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暁に消える恋、ひとつ  作者: 日室千種


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8/12

たましいだけに、なりました

 ひんやりした眼差しをファモリカにしばらく据えていたアルは、ふう、とため息をついて、顔をこすると、ラテにそっと手を差し伸べた。

 はっとして、手を差し伸べ返す。

 不思議なことに、今度は滑らかな手に触れることができた。当然だ、昨日は、抱きしめられもしたのだ。


「私は、ここの主だから」


 つい頬を赤くしたラテを、どう取ったのか、にっこりと笑いかけてに説くように言ったアルは、次に真剣な顔をして、座って、と言った。蹴倒された椅子を起こし、そこに導いてくれる。


「ラテを連れて帰った時の話を、まだしてなかったね」

 

 椅子に腰を下ろしたラテに、まだ温かい紅茶を渡してくれた。

 アル自身は、そのラテの顔が見える位置に、別の椅子を引っ張ってきて座った。セリが厨房から、アルのための紅茶を持ってきた。淹れたてのはずなのに、平気でこくりと一口を飲んで、息を吐いた。

 やるせない、ため息だ。

 

「……ラテ、君は、旧神殿区で見つけたときには、冷えきって、息をしていなかった。蘇生を試みたんだけど、きかなくて。だけど、魂は離れていく様子がなかったからね。つれて帰って、一時的に、魂を保護したんだ。

 君の身体は、実は今ここにはない。

 君は、今、魂だけなんだけど。それだけでは不安定だから、媒体に入ってもらっている。これだよ」


 ふと、白く細い指が、ラテの鼻先をつついた。と思うと、離れた手には、鈍い輝きの金の指輪がひとつ。素朴な印が彫られているが、古いものなのだろう、撫でて磨くうちに、彫りは浅くなり、色もくすんでいる。だが、なにか温かなものを感じる指輪だった。まして、ラテにとっては、自分から抜き去られた心臓のように、つよい絆を感じた。


(ご主人様の指輪は、もっとキラキラしていたけれど、冷たいただの指輪だった)


 ふと記憶に照らし合わせたが、横でファモリカが、まさか、と呻いたので、気を取られてしまった。

 アルは、ファモリカを意に介さない。ふたたびラテの頬をつついてくるのに目を瞑ると、いつの間にかその手から指輪は失われて、ラテは自分が大切なものを取り戻した気がした。


「この屋敷の中では、魂だけでも身体があるのと同じ。食事をして、睡眠を取って、ゆったりと癒されれば、力を取り戻すことができると思う。身体の方は時の流れをごくわずかに絞ってある。……癒されて、本来の力が満ちたなら、身体に戻れる可能性もあると思うよ。ここは、そういう場所なんだ。だから、ラテ。窮屈かもしれないけれど、しばらくは屋敷から出ないでほしい。君の存在は不安定だから、外に出たら、どこかに流されてしまうかも」


 申し訳なさそうにアルに覗き込まれて、ラテは首を横に振っていいのか縦に振っていいのか、分けもわからず、ぶんぶんと首を回した。


「あの、私、お屋敷から出ません。朝は、止めにきて下さって、ありがとうございます」

「ああ、さっきね。うん、話してなかったからだけど、焦って走ったよ。間に合ってよかった」


 頬を緩めたアルが、ラテの頭を片手で軽く抱き寄せた。立ち上がったアルの身体に、ぽす、と埋められる。

 その場所は、温かくて、心地よくて、そしてドキドキして。ラテは体温が上がるのを感じながら、身じろぎもせず、その貴重な抱擁を味わった。

 アルが、ラテの持っていた紅茶をもう一方の手で取って、食卓へ置き、ラテの空いた手を、そっと取って持ち上げた。


「ファモリカ、触れてごらん。——大丈夫、弾き飛ぶとしても、今度は君だけだから」


 むっとした顔を一瞬見せたものの、ファモリカは、ラテにいいかな、と断ってから、そっとその手を握った。

 細いけれど、大きい手だ。色も艶やかな茶色。体温の上がっているラテの手が、ひんやりして気持ちいいような、低い体温の手だ。


「触れた……」

「さっきは、位相がずれていた。魂しかないから、意識に影響を受けやすい。食べて眠り、生者と同じ生活を送り、健全なこころで在れば、より生者の位相に近くなる。逆をいけば、死に近くなる。さっきも言ったけど、ここは、そう言う場所。だから、健全な生者は、この屋敷で生活をしてはいけない」


 アルは、そっとラテの頭を起こし、髪を梳きながら手を離した。


「私以外はね」


 見上げた横顔は、透明で、寂しさも悲しみも、喜びも誇りも、なにも浮かんではいなかったけれど。

 ラテはとても胸を突かれて、思わず、アルの手を、今度は自分から握りしめた。

 少し驚いた顔で、でも優しく、アルが見下ろしてくる。どうしたの、と目で尋ねてくる。ラテは、こんなに気にかけてもらった記憶が、ない。


「あの、あの、私、とても感謝しています。助けて下さって、ありがとうございます」

「どういたしまして、ゆっくり、元気になろう」


 ああ、これは大切な感謝の気持ちだけど、これが言いたいことではないのだ。


「あの、あ、朝ご飯、美味しかったです」


 アルが、少し面白そうに、目を瞬いた。

 でも、違う。


「あの、私。私、元気になるためにたくさん食べて、たくさんお仕事して、お役に立ちたいです。それで、それで、その……」


 違うのに。

 頬が熱を持つ。焼けそうだ。視界も霞んで、目に涙が溜まってしまっているのがわかる。でも、泣いている場合ではない。


「あの、それまで、アル様とお食事したいです。アル様と起きて、食べて、お手伝いして、笑っていただいて、お話しして、寝て……ケンジョウなセイジャの生活を一緒にしたいです。そしたら、一緒に、幸せです」


 必死に言い募るうちに、アルの目が大きくなって、白い頬に赤みが差した。それは、とても綺麗で。

 ぼんやりと見とれていると、はっとした様子のアル様が、なぜかラテの顔を片手で覆ってきた。


「かわいすぎるから、隠しておこう」


 少し難しいことを言って、やがて、ふう、と息を吐く様子がうかがえた。

 大それたことを言ってしまって、ラテは壊れそうなほどの動悸に息苦しい。けれど、それは噓偽りのない本心だったから、怒られるとしても、それまではどうしても取り消したくなかった。

 アルの手から、やわらかな匂いがした。

 やがてその手がどけられて、ラテの両頬を挟んでも、どこからも叱責は飛んで来なかった。


「ありがとう、ラテ。そうしよう。君が、はやく元気になったら、私も幸せだから」


 そう、微笑んだアルに、ラテはどうしようもなく、すべてを捧げたくてたまらない気持ちになった。

 そのまま見つめ合っていると、ぐずぐずと蕩けて形を失いそうだ、と思ったとき。


「おや。もう来たのか」


 ふいにアルがあらぬ方を見て呟いて、表玄関の重厚な扉が、ガンガンと激しい音を立てて叩かれた。

 

「お怒りだな」


 アルに似合わないような、少し不貞腐れた顔をしてから、ふと視線を転じる。

 そっとラテを放すと、アルはファモリカを呼んだ。


「事態を、正確に把握したと思うけど。どうする? 安心して預けて、戻ってもいい」

「いえ」


 青年は、冷静な眼差しで、頭を下げた。


「いえ、そういう事情であるなら、しばらくはこのまま。置いていただけるなら、全力でお仕えいたします」

「そう? そうだね、女性の扱いはそう思えないけど、すこぶる優秀だそうだからね」

「……」

「では、ファモリカ、まずはお客の出迎えをお願いしようか。まあ、応接室でなくていいよ。ここに連れてきて」


 ファモリカは、一分の隙もない礼を返すと、さっと部屋を去り。

 やがて再び食堂の扉を開けて戻ると、背後に、巨大な男を伴っていた。金の髪は色褪せ気味で、短く天を衝いている。彫りが深く、険しい表情の今は、顰められた眉の影で眼が暗い。鼻は高く、口は大きく、同じく色褪せたまばらな髭で、顔中覆われていた。


「坊主、お前、またやらかしたな!」


 部屋に入るなり、待ちきれないように吠えた口は獅子のようで、中から炎が吐き出されないのが不思議なほどだ。ラテはすっかり萎縮してしまい、アルがそっと、その前に立った。


「相変わらず、無礼な男だね」

「お前がそれなりな格好でそれなりな態度なら、こっちだって敬えるかもしれないけどな」


 鼻を鳴らす大男の、あまりの不遜さに小さく小さくなっていたのに。その鋭い眼が、アルを透かしてこちらを見つめた気がして、背中に冷たい汗がどっと出た。

 その様子を察してか、アルが、後ろ手に、抱き寄せてくれた。


「大丈夫、怖い顔をしてるけど、怖くない。王立軍の部隊長さんだから」


 王立軍と聞いても、ラテにはピンとこない。目を瞬いて戸惑う様子に、アルはいたずらっぽく説明を添えてくれた。


「王立軍はこの王都の治安を預かる警備組織で、平民を中心としながらも国王を最高司令官とする。市井の幼い子供が皆憧れる、都を守ってくれるかっこいい人たちのことだよ」

「よせ。それより、俺らが保護すべき人間を横取りして、穏便に済まそうとしていた案件をおおごとにしてくれて、いったいどう落とし前をつけるつもりだよ」


 そう言ってにやりと恐ろしい笑顔を浮かべるこのヒゲ男が、その憧れの的だとは。

 ラテは、理想と現実の落差に、震えも止まって、ぽかんと男を見上げていた。



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