ルーヴル三翼長
窓から覗く空はどこを切り取ってもグレーばかりで、昼下がりの陽気さなど欠片も見当たらない。忘れ去られた墓地のような静粛さ漂う、午後のルーヴルだ。
そんな静まり返った廊下に一人の女の姿があった。エキゾチックなターバンを頭に巻きつけ、編み込んだ焦茶の長髪を高いところで一つに結んだ長身の女は、身に纏ったペプロスをまるでギリシア彫刻のように緩やかになびかせている。
派手な模様は嫌いじゃないが、目の芯が痛むほどギラつくこの部屋の装飾はいかがなものか。過去の遺産に心の中で悪態をつきつつも、金箔を張り巡らせた豪華絢爛な廊下を、女は――ジェルメーヌ・ドラクロワは、普段よりもじっくりと時間をかけて歩いていた。
「よ、ミス・ドラクロワ」
いきなり、背後からだるそうな男の声が投げかけられた。聞き知った声に、ドラクロワは白けた顔で振り返る。
「工房の外にいるなんて珍しいじゃん。何してんのよ」
やはりそこには予想通りの男が、ポケットに手を突っ込んでだらしなく立っていた。
「それはあたしの台詞だわ。そっちこそどうしてルーヴルにいるの」
「いちゃ悪いのかよ」
そう言って、男は極力力を使わないような笑い方をした。
目の前の男率いるAEP研究チームは、別棟――かつてのオルセー美術館――を丸々所有している。だから、こんな真っ昼間に彼らをルーヴル発電所で見かけるのは稀なのだ。
「ほんと、いつ見ても不摂生丸出しな姿よね。リシュリュー長の名が泣くわ」
ボサボサの金髪は、伸びきった前髪がてっぺんでピンによって留められている。色落ちしたTシャツに、よれた白衣。二十代前半、まだまだ若い男のくせに、目の下には落書きでもしたような酷いくまが浮き出ている。まさに不健康を具現化したような男だと、ドラクロワは目にする度に逆に感心させられる。
「いいんだよ。俺は身だしなみには興味ないんだから。研究が全ての欲求を満たしてくれる。おたくだって同じようなモンじゃん」
「身だしなみのレベルをアンタと一緒にしてほしくないんだけど」
汚れた白衣の裾を指でつまんでヒラヒラさせている男に、ドラクロワはぴしゃりと言ってのけた。そりゃそうか、と男はまたしてもだるそうに笑った。
彼の名はシモン・レンブラント。ルーヴル発電所の研究部門〈リシュリュー翼〉を統括するリシュリュー長その人である。
彼が研究部門のトップに躍り出た頃のことを、ドラクロワは今でもよく覚えている。彼女だけではない。きっと内輪の人間なら誰しも記憶に残っていることだろう。それまで年功序列の節があった代表選出において、彗星のごとく現れたのが名も知られていない若僧だったのだから。
「こんなところで油売ってて良いの?」
ドラクロワの声色には、呆れたというよりも少しだけ心配そうなニュアンスが滲んでいる。
はぁ、と口を薄く開いたままのシモンに、彼女は「えーと、ほら。なんだっけ」と首をひねる。
「ゴミから石油を取り戻す……」
「廃棄物系バイオマス」
「バイ?」
「の、油化装置」
口の中であやふやに復唱してみてから、ドラクロワは分かったような振りをして「ああ、うん、そういうやつよ」と相槌を打った。
研究に対して非常に貪欲な彼は、リシュリュー長の座に就いて間もなく大業を成し遂げる。なんでも、大量の電力を消費して廃棄物から石油を精製する技術を開発したらしい。
AEPが発明され生活の基盤が電力に頼りきりになった今でさえ、枯渇したエネルギー源と手を切ることは難しく、残された問題は山積みだった。化石燃料から得られるものは多い。例えばそれは薬や衣類、プラスチックであったりした。
結局人類は、何億年前の生命の恩恵にあやからなければ生きていけない存在だったのだ。
だが、今は違う。
人々の生み出す『負の財産』を『宝の源泉』に代えたのだ。薬の開発や衣類の製造は瞬く間に元のスムーズさを取り戻した。同時に人の心にはびこる罪悪感さえ昇華してしまったことを考えれば、詳しい原理まで分からないドラクロワにも、それが偉業であることは十分理解できた。
「色々と調整で忙しいんでしょ」
「んー? 忙しいのは別件」
シモンはポケットから小ぶりのタブレットケースを取り出した。ざかざかと白い粒を大量に手に取り、それを一気に口に放り込む。
「廃棄物油化計画の改良は部下に全部投げてる。俺は新しい研究に取り組み中」
いる? とでも言いたげに、彼の手がタブレットケースを差し出してきた。ひんやりとしたミントの香りが辺りに漂う。ドラクロワは眉間にしわを寄せて首を横に振った。お菓子と分かっていても、歯磨き粉のかたまりを食べているような気分になってどうも好きになれない。
「それよりヤバいのはドゥノンの方なんじゃないの?」ケースをポケットに仕舞いながら、シモンは試すような視線を投げかけた。「うまくいってないんだろ、絵画の修復」
カーン、カーン。遮るように、二人の間を時計塔の鐘の音が通り過ぎる。セーヌ川沿いに並ぶ、かつての牢獄にそびえ立つ時計塔の鐘だ。
絵画修復を一手に担う部門〈ドゥノン翼〉。そのトップを制するドゥノン長――ドラクロワは、リシュリュー長の言葉を受け止めて、重たい息を吐き出した。
「確かに、ここ最近エネルギー還元率が落ち込んでいるのは事実だわ」
言いながら、ドラクロワは組んだ腕の上を指でトントンと叩いた。
「需要と供給のバランスを見ればまだ余裕はあるけどなぁ。どうかね、このまま行けば。予期せぬ停電が起こり始めたらいくら馬鹿な市民だって……」
シモンはロウソクに見立てた人差し指に向けて、ふっと息を吹きかけた。
世間には具体的な発電量を公表していない。総発電量が右肩下がりに減少している実態を知るのは、ルーヴル発電所の中でも上層部の人間だけだった。
だから世の中は今まで通り平和な空気に包まれている。そう見せかけている。その平和が偽りかもしれないなどと、誰も疑問に思ったりしない。灯が消えた真っ暗な世界なんて、とっくの昔に過ぎ去ったおとぎ話だとでも捉えているのだろう。
シモンはにやにやと笑いながらこちらに視線を向けている。それが余計にドラクロワの心を苛立たせる。
「でもそれが修復技術の衰えと結びつくわけじゃないでしょう? 腕のある画家が減ってきているだけかもしれないし」
「ふぅん。ま、それも一理ある。じゃあ昔の画家が描いた絵は? 価値の高い昔の巨匠の絵画だよ――やっぱ還元率、落ちてんだろ」
「――アンタ、データを盗み見たのね」
卑劣な男。興味本位でデータを覗くなんて、モラルが欠落している。
相変わらずのニヤニヤした笑みを、ドラクロワはキッと睨みつけた。
「盗むって」
人聞きの悪い、とシモンは肩を上げておどけてみせた。
「研究に必要だったんだよ。たまたまさ」
「ふん、どうだかね」
ドラクロワは苛立ちまぎれに窓の外へ目をやった。隣に立つ猫背のひどい男も、倣って体を窓の外へ向ける。ルーヴルの荘厳な建物に護られるように中央に佇むピラミッドが、頼りなく光を漏らす。
「もしくはオンファロスが原因か」
ぽつりと呟かれた言葉に、ドラクロワは思わず男の横顔を凝視した。
「……本気で言ってるの?」
「あり得ない話じゃないでしょ。所詮機械なんて消耗品だ。それを造ったのだって人間で、神じゃない」
「まぁ、そう……だけど」
けろりと言ってのける彼の横顔からは、冗談の色など一滴も見当たらない。
濁った灰色の瞳の先には弱々しく発光するオンファロス。ただの発電器とは知りながらも、人々はどこかこのピラミッドを神聖視している節がある。自分だってそうだと、ドラクロワは思う。
人がいつか寿命を迎えるように、機械だっていつかは壊れる。
そんな当たり前の摂理を、いつしか人々は自分たちの生活とは無関係だと切り離してしまったのだろうか。あるいは闇に射した一筋の光を盲信しているのだろうか――。
「シュリー長を探してるんだろ」
突然の質問に、ドラクロワはむせ込んだ。
「え、な、なによ急に」
「適当に言った」
「は?」
「嘘。顔に書いてある」
「うそ――」
「嘘」
「はあ?」
男のニタニタとした笑みが憎らしい。頭の良い人間はどうしてこうも人を苛つかせる達人なのか――随分な偏見を視線に込めて男を睨みつけた後、ドラクロワはペプロスを翻して廊下を引き返した。が、
「俺も探してんのよ」
数歩行ったところで背中に声を掛けられ、ぴたりと足を止める。
「そろそろ伯爵に会いたいじゃん?」
伯爵――サンジェルマン伯爵に会いたいと、シモンは言う。オンファロスの創造者、現代の救世主に会いたいと。
彼がその姿を人前に晒す機会は極めて少ない。もっと言えば、彼と言葉を交わしたことがある人間はおそらくこの世に二人しかいない。
そのうちの一人がフランス大統領。
そしてもう一人はシュリー長、ダニエラ・ダリだ。
謎に満ちた存在が、余計に彼や、あるいは彼の作り出した物に対して神聖な印象を与えるのかもしれない。信仰心は人の不安を養分として、勝手にすくすく育っていくものだからだ。
「俺たち仮にも部門トップじゃん。エネルギーの供給が落ち込んでる現象だって、意見を出し合えばグッドアイディアが生まれるかもしれないわけよ」
だらだらと足底を引きずるようにして、シモンは通路を歩いてくる。
「それをしないってことはさ、信用されてないのかなって思っちゃうよね」
「まぁ、つまりはそういうことでしょ」
ドラクロワは落ち着き払った態度で振り返った。
「なんかくやしいじゃん。特に俺なんかはさ」
シモンは褪せた金髪をつまんで弄った。
伯爵は科学者で、彼もまた科学者だ。同じ畑の人間なのに……とでも言いたいのだろう。気持ちは分からないでもない。
ただ、口ではそう言いつつも、当の本人はまるで悔しくなさそうな顔をしている。ドラクロワは腕を組んで押し黙った。
「せめてオンファロスの構造さえ教えてくれりゃあな」
まるで独り言のように呟かれたそれは、しかし静粛すぎる空間に大きく響いた。だが、ドラクロワは意味をはかりかねて首を捻った。
「つまり、上司に認めてもらえない部下の愚痴ってところ?」
シモンは盛大に吹き出した。何がおかしかったのかと、ドラクロワはあからさまに不機嫌そうな顔を晒す。ひとしきり笑ってから、シモンは口を袖で覆った。
「おたくのそういうところ、嫌いじゃないよ」
「どういう意味よ」
眉間にしわを寄せ、ドラクロワは口を尖らせる。
「俺と正反対なところ」
「正反対って――」
「俺、私欲のかたまりよ?」
ますます小馬鹿にしているような物言いだ。ドラクロワは眉間に刻むしわを増やして、不健康そうな青年をぎゅっと睨んでやった。
「ま、ルーヴル三翼長同士仲良くやろうや」
通り過ぎざま、シモンは相変わらずにやにやとした笑みを浮かべながら、ドラクロワの肩をぽんっと叩いた。横切る風の中にオイルのにおいが混じっていた。油絵の具を練る時に使う、油のにおい。
「ちょっと、シモン――」
男は呼び掛けに片手を上げて答えた。だらしない歩き方のくせに歩幅が大きいから、もう随分と先にいる。ドラクロワはため息をついて、会話の続きを諦めることにした。
いつもそうだ。この男の考える事は往々にして分からない。硬い種の中の仁のように、本心はいつだって薄ら笑いの奥深くで眠っているように思う。
『正反対』、もしそれが『単純』や『慈善』を指すならば、それは違うとドラクロワは思う。いくら正当性を振りかざしても、人の行動原理の根底には欲が潜んでいるものだ。
ただひとつだけ、欲のしがらみから解放されたものがこの世に残されているとするならば――。
ドラクロワは息を吐き、天井を仰ぎ見た。アーチ状に湾曲した壁面に、神々を描いたフレスコ画が広がっている。
透き通る青空。壮大なる物語。それらが目に飛び込んできた途端、心は柔らかな電流に包まれて、じんわりと痺れたようになる。
『芸術が抱く美』を感じる心に欲はない。
驚くべきことに、ドラクロワがそう思い至ったのは、まだ彼女の背丈が母親の腰ほどにも及ばない頃だった。修復業の一家に生まれたために、人より絵画に触れる機会が多かったことも関係するだろうが、とにかく彼女の感性は鋭かった。
天才で、優等生だったのだ。
やがて、ドラクロワは順調に実績と年数を積み重ね、満を持してドゥノン長の座に就いた。お手本のような人生だ。これからもずっと、正規のルートに沿って進んでいくのだろう。脱線するつもりなど毛頭ない。
だから、決して知られてはならない。心の底に潜むどす黒い感情を。
彼女は己の心に蓋をした。そして、絵画の修復をするのは世のためだと、鏡を覗くようにしきりに言い聞かせた。
そろそろシュリー長を捕まえねばならない。ドラクロワは止めていた歩みを再開した。報告すべきことは山ほどある。
視界の右手にちらつく人工オレンジが、光量を強めたり弱めたりして存在を主張してくる。絵画エネルギーが絶えず世界に発信され続けている証拠だった。
視界を流れてゆく黄金の装飾壁。エネルギー還元により、絵画を失った額縁。
もうずっとずっと昔、自分は絵画の医者だった。
そんな風に思っていた時代もあったなと、ドラクロワはふいに懐かしさに苛まれる時がある。絵筆はメスで、絵の具は薬だ。パレットに並ぶ宝石のような絵の具を覗き込んでは瞳を輝かせていた幼い少女を思い浮かべて、彼女は一人色のない笑みを浮かべた。
絵画修復家は医者などではない。
絵画がこの世を飛び立つための手立てをする、納棺師だ。
時とともに失われた『本来の姿』を、修復によって取り戻した絵画。それらがエネルギーに変わる瞬間、彼女は己の口角がつり上がるのを止められない。
絵画の美しさを認めてやることのできる、最後の人間になれるからだ。
歪んだ独占欲が満たされる時、それによって生まれた快楽は、まるでドラッグのように精神を蝕んでいく。気が付いた時には既に、欲望の芽は全身に根を張ってしまっていた。
世間はルーヴルを「なくてはならない存在だ」と称賛し、崇め祀う。なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。だが、同時に安堵するのだ。汚れた本心に誰も気がついていないのだと。
――ならば高潔を貫き通そう。
――世界にエネルギーと安寧を。
祈るような、ともすれば睨みつけるような眼差しを、ドラクロワは天井画へと向け続けた。たくさんの弟子たちが透き通る青空の向こうを指さしている。その先に神がいると、彼らは信じきっている。
「絵画の本当の価値を知るのは世界に一人だけで良い」
人知れず呟いた言葉は誰の耳にも届くことはなく、厳かなる空気に溶けて消えていった。
ドラクロワは天井画から目を逸らした。そうして猫背の男が廊下をとぼとぼ歩く姿をぼんやりと眺めていたが、やがて、汚れた白衣は黄金の廊下の角を曲がって見えなくなった。




