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偽りの惑星―fake planet―  作者: 過去(10年前)のくろひこうき
二章
11/32

帰郷

 6月の初旬。梅雨に入って間もないその時期に降り注ぐ3日連続の雨は街の空気をジメジメと汚す。


 『京都府新田川市の市立新田川高校で起こった校長の橋本米さんと教頭の吉田愚糲戸(ぐれこ)さんが亡くなった事件で警察は事件当時から行方不明になっている三人の教師たちを重要参考人物として指名手配することを決めました。警察の調べによるとこの三人の教師はいずれも化学の教師で給料などに対して日ごろから被害者と口論している様子などが見られたことから、三人の教師が事件の何らかの事情を知っているとみて行方を追っています。しかし事件であるという証拠も少なく、当面事件と事故の両方で捜査をするということです。』


 強い雨の音が聞こえてくる暗い室内で沖田昂大はコップに牛乳を注ぎながら横目でそのニュースを見ていた。全くひどい世の中だと昂大は少し心の中でため息をついた。先日起こったこの事件は紛れもなく昂大たちがやったことであり、あの学校の地下にあった兵器工場の事を含めてすべて知っていた。よって昂大にとって先ほどのニュースは嘘そのものであり、警察か国が隠ぺいしていることは明らかだった。昂大はコップに満タンに入った牛乳を一気に飲み干すと小さなテレビの電源を切る。


 「あーあ。まだかな。」


 独り言をつぶやきながら昂大はまだ敷かれたままの布団の上に仰向けに思いっきり寝転んだ。その傍らには少し時代遅れのガラケーが置いてあり、昂大はしきりにその携帯に目を向けていた。


 「ピーンポーン。」

 「?。」


 昂大は少し驚いて気づかないうちに嫌な顔をしていた。このボロアパートの呼び鈴が鳴るときはたいていよくないことが起こると昂大は考えていた。だが昂大は迷うことなく穴も見ずに勢いよくドアを開ける。


 「よーう!昂大。元気にしてたか?」

 「・・・!丹波さん?」


 昂大はこの朝からハイテンションな中年のおじさんに少し困惑した。


 「ちょっと背伸びたか?いやー元気そうで何より。」


 このおじさんは独りでに納得しているが昂大はポカーンと口を開けたまま何も言わない。


 「・・・なんか言えよ!寂しいじゃねえかよ。」


 丹波は昂大があまりにも暗いので少し困惑している。


 「・・・いや、朝から相変わらず元気だなーとか思ったりして。」

 「あったりまえだろ!うれしいんだよ俺はー」

 「・・・そっすか。」


 昂大は表情一つ変えようとしない。


 「ちょ、お前なんか暗くなった?大丈夫かよ。」

 「・・・朝からテンション高い丹波さんは相変わらずですね。」


 昂大はそれだけ言うと、扉を閉めようとする。


 「おいおい、行くぞ!支度してこいよー」


 丹波はわざとらしく声を上げた。


 「どこ行くんすか?俺このまんまでいいっすけど。」

 「着替えなくていいのか?寝間着じゃねえかそれ。」


 確かに昂大は丹波の言うとおり起きてから着替えてない。


 「服、ないんで。」


 昂大はかなり声のトーンが低くなる。


 「わーったわーった。じゃあ行こう!」


 丹波は昂大の手を引く。


 「ああ、どこ行くかしんねーけど朝ごはんなんか食ってもいいっすか?」

 「ああ、いいぞー!何食うか?ステーキか?」

 「ま、まじで?」

 「急に眼の色変えるな・・・」


 丹波は苦笑いする。そして昂大と丹波はアパートの前に停めてあった丹波の軽自動車に乗り込む。



 車はどんどん進んでいき、名神高速から阪神高速、山陽自動車道へと変わり、どんどん進んでいく。時間が経つのが随分早く昂大は感じていた。


 「すっげーなー。ここどこだろ?」


 昂大は先ほどの寝起き状態とは全く違い、まるで子供の様に目をキラキラさせている。


 「どこだろってお前あそこ(・・・)に何年いたんだよ。」

 「そんなもん車乗ったりしねーもん。」


 先ほど話していた朝ご飯はパーキングエリアで済ました。こじんまりとした昔ながらの食券機で食券を買って食べるような食堂だった。昂大はそこでびっくりうどんなるものを頼み丹波は朝からから揚げ定食を食べた。だが後から気づいたのはサービスエリアで食べた方がよかった、ということだった。


 「いやーもう少し暑かったら海でも行くのにな。」

 「いや、おれはいいっすわ。」


 昂大は何か嫌なことでも思い出したかのように苦笑いした。


 「ああ、お前昔海水浴行ったら溺れかけたっけ。」

 「うっ・・・」


 丹波はニヤニヤしながら昂大の方を見てきた。


 「まだ梅雨でよかったー」


 昂大は対抗するように丹波の方を見返す。そしてお互い自然と笑顔になる。仲がいいのだろうか。昂大は丹波の事を慕っているようだ。そうこうしている内に車は兵庫県のとあるインターチェンジで高速を降りた。そこは緑があふれていてとても見晴らしがよいところだった。


 「てか何で今日おれがわざわざあそこまで出向いて行かなきゃならないんすか?丹波さんが迎えに来るなんてちょっとおかしいかなって思うんすけど。」


 昂大がそう言うと丹波の表情が少し曇る。


 「・・・お前に会いたいっていう人がいてな。」

 「えっ。誰?」

 「それはついてからのお楽しみさ。」


 丹波はあくまで笑顔だったが昂大は少し丹波の表情が曇ったことを見逃さなかった。


 「・・・そうっすか。」


 昂大は窓の外に目をやった。



 車は道なき道を進んでいく。もう民家を20分以上見ていない。それだけ山奥なのだ。道はたいそう悪く2人の体はとてつもなく衝撃でゆらゆらしていた。すると突然トンネルが現れて真っ暗になったかと思うと突然道が開けてそこにコンクリートのきれいな道が現れた。まるで気分は千と千尋の神隠しの世界に迷い込んだようであった。


 「さあ、着いたぞ。」


 そこにあったのは、広い運動場を従えた古い校舎だった。そこを訪れた者ならだれでも思うこと、それは昭和情緒あふれる戦後の世界、といったところであろう。あるいは生きとし生ける自然に囲まれた古城、といったイメージを持つ者もいるかもしれない。


 「かわんねーな、ここも。」


 昂大は少し呆れたような口調でそう言うと車を降りる。


 「お前この間まで居ただろ。」


 丹波はなぜかウキウキしていた。


 「じゃ、もう来てると思うし、いこっかー。」


 2人はゆっくりと古びた校舎に向かって走り出す。



 薄暗く、かび臭い。昂大は初めてここを訪れたとき、そう思った。そこは学校と全く同じように靴箱があり、廊下があり、教室があった。正確に言えば教室の中は部屋になっており、そこには机なり、二段ベッドなり、本棚なりと家具が置いてあり、まるでどこかの学校の寮のように改造されていた。とにかくそこは学校という教育の場とまるで関係のないプライベートな空間が混合しており、昂大はそのことに何かしら妙な感じを抱いていた。それは今も変わらずそこにあり、廊下を進んでいくたびに昂大を奇妙な世界へと誘った。


 「ここだな。」


 昂大の前を歩いていた丹波はある教室の前で立ち止まると吐き出すようにそうつぶやき、昂大の方を顧みることなく扉を開いた。


 「ガラガラ。」


 その教室には何もなく、ただ奥に一人の少女と男が立っていた。


 「・・・。」


 昂大は男を見た瞬間、目を見開いた。それは意識的なことではなく、本人すら気が付かないことだったが、昂大はこの男があまりにも不気味でおよそ人ではないようなオーラを放っていることに身構えた。


 「いやー久しぶりっすね『ヨシさん。』お元気そうで。」


 丹波はそんな昂大の心情など全く顧みずに笑顔で話しかける。


 「丹波君。君も変わってないようだね。また少し太ったかね?」


 男は笑みを浮かべながら手を挙げた。その瞬間昂大は無意識に少しほっとしていた。


 「『ヨシさん』はちょっと老けましたけど丹波さんのアホさとデブさは全く変わってませんよ。」


 隣にいた少女は小バカにしたようにそう言った。


 「えー芹菜君。三か月で私そんなに老けたかな。」


 三人は静かに笑っている。昂大は男の笑いが全くの殺気を含んでいないことに気づいていながらもやはり警戒していた。


 「元気ですか?昂大。」

 「うわっ!」


 芹菜と呼ばれた少女は昂大の背中を後ろから叩いた。


 「なんですか?元気ありませんね。」

 「いやいや、元気だってば。」


 昂大は苦笑いを浮かべる。


 「君が沖田昂大君だね?噂は芹菜君から聞いていたよ。」


 そう言って男は昂大に近寄っていく。昂大はこの時初めて男の顔を直視した。よく見るとかなりの老人だった。だが昂大はこの男の異常性に薄々気づいていた。


 「フフフ・・・君は一流のアサシンだ。情人なら私を見て身構える者はいない。だが安心しなさい。私は君を殺さないから。」


 昂大は何も言葉が出なかった。一歩一歩近づいてくる男に体が硬直した。蛇に睨まれた蛙の様にまさに『死』そのものが昂大を縛り付けているかのように。


 「・・・。」


 昂大の額から変な汗が流れる。


 「・・・冗談だよ。」


 昂大の前まで来たとき男はニカっと笑ってUターンしていく。


 「ヨシさん。あんまりいじめちゃだめですよ。昂大はかなりビビりです。」


 芹菜はケタケタと笑い、飛び跳ねている。


 「かわいいとこあるなー昂大。めっちゃビビってたぞ、お前。」


 その横で丹波も大笑いしていた。


 「な、なんだよ!」


 昂大の顔は真っ赤になった。


 「ははは、私も少しいたずらが過ぎたな。」


 男に先ほどまでの殺気はなく、今はただ場の空気が綻んだ。


 「一流のアサシンは殺気を操る。さて、昂大君とも会えたことだし、そろそろ私はお暇するよ。」


 そう言って男は紳士帽をかぶり、部屋を出て行く。


 「ああそうだ、昂大君。悪かったね今回の事件。まさか君の部活の監督が、関わっていたとはね。」

 「・・・!」


 昂大の目の色が変わる。


 「安心しなさい。私の方からこれ以上あの学校に関して何も起こらないように圧力を掛けておこう。ではまたすぐに会う気がするね。」


 男はそれだけ言うと消えるように姿を消した。昂大は何が何だか分からなく途方に暮れてしまった。


 「ああそうそう。」


 男はなぜか真後ろにいる。


 「君はいい才能があるが、少しビジョンに欠けるな。」


 それだけを耳元でつぶやき、振り返ると消えていた。



 「はい、あなたの好きな激甘カフェオレです。」


 職員室を改造したと思われる部屋で昂大は俯いている。先ほどの得体のしれない男のことを考えていた。


 「なあ、麻木先生。さっきの人は誰なんだよ。」


 昂大は少しイライラした口調で言った。


 「あの人は『ここ』の経営者です。」

 「はあ!?まじで言ってんの?初めて会ったし初めて知ったわ!」


 昂大はその言葉を聞いてさらにイライラが増したように言った。


 「そんなこと話すら聞いたことねえよ、おれ。」

 「まあ、私たちは国家の最重要機密みたいなものですからねえ。」


 芹菜はニヤニヤしている。


 「あの人、昂大の事気に入っちゃったみたいだから直接聞いたらどうですか?」


 芹菜は偉そうにドカッと椅子に座り、足を組んだ。


 「あと、当分あの学校にいてもらいますからね。やはり高校生活は送らなきゃいけませんし。」

 「はあ?なんでだよ。」

「ああ、石川君が言っていましたよ。なんかクラスでも友達いないみたいですね。何で作らないんです?中学の時はいっぱいいたじゃないですか。ちょっとアホっぽい人たちが。」

 「・・・ほっといてくれよ。」


 昂大は少しむっとして立ち上がった。


 「もう帰る。」

 「えー、なんでですか?」


 昂大はそそくさと部屋を出て行く。芹菜はわざと挑発的な言い方をしたのだが昂大はかなり真剣に受け止めてしまったらしい、芹菜の脳裏にはちょうど一年前くらいに起きたある悲惨な出来事が浮かんでいた。


 「・・・まだかなり気にしてますね。」


 芹菜は大きくため息をついた。



 廊下を進んでいくとそこには元昂大の部屋があった。中に入ってみると当時と変わらずベットが二つある。昂大はふと立ち止まり、吸い込まれるように中に入る。少し埃っぽかったが昔のままで、窓側にある自分のベットに腰を掛ける。


 「・・・純也。」


 昂大は向かいにあるベットに向かってつぶやく。


 「まだ気にしてるの?」


 ふと見上げるとそこにはポニーテールの女の子が立っている。


 「昂大が来るって丹波さんが言ってたから来ちゃった。」


 そう言って昂大の隣に座る。


 「私もここに来るといろんなこと思い出しちゃうなー。あのころはバカばっかやったっけ。」


 女の子はにこっと笑う。


 「でも昂大のせいじゃないよ。誰のせいでもないよ、私だって・・・」

 「もうやめろよ!」


 昂大は声を荒げる。


 「・・・ごめん、雪。」


 そう言って昂大は走り去る。


 「ごめんね、何もしてあげられなくって。」


 雪は走り去る後姿をただ見送ることしかできなかった。



 学校の裏の森を抜けるとそこは自然のお花畑が広がっている。都会では見ることのできない花々がたくさん自生しているとても幻想的な世界の中にいくつかの墓があった。その墓はとても小さく簡素なものでひっそりと隠れているように立っていた。その墓には名前は彫られていなかった。この世に生を受けながら存在しなかった、そんな者たちが眠っている墓なのだ。昂大はその中の一つに向かい手を合わせていた。供える物は何も持ち合わせてはいなかったが、そのあたりに生えている花を適当に摘み、供えた。


 山南純也という男がいた。いつもにこにこ笑っていた。人一倍優しく、面倒見がよかった。いつもドジを踏む昂大をサポートしてくれていた。場の空気が悪い時でも空気を読まずにずけずけとしゃべり、自然と和ませる、そんな人間だった。暗殺の才能は全くなかったがいつも「正義の味方は強くないとなー」などと言い、人一倍陰で努力していた。そんな純也は去年の夏ごろ、ある暴力団の頭を暗殺する任務で死んでしまったのである。その任務は昂大も参加していたのだが、昂大は助けることができなかった。そのことを悔やみに悔やんでいた。


 「やーっぱりここにいたかー」


 丹波が突然後ろから大きな声を出す。


 「まだ気にしてるのか?純也のこと。」


 昂大は少しびくっとして何も言わずに立ち上がり、元来た方向に引き返して行く。


 「なあ昂大。純也は何で死んだんだ?」


 丹波はあまりにも軽い口調でそう言い放つ。昂大は足を止めた。


 「・・・おれのせいで死んだ。」

 「そうだ、お前のせいだ。」


 昂大は俯き、拳を無意識に強く握りしめた。


 「だがな、あいつが今のお前を見たら、なんて言うか。考えてみろ。」


 昂大は沸々と昔の事を思い出していた。ここに来たとき初めて友達になったのは純也であった。同い年ということもあり、仲良くなった。純也とはよくこの施設を抜け出して町なんかに出かけて行き、そこでガラの悪いヤンキーたちとけんかして問題を起こしたり、実験と称して小型爆弾を作り動物に投げたり、冬に勝手に民家に侵入し、雪合戦をして窓ガラスを割ったりした。そのような昔のことを次々と思い出していくたびに昂大は悲しくなった。純也はいつも口癖のように「普通に生きたい。」と言っていた。


 「・・・あいつならたぶん。『暗殺の事なんか忘れて友達作れ』って言うと思います。あの時おれは同じようなことを言われました。でもだからあいつは・・・」


 昂大の目から涙が流れる。


 「いいか、あいつは本心で言ったんだ。嘘じゃねえ。だからこそ今、お前が人生楽しまなきゃいけねえんじゃねえか?だから芹菜はお前にあの学校に残れって言ったんだぜ?」


 昂大は何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。昂大は溢れていた感情を抑えることができなく、気が付くと大声で泣き叫んでいた。



 山のふもとに一台の黒い車が止まっていた。その車の傍らにスーツを着て蝶ネクタイをした白髪頭の男が姿勢よく立っている。男は時計を見た。


 「もう間もなくご到着になるな。」


 そうつぶやいた瞬間だった。


 「さすが私の傍に五十年以上いるだけはある。

 「!」


 男が振り返るとそこには主人が不気味に微笑んで立っている。


 「旦那様、茶化すのはおやめください。」


 「少し脅かしてやろうと思ったのに、もっと驚けよ。」


 主人はいたずらっ気のある笑みを浮かべている。


 「では、参りましょう。」


 そう言って主人をエスコートして車に乗せるとすぐさま車を発進させる。


 「それにしても早かったですね。三十分ほどでしたが。」

 「いやー昔は二十分で戻って来れたのに、年を取るのは嫌だねー。お前なら五分で行けるだろ?村上。」

 「御戯れを。旦那様がおかしいのです。そのお歳で山を三十分で上り下りできる方がおかしいんです。」

 「はっはっはー言うね村上。」

 「それで何かございましたか?確か会っておきたい者がいるとかなんとか。」


 村上がそう言った途端、表情が急変する。


 「あれはもっと育てなきゃいかんね。」


 薄笑いを浮かべているその顔は不気味で村上でさえ恐怖を感じるほどだった。


 「ほどほどになさってください。旦那様は面白がってやりすぎることがございますからね。」


 それ以来2人の会話は途切れた。村上は目的地に到着するまでバックミラーを見ることはなかった。



 「ガーガーガー」


 不気味な鳥が鳴いている夜の森を走る一台の車があった。その道には街灯などなく、ましてや人が通るわけもない。しかし車は走り続ける。

 しばらくしてようやく森の中に明かりの灯る一軒の家があった。その家には一台の軽トラックが止まっており、人が住んでいる気配がある。車の中にいた男はもう一度見入るように住所の書かれた紙を見る。確かにここで間違いが無いようだった。


 「バン!」


 車のドアを閉める音が静かに夜の森に響きわたる。男はその足で玄関に向かっていく。

男は手にデパートで買ったと思しきプレゼントを抱えていた。


 「ふー」


 男はゆっくりとインターホンを押す。


 「ピンポーン」


 しかし何の音も男の耳には聞こえてこない。ただ夜の静寂が続いている。


 「ん?」


 男は不審に思い、ついドアノブに手をかけてしまった。


 「ガチャ・・・キイーー」


 木の軋む音とともにゆっくりと扉が重く開いていく。男はいつの間にか全身に汗をかいていた。決して暑かったわけではない。だがこの男はみるみるうちに顔色まで変わっていく。


 「具子(ともこ)!」


 男は家の中を土足で駆け上がる。そしてあたり一面を手当たり次第に物色し始めた。


 「どこだ!どこにいるんだ!」


 男は叫ぶ。トイレ、バスルーム、リビングと探す間男はこの家の奇妙な点に気が付かなかった。それはあまりにきれいすぎるという点である。つまり必要最低限の家具しか置いてないのである。生活雑貨の類は何一つ置いていなかった。


 「ハア、ハア。」


 男の心拍数は上昇する。男はある最悪のシナリオを予期していた。一階をすべて探し終わると二階の階段に向かう。息もつかずに階段を駆け上がり、二階も物色しようとした時だった。


 「・・・!」


 男はある部屋の前で立ち止まった。その理由はあまりにも簡単だった。この部屋だけ電気がついていないのである。それ以外の部屋には明るいばかりの電気が点灯していた。そう、この部屋だけあまりにも不気味だったのだ。


 「具子?いるんだろ、返事してくれ!」


 男の声は何一つ響かない。まるでこの部屋に吸い込まれていくようであった。


 「アーー!!」


 男は叫びながら勢いよく扉を開けた。もう恐怖で何も見えなくなっていたのである。

 廊下の光が部屋の中に差し込む。


 「!!!!!」


 そこにあったのは、ただただ広がる赤い世界だった。廊下から差し込む光がまだ乾いていないその赤い鮮血を照らし出す。


 「ああ・・・具子・・・」


 男は静かに崩れ落ちる。その暗い部屋の中心に無残に女が血だらけで横たわっていた。


 「どうして・・・こんな・・・いったい誰が・・・」


 男は消え入りそうな声でそう言って女を抱きかかえる。女はすでに氷の様に冷たくなっていた。


 「うおーーーーー!」


 男は泣き叫んだ。そうせずにはいられなかったのである。女の姿は見るも無残に全身を切り刻まれていた。その姿に男が抱いた感情はどのようなものであったのか、誰にも理解することなどできない。その時だった、男の背後に何かがいた。影が男の足元でちらっと動いたのである。


 「!」


 男がとっさに振り向こうとしたその瞬間だった。男の首筋から赤いしぶきが噴き出す。男に痛みなどなかった。男はゆっくりと崩れ落ちていく。その顔には悲しみと喜びがあった。


 「具子・・・ごめん・・・な。」


 最後の言葉はあまりにも小さく、そしてなによりもこの殺し屋の心に響き渡ったのであろうか。


 「くっ。」


 小さな声でこの殺し屋は苦い顔をした。


 「せめて一緒に逝け・・・」


 暗殺者の表情は深いフードに隠れた蛇の面のせいでわからなかった。



 赤い炎が森の中を一気に染め上げる。それは悲しみの炎、まるでそういう風にこの暗殺者には見えている。その炎の中に一緒に横たわるように眠った2人の元夫婦は火の中でとても仲睦まじそうに眠っていくのだった。崩れ落ちていく家を見ながらこの暗殺者は静かに舌打ちをした。あまりにも気の進まない仕事だった。家にいた引きこもりの20代の男を無残に惨殺し、その足で母親を拉致した。そしてクライアントが用意したこの山の中の家に連れて行き、そして惨殺した。母親は最後まで毅然とした態度を崩さなかった。そして最後に「あの人が何か失敗したんでしょ?まあ仕方がないわね。」と言ったのだ。そんな態度でいられるのがこの暗殺者には不思議でならなかった。正直殺すことを躊躇した。しかし暗殺者としてクライアントの意にそぐわなければならない。


 「ぴぴぴ・・・プルプルプル」


 電波が届かないところでも使える特殊な携帯電話を使い、クライアントに電話を掛けた。


 「・・・今終わりました。はい、家は燃やしました。」

 「ピ。」


 電話を切った時、携帯の上にぽつっと雨粒が落ちた。


 「ちっ、雨か。」


 暗殺者は鬱陶しそうにそうつぶやくと森の中にゆっくりと消えて行った。


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