第155話 『未完の絵画』
「は……? サイン?」
なぜ、と口にしかけてテオはハッと息を呑む。
彼はその前になにか重要なことを言ってやしなかったか?
『今から施すのは、絵画をずっと手元に置いておくための作業だ』
修復家の少年は、確かにそう告げた。
その瞬間、テオの脳裏を数日前の出来事が過ぎった。清掃作業をするために集まった、頂上広場の虹の壁画の前で、AEPについて語る教員のニキ・ボルゲーゼの横顔が。現在でも例外としてエネルギーに還元できない絵画があると、彼は改めて説いた。
その条件を答えた自分の声が、耳元で鮮明によみがえる。心臓がどくんと大きく跳ねた。
そうだ――。
絵画には、エネルギー還元の対象になるものとならないものがあるのだ。
「未完成品、破れや欠損のあるジャンク品、贋作。それらは過去の統計から、エネルギー還元率が著しく少ないと認められた絵画です。つまり、現在法律で定められている“資源となりうる絵画”には含まれていない……」
テオの声は、途中から興奮によってうわずっていた。なぜ今まで考えつかなかったのだろう。テオは、分厚い雲間から射すいく筋もの光の階段を目の当たりにしたような崇高な気持ちを抱いた。
おそらくミーシャも同じ答えに辿り着いたに違いない。
彼女は静かに目を見ひらいて、テオの言葉をゆっくりと引き継いだ。
「裏を返せば、これらの条件に合致した絵画は、資源として強制的に回収されることはない――だからあえて絵画を未完成の状態にするんだね、ルカ君」
「うん」
ルカは一度だけ頷くと、真っ赤な夕日が沈みゆく町々の、テラコッタの屋根瓦に目を向けた。
「この町に来てから、絵画のこと、修復のこと……いろいろなことを考え直す機会があった。それで気付いたんだ。ただ絵画を修復したいんじゃなくて、未来に残すために修復をしたいんだって。そのためにどう動けばいいか、ずっと考えてた」
ルカは再びテオに向き直る。
考え抜いたひとつの答えはいま、彼の手に握られている。
「そうやって見つけたひとつの方法を、同じように未来に絵画を残したいと願う人と一緒に試してみたいと思ったんだ。でも、手を加えるかどうかは、持ち主の判断に委ねるよ」
「ふん。愚問ですね」
委ねられるまでもなく、テオはルカの手から絵筆を取った。
しかし同時に、か細く白い手がテオの手を阻むようにして重ねられる。
「ミーシャ?」
驚いて顔を上げると、彼女は睨むような目つきでテオを見つめていた。
「サインを消すってことは、テオが描いたって痕跡を消すことだよ。たとえ未来に残せても、それは作者不明の絵画になるってこと」
テオが問われた言葉を飲み込むまでに、しばらく時間がかかった。
「テオはいいの、それで?」
否、理解はしても感情が追いつかなかったのだ。あのミーシャが心を案じてくれているのだから。
好意を寄せる相手に憂慮されて、喜ばない人間がはたしているだろうか。しかも、テオの網膜を通して映るミーシャの瞳は、なんとなく熱に潤んでいるようにも見える。ふだん冷たくあしらうのは実は恥ずかしいからで、本当は彼女も――。
「そのことだけど、もう手は打ってある」
ヒートアップしかけたテオの思考を、ルカの冷静な声が無理やり現実に引き戻す。
「……はい?」
「どういうこと、ルカ君?」
唖然とするテオの代わりに、ミーシャが素早く尋ねる。
「実は、サインの上に特殊なニスを塗っておいたんだ」
そう言って、ルカはキャンバスの右下にあるサインを指差した。ニスはキャンバス上の絵具を保護する役割を持つ透明な液体で、ツヤ出しにも使われる。ルカがキャンバスをわずかに傾けると、サインの周辺にわずかなツヤが見てとれた。
「見た目は普通のニスだけど――」
ルカはズボンのポケットから一本のガラス瓶を取り出して、それを顔の前で掲げてみせる。
「この瓶に入った特別な溶剤を使えば、簡単に溶けるようになってる。さらに、この溶剤は絵具層を溶かせないって特性がある」
中には透明の液体が半分ほど入っていて、夕日を受けてきらきらとオレンジ色に輝いた。
ルカが言わんとしていることに気がついて、テオはごくりと唾を飲み込む。
「つまり、それがあればサインを傷付けずに上塗りした絵具層だけを除去できる、ってことですか」
「そうだ。いつか条件なしで絵画を所持できる未来がやってきたら、この溶剤を使って絵画を完成させればいい」
「そのニスと溶剤は、どうやって手に入れたんですか?」
疑うような声音で問い質すテオに、ルカは平然と告げる。
「自分で調合した」
「エッ、自分で!?」
「うん」
ルカは事もなげに頷いて、ガラス瓶を再びポケットにしまい込んだ。
立ち替わるようにアダムは「つまり」と口をひらき、ルカの肩に肘を乗せた。
「ルカは、この絵が次の修復家の手に渡ったときに、もう一度修復してもらうことを想定して作業したってワケだ。今この世の中を牛耳ってる“修復することで絵画を完成させる方法”じゃなくてよ――絵画を未来に繋げるための絵画保存修復を試したいって言ってんだ」
「絵画、保存……修復……」
小さく驚いた呟きは、ビョオッと強く吹いた風に飲み込まれてしまった。
けれどルカは確かに頷き、相槌をうった。
「俺の夢のために協力してくれるか、テオ」
そして、珍しいことに微笑んでみせたのだった。
「……ふ、あはっ」
腹の底から得体のしれない熱が沸き上がり、テオの口から知らず笑い声が漏れた。身震いしているのは寒さのせいではない。興奮して、血が沸いているからだ。
テオは唇を引き結ぶと口角を上げ、鋭い視線をルカに差し向けた。
「――愚問だって言いましたよね?」
言うが早いか、テオは今度こそルカの手から絵筆を奪い取った。そして、キャンバスの右下に記したサインを深緑色の絵具で一気に塗りつぶした。
「これで終わりじゃないんでしょう? 僕もその仲間に入れてくださいよ」
「仲間?」
ルカは怪訝そうに眉をひそめた。
その表情が面白くて、テオの口角はますます持ち上がる。
「気に入った作品が描けたら、これからは僕も同じ方法でサインを隠します。ルカ君が既存の絵画を未完成にしていく修復家なら、僕は未完成の絵画を生み出す画家になるんですよ――あっ、そうだ。同盟組みましょうよ!」
「えっ、え?」
逃げ腰のルカを逃すまいと、テオは彼の手首をがしっと掴んで引っ張る。ルカの表情が露骨に強張った。
「知ってます? 昔は志を同じくした画家たちがグループを組んだりして活動してたんですよ。たとえば“ダイヤのジャック”とか“グループ・ゼロ”とか、有名どころだと“印象派”なんかもありましたね。うん、いいですね、そうしましょう!」
「いや、あの、そういうつもりで言ったわけじゃ、なかったんだけど……」
「それ、あたしも入っていいかな」
突如割って入った声に、ルカもテオも一瞬目を瞬かせた。
発言したのが他でもないミーシャだったからだ。
「も、もちろんです! 大歓迎ですっていうか、いいんですか!?」
面食らうルカを押し退けて、テオは一気にミーシャへと近付いた。彼女は脊髄反射で一歩後ずさったあと、しばらく視線をさまよわせていたが、ややあって酷く言いづらそうに口をひらいた。
「散々迷惑かけておいて、こんなこと言うのもどうかしてるし、受け入れてもらえないのも当然だって思ってる。……でもあたし、やっぱり絵画が好き。これからもずっと、絵画のそばにいたい」
沈痛な面持ちで吐き出したミーシャは、ふいにテオの腕の中にあるキャンバスへと目を向けた。
「絵画の隣があたしの居場所なんだって、気付かせてくれたのはテオの絵のおかげ。あたし、もっと絵画のこと勉強したい。それでいつか、画商になるの」
「ミーシャ……!」
自分の描いた絵画が、ルカやアダムが修復した絵画が、愛しい相手の心を縫い留めたこと。それは流れ星に三回唱えた願い事が叶うよりも、テオにとってはずっと奇跡のような出来事だった。
目のふちに溜まりはじめた涙がこぼれ落ちる前に、しかしテオは彼女の言葉に違和感を覚えて「ん」と首をひねった。
「まってください、画商になりたいんですか?」
それは彼女の両親の職業であり、彼女にとって決してなりたい将来の姿ではなかったはずだ。けれど、ミーシャは訂正するでもなく「そう」と真面目に頷いた。
「テオやルカ君の話を聞いて、自分には何ができるだろうって考えたの。そうしたら、自分の本当の気持ちが見えてきて。絵画を手放したくないと願う人たちの手助けがしたいんだ、って思ったの。あたしは、資源を集めるためじゃなくて――存続を望む絵画を探すための画商になりたい」
力強く宣言した少女の背後で夕日がひときわ強く光を放ち、山間に沈んだ。
強風にはためく真っ赤な髪が、テオには不死鳥の羽のように見えた。
「もしそんな絵画を見つけたら、ルカ君が未完成に修復してくれるんでしょ?」
いたずらっぽく笑うミーシャは、まるで憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をしていた。一拍置いて、ルカもにこりと笑みを見せた。
「依頼、待ってるよ」
互いに微笑みあう男女――というドラマチックなシーンをまざまざと見せつけられたテオが、黙っているはずはなかった。
「はいはいはい、そこまでですよ!」
と、右手のひらを突き出して二人の間に割って入った。そして、くるりと振り返ると、ルカとミーシャの肩に手を回す。三人は円陣を組むような体勢になった。
「せっかく同盟も組んだことですし、皆で仲良くしましょうね。ねっ!」
「俺、同盟組むとは言ってな――」
「あー、そういえば肝心の名前を付け忘れてましたねぇ」
なににしましょうか、とテオが声を張り上げていると、背後から圧し掛かるようにしてアダムが輪の中に割り込んできた。
「じゃあさ、“未完の絵画”にしようぜ」
「えっ、アダム君も入るんですか?」
「当たり前だろ。俺たちはルカの仲間だぜ?」
「それって私も入ってるよね?」
「ニノンさんも? まぁいいですけど……」
その日、パオリ学園の屋上にて、ひとつの同盟が結成された。
名を『未完の絵画』という。
まだ芽が出たばかりの小さな命に過ぎなかったが、メンバーの一人であるテオは、胸の内にあるコンパスの針が揺れ動くのを、確かに感じたのだった。
「あっ、そうだ。絵画のこともっと勉強するなら、これはいらないよね」
ニノンは忘れていたとでも言うように、くしゃくしゃになった退学届けを突き出した。それを見て、ミーシャが「あっ」と声を漏らす。
「これって、あたしが出した退学届?」
「間に合ってよかった。ミーシャちゃん行動早すぎるんだもん、焦っ――わっ」
ニノンが言い終わらないうちに、ミーシャはニノンへと抱き着いた。小さな肩が微かに震えていた。ニノンは彼女の華奢な背中に手を回し、とん、とん、と優しくたたく。
すぐそばに広がる菜園で、ホソバタイセイの黄色くて小さな花が揺れている。レセダ・ルテオラの黄緑色の長い穂が波打っている。
しばらくするとミーシャは自ら身体を離し、目元をぐいと手の甲で拭った。
赤らんだ目は少しだけ涙に濡れて、きらきらと輝いている。けれどそこに弱さはもう感じられなかった。
「今までたくさん迷惑かけて本当にごめんなさい。それから、助けてくれてありがとう。あたしもう、逃げたりしない」
彼女を見つめていた面々が、それぞれ頷きを返して彼女の謝罪を受け入れる。
ミーシャはくしゃくしゃになった退学届けを掲げ、ひと思いにびりっとそれを引き裂いた。
その瞬間――ひときわ強い風が吹いて、二枚になった紙が天高く舞い上がった。
見上げた茜色の空。
誰かの伸ばした指先。
見る間に小さくなる紙片。
一陣の風はひとつの世界の終わりを告げ、新たな物語の幕開けを示す。
空の高いところで王族鷲のつがいが旋回し、ピーヒョロロロと鳴いていた。
〈12章 世界の終わりと夜の虹・完〉
次回、幕間「ヴェンデッタ−地図にない村−」をはさみ、「13章 贋作美術館」へと続きます。




