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暁に消える恋、ひとつ  作者: 日室千種


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7/12

きえたく、なりました

 思わずはっと身体を固くしたラテは、あまりに不敬な反応をしたことに蒼褪めたが、青年は盆を食卓に置くと、昨日は悪かったね、と謝って来る。そしてラテが反応に困って、あ、う、と慌てているうちに、拭き上げられた側に、丁寧に皿を並べ始めた。

 返事を考えている暇はない。ラテも残りの広い面を一生懸命に拭くと、最低限のカトラリーを並べた。

 朝から、やたらに皿数が多い。いったい何人で食べるのだろうかと思うが、どう数えてみても、ひと揃いしかない。よく動く青年は、皿の前に椅子をひとつ設置すると、厨房から茶器を運んできて、熱い湯を注ぎ入れた。

 手慣れている。離れに滞在している、客人のはずなのだけれど。

 蓋をして、蒸らす時間を脈を取って測っているらしい。左手の手首を右手で掴み、少し俯き加減に立っている。茶金の髪に、背後から明け方の白い光が当たり、淡く煌めいている。長いまつげが、濃い肌の上にさらにくっきりと影を落とし、その頬の滑らかさを強調しているようだ。


(きれいだなあ)


 つい見つめるうちに、充分に蒸らされた紅茶が、静かに真っ白なカップに注がれた。

 カップはひとつだ。


「どうぞ、ラテ。紅茶を入れるのは、うまいんだ」


 紅茶と椅子を勧められて、ラテはかなり戸惑ったが、貴人の言葉には従わなくてはいけない。

 はい、と小さく返事をして、慌てて着席したが、食べる素振りもないファモリカに見つめられていては、手が震えそうだ。かちかちに固まったラテの鼻を、ふっとくすぐったのは、優しい香りだった。

 お日様が照らす草原を渡る風に、濃い紫の花が舞ったような。


「お花の香り」


 ぽつりと呟いてファモリカをうかがえば、なぜか虚をつかれたような表情で息を飲んだようだった。

 だがすぐに取り繕うと、嬉しげな笑みをこぼした。


「そう、紫繊花の花びらが入っているから、いい香りがする。同じ花から集めさせた蜂蜜を少し垂らして飲めば、さらに香りが立つよ」

「蜂蜜」


 濃厚な、黄金の滴り。美味しそう、と思って、ふっと我に返った。

 蜂蜜なんて、高価な物、食べたことなどない。ないはずだ。一瞬だけ、舌の先が痺れるほど甘くなったような気がしたけれど、あっという間に、それは手の届かない記憶の谷に沈んで行った。


「今日は用意していないけど、今度ね。きっと、気に入るよ」


 何故だかとても嬉しそうに話してくれるファモリカに、ラテは曖昧に頷いた。

 勧められて、カトラリーを手にすると、青年は自分の座る椅子を窓際にずらして、窓の木戸を片側だけ押し開けた。滑り込んでくる朝方の空気を楽しみながら、外を眺める風だ。

 立ち去るわけではないが、ラテが食べにくいのに気を使ってくれたのだろう。それならば、間を置かずに、できるだけ急いで、食べてしまわなければいけない。

 ラテは気負って食事に向かったが、すぐにその温かさと美味しさにすっかり夢中になった。

 気がつけば、自分の限界まで食べていて、それでもまだ残ってしまっている肉やパンに、どうしようと眉を寄せたのだが。


「離れの鳥や犬にやれるから、残しても構わないよ」


 優しく声をかけられて、はち切れそうになった胃が、きゅっと縮んだ。

 ファモリカは柔らかい表情でそう言ってくれたのだが。見られていることはおろか、その存在まで意識の外にあったラテは、混乱して泣きそうになった。


「あの、でもせっかくのお食事を」

「まだ回復途中だから。少しずつ、食べられる量を増やせばいいよ。犬たちは、御馳走だと大喜びだと思うしね」


 食べ物を残すなんて、もったいないことをしていいのかと思いながら、事実、これ以上はとても入らないので、ラテは素直にはい、と返事をした。

 栄養を取り入れた身体は温まり、頭はぼんやりとしてくる。

 何気なく窓の外を見れば、薄闇に沈んでいた木立がくっきりと照らされ始めていた。

 朝だ。いつもであれば、辛い一日が、また始まる時間。


(ここにいて、いいのかな)


 眠り足りて、満腹で、辛い労働も、突然襲って来る暴力もなく、ここにいる自分自身に、ひどい違和感を感じる。そわそわと腹の底が痒くて、落ち着かない。

 アルが助けてくれたことにも、アルが優しくしてくれることにも、感謝と畏ればかりで、溢れて来るのはあたたかな気持ちばかりなのに。

 その温かな自分と乖離した、どうにも嫌な気分の自分がいる。


「ラテは——」


 ファモリカの声は、黄色い獅子花の綿毛のように、しっとりと柔らかい。決して大きくもない声に、ラテは大げさにびくりと身体を揺らして振り向いた。


「……ラテは、ここに来る前は、どこにいたの?」


 驚いたラテを気遣って、声が一層優しくなる。申し訳なくて、しっかり答えたくて、小さな肩に力が入った。


「あの、アル様がおっしゃるには、私はご主人様のお屋敷で、奴隷として働いていたそうです。私が幼い頃に、母が私を連れてお屋敷に水を恵んでいただきに寄って、それから、五年働いていました」

「……たった七つの子供に、何ができたんだろう」

「ななつ? あ、あの」


 一瞬、ファモリカが、凶悪な獣の気配を発したので、ラテは縮み上がった。答え方が、悪かったのだろうか。


「あの、私はお屋敷に来るまでの記憶がなくて、母もあまり話をしないので、正しい年はわからないんですが、きっと、私はもっと小さかったと思います。四つとか。今はたぶん、十才くらいだと思います。お仕事は、水汲みとか、庭の動物たちの世話とか、あと、道案内をしてました」


 一生懸命に話すほどに、青年の背の向こうに、凍れる空気が立ち上るのは何故だろう。


「あの、ごめんなさい、私、やっぱり迷惑ですよね」


 ついに、叱責される前に謝った方がいいかと、頭を下げる。我慢しなければならない涙が、どうしようもなく溢れて、目尻から鼻先まで滴ったとき。


「そうじゃない!」


 悲痛な叫びが、ラテの重たい頭を持ち上げた。

 ファモリカが、酷く強張った顔で立ち上がって、こちらに歩いてきていた。縦じわが眉間に寄せられ、眼差しは固く厳しい。


(ああ……!)


 ラテはもう、消えてしまいたくなった。

 視線をそらすこともできずに、殴られるのから身を庇うわけにもいかずに、ただ、自分は無になるんだと言い聞かせて、固まる。

 青年は大きな歩幅で近寄ると、だが、腕を振り上げる代わりに、両手を広げて、かがみ込んだ。


「ごめん、ラテ。そうじゃないんだ。ラテに怒ってるわけじゃ……」


 ラテから見れば、まだ若く細身のファモリカの身体も、頭二つ分は大きい。その長身を曲げて、広げた両手で思い切り引き寄せられ——。

 乾いた音がした気がして、ラテはびっくりして辺りを見回した。

 目の前には、片膝をついてやはり瞠目したファモリカがいる。抱き寄せた形の両手は、空っぽだ。

 その手の中に入ったはずのラテは、いつの間にか壁際まで移動して、なんだか足下がふわふわとしていた。ふと視線を下げて、あんぐりと口を開ける。

 ラテは、壁にも、どこにも触れていなかった。足も、床を踏みしめていない。


 浮いている。


 気がつくと同時に、ふっと内臓が浮く感覚がして、とん、と床に足がついた。

 そのまま、まんまるの目をして、ファモリカと見つめ合うことしばし。


「ファモリカ。君、出禁にしようか」


 冷え冷えとしたアルの声が、食堂に響いた。



ファモリカ……

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