きえたく、なりました
思わずはっと身体を固くしたラテは、あまりに不敬な反応をしたことに蒼褪めたが、青年は盆を食卓に置くと、昨日は悪かったね、と謝って来る。そしてラテが反応に困って、あ、う、と慌てているうちに、拭き上げられた側に、丁寧に皿を並べ始めた。
返事を考えている暇はない。ラテも残りの広い面を一生懸命に拭くと、最低限のカトラリーを並べた。
朝から、やたらに皿数が多い。いったい何人で食べるのだろうかと思うが、どう数えてみても、ひと揃いしかない。よく動く青年は、皿の前に椅子をひとつ設置すると、厨房から茶器を運んできて、熱い湯を注ぎ入れた。
手慣れている。離れに滞在している、客人のはずなのだけれど。
蓋をして、蒸らす時間を脈を取って測っているらしい。左手の手首を右手で掴み、少し俯き加減に立っている。茶金の髪に、背後から明け方の白い光が当たり、淡く煌めいている。長いまつげが、濃い肌の上にさらにくっきりと影を落とし、その頬の滑らかさを強調しているようだ。
(きれいだなあ)
つい見つめるうちに、充分に蒸らされた紅茶が、静かに真っ白なカップに注がれた。
カップはひとつだ。
「どうぞ、ラテ。紅茶を入れるのは、うまいんだ」
紅茶と椅子を勧められて、ラテはかなり戸惑ったが、貴人の言葉には従わなくてはいけない。
はい、と小さく返事をして、慌てて着席したが、食べる素振りもないファモリカに見つめられていては、手が震えそうだ。かちかちに固まったラテの鼻を、ふっとくすぐったのは、優しい香りだった。
お日様が照らす草原を渡る風に、濃い紫の花が舞ったような。
「お花の香り」
ぽつりと呟いてファモリカをうかがえば、なぜか虚をつかれたような表情で息を飲んだようだった。
だがすぐに取り繕うと、嬉しげな笑みをこぼした。
「そう、紫繊花の花びらが入っているから、いい香りがする。同じ花から集めさせた蜂蜜を少し垂らして飲めば、さらに香りが立つよ」
「蜂蜜」
濃厚な、黄金の滴り。美味しそう、と思って、ふっと我に返った。
蜂蜜なんて、高価な物、食べたことなどない。ないはずだ。一瞬だけ、舌の先が痺れるほど甘くなったような気がしたけれど、あっという間に、それは手の届かない記憶の谷に沈んで行った。
「今日は用意していないけど、今度ね。きっと、気に入るよ」
何故だかとても嬉しそうに話してくれるファモリカに、ラテは曖昧に頷いた。
勧められて、カトラリーを手にすると、青年は自分の座る椅子を窓際にずらして、窓の木戸を片側だけ押し開けた。滑り込んでくる朝方の空気を楽しみながら、外を眺める風だ。
立ち去るわけではないが、ラテが食べにくいのに気を使ってくれたのだろう。それならば、間を置かずに、できるだけ急いで、食べてしまわなければいけない。
ラテは気負って食事に向かったが、すぐにその温かさと美味しさにすっかり夢中になった。
気がつけば、自分の限界まで食べていて、それでもまだ残ってしまっている肉やパンに、どうしようと眉を寄せたのだが。
「離れの鳥や犬にやれるから、残しても構わないよ」
優しく声をかけられて、はち切れそうになった胃が、きゅっと縮んだ。
ファモリカは柔らかい表情でそう言ってくれたのだが。見られていることはおろか、その存在まで意識の外にあったラテは、混乱して泣きそうになった。
「あの、でもせっかくのお食事を」
「まだ回復途中だから。少しずつ、食べられる量を増やせばいいよ。犬たちは、御馳走だと大喜びだと思うしね」
食べ物を残すなんて、もったいないことをしていいのかと思いながら、事実、これ以上はとても入らないので、ラテは素直にはい、と返事をした。
栄養を取り入れた身体は温まり、頭はぼんやりとしてくる。
何気なく窓の外を見れば、薄闇に沈んでいた木立がくっきりと照らされ始めていた。
朝だ。いつもであれば、辛い一日が、また始まる時間。
(ここにいて、いいのかな)
眠り足りて、満腹で、辛い労働も、突然襲って来る暴力もなく、ここにいる自分自身に、ひどい違和感を感じる。そわそわと腹の底が痒くて、落ち着かない。
アルが助けてくれたことにも、アルが優しくしてくれることにも、感謝と畏ればかりで、溢れて来るのはあたたかな気持ちばかりなのに。
その温かな自分と乖離した、どうにも嫌な気分の自分がいる。
「ラテは——」
ファモリカの声は、黄色い獅子花の綿毛のように、しっとりと柔らかい。決して大きくもない声に、ラテは大げさにびくりと身体を揺らして振り向いた。
「……ラテは、ここに来る前は、どこにいたの?」
驚いたラテを気遣って、声が一層優しくなる。申し訳なくて、しっかり答えたくて、小さな肩に力が入った。
「あの、アル様がおっしゃるには、私はご主人様のお屋敷で、奴隷として働いていたそうです。私が幼い頃に、母が私を連れてお屋敷に水を恵んでいただきに寄って、それから、五年働いていました」
「……たった七つの子供に、何ができたんだろう」
「ななつ? あ、あの」
一瞬、ファモリカが、凶悪な獣の気配を発したので、ラテは縮み上がった。答え方が、悪かったのだろうか。
「あの、私はお屋敷に来るまでの記憶がなくて、母もあまり話をしないので、正しい年はわからないんですが、きっと、私はもっと小さかったと思います。四つとか。今はたぶん、十才くらいだと思います。お仕事は、水汲みとか、庭の動物たちの世話とか、あと、道案内をしてました」
一生懸命に話すほどに、青年の背の向こうに、凍れる空気が立ち上るのは何故だろう。
「あの、ごめんなさい、私、やっぱり迷惑ですよね」
ついに、叱責される前に謝った方がいいかと、頭を下げる。我慢しなければならない涙が、どうしようもなく溢れて、目尻から鼻先まで滴ったとき。
「そうじゃない!」
悲痛な叫びが、ラテの重たい頭を持ち上げた。
ファモリカが、酷く強張った顔で立ち上がって、こちらに歩いてきていた。縦じわが眉間に寄せられ、眼差しは固く厳しい。
(ああ……!)
ラテはもう、消えてしまいたくなった。
視線をそらすこともできずに、殴られるのから身を庇うわけにもいかずに、ただ、自分は無になるんだと言い聞かせて、固まる。
青年は大きな歩幅で近寄ると、だが、腕を振り上げる代わりに、両手を広げて、かがみ込んだ。
「ごめん、ラテ。そうじゃないんだ。ラテに怒ってるわけじゃ……」
ラテから見れば、まだ若く細身のファモリカの身体も、頭二つ分は大きい。その長身を曲げて、広げた両手で思い切り引き寄せられ——。
乾いた音がした気がして、ラテはびっくりして辺りを見回した。
目の前には、片膝をついてやはり瞠目したファモリカがいる。抱き寄せた形の両手は、空っぽだ。
その手の中に入ったはずのラテは、いつの間にか壁際まで移動して、なんだか足下がふわふわとしていた。ふと視線を下げて、あんぐりと口を開ける。
ラテは、壁にも、どこにも触れていなかった。足も、床を踏みしめていない。
浮いている。
気がつくと同時に、ふっと内臓が浮く感覚がして、とん、と床に足がついた。
そのまま、まんまるの目をして、ファモリカと見つめ合うことしばし。
「ファモリカ。君、出禁にしようか」
冷え冷えとしたアルの声が、食堂に響いた。
ファモリカ……




