 俺はきっと、直ぐにでも舌を噛み切るだろう。


 

 


 気付けばあれだけ感じていた痛みが消えていた。

 その代わりに手足の、体の感覚がない。

 まるで水の中にいるような、ふわふわとした浮遊感がある。


 視界は、白一色に染まっていた。

 それが時折水の中に絵の具を垂らしたように、濃淡を変えて蠢いている。

 声は……出せない、意識だけがこの場にあるようだ。


 ここはどこだろう? 俺は死んだのだろうか?

 無名の神と戦っていた時までしか記憶がない。

 あの後どうなった?  師匠は?


 状況は何一つ分からない。

 ただ、俺が負けたということだけは理解した。

 

 多分敗因は、[リセットポーション]の仕様を勘違いしていたことだ。

 ポーションは使用した対象のレベルを、"成長前"まで戻す。

 この仕様通りだと、プレイヤーを含む生物は、大抵が赤子の時点――つまり"レベル1"になる。

 

 ただ、特殊な方法で生み出されたり、呼び出された存在は例外。

 無名の神はその類だった――と考えるのが妥当だろう。

 あれはそもそも魂を生贄にしているので、その経験値を吸収しているという解釈も出来る。 


 だが、今更こんな事を考えても、益体無しだ。

 いつだって、後悔や反省が失敗の先に立つことはない。

 傷つき、打ちのめされ、人は初めて已を省みる。

 取り返しが付かなくなって漸く、学び、教訓を身に刻みつけるのだ。


 しかして、失意に沈み、思考を投げ出そうとしていた時。

 ふと、目の前の白が歪んで景色が変わった。

 無造作に動いていたマーブル模様の色彩が、はっきりと輪郭を形作る。


 最初に映ったのは、赤子を抱いた、稲穂のような髪色をした女性だった。

 穏やかに眠る子を、愛おしげに見つめている。

 

 『ルキウス、私の可愛い子』


 頭に直接響いた、溶けるように柔らかな声。

 女性の呼ぶ名前は、ティアルナが師匠に向けて放ったものと同じだった。

 そのすぐ後、油絵の具でキャンパスを塗り替えるように、景色が変化する。

 

 次に見えたのは、薔薇の咲き誇る庭園だった。

 先程の女性の面影を持つ少女と、彼女に追いかけられる雪白の少年の背中。

 よく見れば、少女はティアルナ――ではなく、ミランダによく似ている。


『ルキウス、逃げるな! 姉の言うことが聞けないのか!?』

『うるせぇミラ姉! 俺は座って勉強なんざ御免だ!』

 

 少年は木剣を片手に、柵を越えて何処かへ駆けていく。

 その先には、見覚えのある帝都の影が伸びていた。

 違うのは都市に溢れる活気と、人々の息遣いだ。

 

 ここで俺は、自分が何を見ているのかを理解した。

 これは師匠に纏わる過去の記憶だ。


『親父、悪いが已れは跡継ぎって柄じゃねぇ。ちっぽけなその椅子より、広い世界の方が性に合ってる』


 次の記憶は、玉座に座る男と、瓜二つの青年(ルキウス)が相対する場面だった。

 青年は皇太子の立場を捨て、たった一振りの剣だけを手に玉座の間を後にする。

 その様子を見る皇帝の表情は厳しい。

 ただ、瞳は息子を気に掛ける父の情を隠しきれずにいた。


『ルキウス殿!』

『ルキウス……!』

 

 景色は移り変わり、そびえ立つ山嶺に、巨大な竜の姿を映し出す。

 ルキウスの隣には、刀傷のある侍。それから背の低い、髭を蓄えた男の姿があった。

 2人の呼びかけに応え、彼は竜へと果敢に斬りかかる。

 その体と振り上げた剣は雷を纏い、黄金に輝いていた。

 そして、山のような体躯の竜を、たった一太刀で斬り伏せてしまった。

 

 喜色満面で駆け寄る仲間の姿。

 そんな輝かしい栄光の記憶から一転、世界が闇に閉ざされる。

 

『陛下!?』


 玉座の間にて、怪しげな黒装束の集団に囲まれる帝国の兵士たち。

 その中には師匠もいて、瘴気に塗れた皇帝を見て叫んでいた。

 

 手を伸ばすも、墨で塗りつぶしたように全身が黒く染まっていく。

 やがて肉体が肥大化し、俺の知る姿へと変貌すると、耳を劈くような咆哮を上げた。

 声を聞いた兵士たちは苦しみ、狂い、最後には魂を奪われて消滅していく。

 

 抗えた者の半数は逃げ出し、師匠はまだ幼い弟の手を引いて帝都を脱出した。

 それから三日三晩、地獄の様相を見せるミッドランドを馬で駆けた。

 弟を瘴気から庇うように抱きしめ、そして、俺と出会った砦まで辿り着く。

 

 地下に降り、「兄を置いて行けない」と逡巡する弟を追い立てる勢いで、通路に急かす。

 そうして、暗闇に溶けていく後ろ姿を見送り――師匠はその場に崩れ落ちた。

 瘴気に蝕まれ、苦悶する息遣いだけが地下の空洞に響く。

 

 見下ろした掌はぐずぐずに爛れ、もう命の灯火が幾ばくも無いことを告げていた。

 何度かゆっくりと瞬きをした後、師匠は動かなくなった。

 

 次が多分、最後だろう。

 その光景は俯瞰ではなく、師匠の目線で再演された。

 

 ぼんやりとした視界に映る、黒い髪の少女。


『んだよ、師匠』


 俺が軽口を叩いた時。不平不満を漏らした時。

 師匠は叱り、諌め、説き伏せながらも、内心では悪くないと感じていた。

 

 同胞(オボロ)の刀に弟子が貫かれ、荒れた海のように波立つ感情。

 実の姉(ミランダ)の体を奪われ、冒涜されたことで滾らせた殺意。

 死の光に呑まれそうな俺の前へ飛び出した時の覚悟。

 全部が、俺の中に流れ込んでくる。

 

 こんな形で他人(ひと)の感情を知ることになるとは思わなかった。

 知りたいと思ったことも無い。

 けれど、これで改めて気付かされた。

 俺が負けたことで、失ったものは俺の命だけではなかった。


 俺の敗北は、この土地で散った全ての者の死を無為に帰す。

 オボロの託してくれた希望も、約束も破ることになる。

 師匠が俺にくれた慈悲も、優しさも、愛も裏切ることになる。

 

 忘れられた物語のように、緞帳の降りた舞台のように、人知れず水底で命を落とす魚のように、(そら)の片隅で光になった星のように。犠牲になった者たちの怒りも、悲しみも、絶望も、恨みも、未だ果たされぬ切望も、誰にも継がれずに失われてしまった。

 

 ただの迷子のよそ者が、責任を負う必要はないのかも知れない。

 けれど、彼らの最期の望みを果たせるのは俺だけだった。


 俺は俺の死の意味を知り、深い絶望に苛まれた。

 死ぬこと自体は怖くない。

 死はただの状態であり、結果のごく一部だからだ。

 それによって失われる物事たちを、俺は恐れている。

 

 死んで得られるものなど、なにもない。

 心が徐々に冷えていき、世界が閉ざされていくように感じられた。

 あらゆるものが曖昧になって、暗澹たる海の底に沈んで行くように、思考が緩慢になる。

 段々と、自分の魂が死に向かっているの感じた。

 

 そうして、最期、意識が闇へ溶け出す――


 その直後。

  

「何をしている」


 背後から、聞き慣れた誰かの声がした。

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