未知の世界
一秒がとんでもなく長く感じる。目の前を横切る圧倒的な脅威を前に、ヨシュアはアルルの手を握ったまま立ち尽くすことしか出来ずにいた。
頭の中が真っ白になったみたいに何も考えられなかった。
だから反応が一歩遅れた。
「あうっ…… !」
隣で小さく悲鳴を上げるアルル。その声にハッとして振り向くと、アルルが顔を痛そうに歪めながら、自分の足元を見ていた。
その視線の先を追ってみると……
────蛇だ!!
半透明の体に緑色の斑点、そして金色の目が特徴的な蛇が、アルルの左足のハイブーツに巻き付き、そして太ももの裏側辺りに噛みついていたのだ。
くそっ。明らかに自分の失態だ。空飛ぶ人喰い鮫に気を取られて、周りの警戒を怠っていた。
ヨシュアはナイフを握りしめると、怒りのままに蛇の体目掛けてナイフを突き刺そうとした。だが驚くことに、蛇はナイフを振り下ろす前にアルルを解放すると、身を捻りながらするすると素早く逃げていった。ヨシュアよりも蛇の方がよっぽど危機管理に優れていたのだ。
「大丈夫か、アルル」
「ちょっと痛みますけど、大丈夫かと…… あれ?」
ふらりと揺れた。かと思うと、膝の力が抜けたみたいに、アルルはその場にぺたんと座り込んでしまう。彼女の表情には戸惑いの色が広がっていた。
「どうしましょう。足に力が入りません…… 」
怯えた様な、不安そうな表情を浮かべるアルル。
「魔法は!?」
「えっ?」
「自己再生は使えそうか!?」
「あっ、えっと、試してみます!」
アルルの力を奪ったのは恐らく蛇の毒だ。普通なら噛まれた時点で致命的だが、アルルは魔法が使える。噛まれた直後なら、まだ魔法が通用するかもしれない。
などと考えていると、森の木々と何かがガサガサと擦れあうような不穏な音が耳に届いた。ヨシュアはその音がする方向を振り返る。
あっ。不味い。
「アルル!」
ヨシュアは手を伸ばし、彼女の腕を自分の首元に巻き付け、強引に背負いあげる。
「逃げるぞ! 捕まって!」
「うぇぁ、ええー!」
大きな口を開け、襲い掛かってこようとしていたのは空飛ぶ人喰い鮫だった。きっとアルルが流す血の匂いに釣られて反転してきたのだろう。
アルルを背負ったまま、ヨシュアは獣道を走りに走った。
だが、当然ながら空飛ぶ人喰い鮫もすぐ後ろを追ってくる。
それならと、木々の隙間を抜けるような狭い道を選んでみるのだが、空飛ぶ人喰い鮫はお構い無しに木々をなぎ倒しながら向かってくる。
「アルル! 血を止められそうか!?」
「そ、それが、なかなか止まってくれなくて!!」
何となくそうなんじゃないかと嫌な予感はしていた。エルベール大陸に生息する蛇の毒なのだ。魔法が効かないことも十分にあり得る話だ。
「焦らなくていい! 何度でも魔法を試してみてくれ!」
「は、はいっ!」
ヨシュアはそう言ったものの、血が止まらないことを前提に空飛ぶ人喰い鮫を退けることを考えなければならなかった。
あの大きな口を前に盾など無意味。アルルの体を支えるために左手を使っているので、ワイヤーも使用不可。それ故、ヨシュアに残された攻撃手段は一つしかなかった。
「出でよ、魔封じの光剣!!」
頭上に現れしは光り輝く三本の光剣。それを出現と同時に一斉に空飛ぶ人喰い鮫へ向けて放った!
それらは見事、頭部に突き刺さったのだが……
「くそっ。止まらない!!」
人間なら一本で十分足止めできるのに、三本まとめて刺してもまるで効果が無い。
だが他にヨシュアにできることは無い。
それなら何度でも突き刺してやる!
ヨシュアは再び魔封じの光剣を展開し、今度は胴体の辺りを狙った。それでも効かず、もう一度、もう一度と、体中目掛けて魔封じの光剣を突き刺しまくった。
────だが、それでも空飛ぶ人喰い鮫は止まらない!
そうこうしている内に、奴の牙はもうすぐそこまで迫っていた。そして空飛ぶ人喰い鮫はヨシュアたちを呑み込もうと大きな口を開けた。
────喰われてたまるかっ!
ヨシュアはなんとかタイミングを計り、横っ飛びに飛んで、奴の牙から寸前のところで逃れた。そのまま向きを変えて森の中を駆け抜ける。
バキバキバキバキ……
後ろからマナの木々がなぎ倒される音が聞こえてくる。まだ追ってきているのだ。ついさっきは躱せたが、今度も上手くいくとは思えない。そして先に力尽きるとしたらヨシュアたちの方だ。早く何かいい案を考えなければ。
その時、進行方向斜め前に見えたのは白い熊の姿だった。その両手は赤く染まっている。たしかあの熊は……
「…… 血を血で洗う白熊」
そいつは体長二メートルほどの非常に危険な熊の魔物。長い爪を持ち俊敏性にも優れる。全身は白い毛で覆われているが、戦うたびに血で染まる様子から『血アライグマ』という異名が名付けられた、気性の荒い魔物である。
本来なら遭遇したくない相手だ。だが、この時ヨシュアはその熊に出会えたことを喜んだ。
────奴の両腕にべっとりと付いた血の匂いを利用してやろう
そして走る向きを変え、自ら血を血で洗う白熊に向かって突っ込んでいった!
血を血で洗う白熊が此方の存在に気付いた。そして威嚇するように両腕を上げる。深紅に染まった両腕と、その指先から伸びる長く鋭利な爪。そして勿論、背後には空飛ぶ人喰い鮫がピタリと後ろをついて来ている。
だが、此処で予想外のことが起きた。
ヨシュアたちを前にして、なんと血を血で洗う白熊は身を翻し、一目散に逃げだそうとしたのだ! さすがの血を血で洗う白熊も空飛ぶ人喰い鮫を前に逃げ出すしかないと悟ったらしい。
「逃がすか! 魔封じの光剣!!」
ヨシュアは血を血で洗う白熊に向けて光の剣を放った。血アライグマの体長は二メートルほど。空飛ぶ人喰い鮫には効果が無くても、此奴なら足止めぐらいは出来るはずだと信じたい。
三本の 魔封じの光剣の内、二本は血アライグマの両足に命中。もう一本は体の中央に当たった。すると、血アライグマは前のめりになって勢いよくその場に倒れた。
そのまま強靭な前足を使って藻掻く血を血で洗う白熊。
その横をヨシュアたちはすり抜ける。
直後、後ろから獣の断末魔と、地面ごと抉る様な音が聞こえた。
振り返ると、血を血で洗う白熊は姿を消し、空飛ぶ人喰い鮫の口からは大量の血が滴り落ちていた。そして奴は満足げに空を真っすぐ泳いでいった。此方を振りかえることはもう無かった。
未だ張り詰めた緊張感の中、ヨシュアはアルルを背負ったまま、その巨大な鮫の姿が目の前からいなくなるのをじっと見送った。心臓がバクバクと、いつもよりずっと速いペースで脈打っていた。アルルの息遣いだけが耳に届いていてた。
助かったと実感できたのは、それから数分後のことだった。




