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暁に消える恋、ひとつ  作者: 日室千種


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11/12

いきを、つきました

 朝食の後片付け、といっても持ち運び用の荷箱に食器を重ねて入れるだけのことだったが、それをセリと共に済ませれば、言わなければならないことがあったと思い出した。

 いざアルに向かって口を開いたが。

 そのまま固まったラテに、食後のハーブを噛みながら、アルが優しい目を向けてくる。


「もしかして、母君のことかな?」


 まさにその通り、母のもとに帰ると、告げようと思っていたのだけれど。

 母がいた男爵の屋敷は、既に王立軍に取り押さえられたらしい。では、母は軍に保護されたのか。あるいはやはり、昨夜アルが連れていた女性が母だったのだろうか。どちらにしても、ラテがこの屋敷から出ることができないなら、母の元に赴くこともできないのだろう。

 ——まして、もしアルが母を連れ帰ったのだとしたら。アルがそのことを黙っている限り、ラテから言及しては、いけない。

 ラテはあうあうと、空しく口を開け閉めした。


「ラテ、もう一度ここに座って。そう。……ごめん、ラテからは尋ねにくいよね。母君の、話をしよう」


 導かれた椅子に、すとんと座る。

 けれどそこから、ラテは顔を上げることができない。俯いた視界も暗く、狭く。いっそ、耳までも塞いでしまいたかった。


「といっても、まだ状況は変わらない」


 そっと片手を握られて、伝わって来る温もりと同じように、言われたことの意味が、じわじわとラテを暖めた。


「私は昨夜、君を不当に働かせていた屋敷にお邪魔して、半地下にいた、君の母君らしき人を連れて来た。けれど、彼女も体がひどく弱っている。離れで療養中だから徐々に回復はするだろうけれど、それまでは、会えない。

 君がもっと落ち着いて、母君が回復してこちらの棟まで来られるようになったら、会えるよ」


 ふうーっと、意図せず大きな息が洩れて、ラテは自分で驚いた。


「安心した?」


 柔らかく問いかけてくるアルに、頑張って、微笑む。

 安心の吐息だ。間違いはない。けれどそれは、母が助かったからではなく。母との対面が、まだ先延ばしにできること。そのことが、震えそうになるほど、嬉しい。

 それはどこか、冷たい喜びだった。

 けれどゆっくりと、事態を噛み砕くと、重たい胃の底が少しずつ温もってきた。

 もう、石床に眠る母を心配しなくともよいのだ。

 再び、ラテは息をついた。今度は、母のための、吐息。


「母を助けて下さってありがとうございます。どうか、よろしくお願いします」


 立ち上がり、精一杯の気持ちを込めて、頭を下げた。

 その直後、背後からの唸り声が、そして叫びが、ラテを縮こまらせた。


「君が頭を下げることではない!」


 恐る恐る振り返れば、ファモリカが唇を噛み締めていた。眉はつり上がり、目は爛々とラテを睨んでいる。


「も、も、もうしわけ……」


 恐ろしさに、まともに謝罪もできない。何故急にファモリカが怒り出したのか、疑問を浮かべることもできない。

 震えるラテの背をアルが抱き、ファモリカはさっと顔を背けて「すまない」と、怒りを無理矢理にか、押さえ込んだようだった。けれど、その唇の端は細かく激しく震えて、彼の耐え難い激情をうかがわせた。

 ラテはそれから、目を離すことができなかった。

 己を見つめて青ざめるラテに、ファモリカは酷く顔を顰めた。

 さらにラテの肩が跳ねる。

 ついにアルが、やれやれ、と呟いた。


「ラテ、ファモリカは君に怒ってはいないよ。——彼は生き別れの妹をずっと探していてね。あの男爵の屋敷にも、妹を捜して、わざわざ下働きとして潜入したらしい。だから彼は、あの屋敷で奴隷とされていた者たちの惨状を、直接見知っている。……妹と似た年頃のラテのことは、心配で仕方がないんだよ」


 ラテは目を丸くした。

 ファモリカの事情にも、また自分が心配されている、という思いがけない言葉にも。

 見上げたアルの顔は、ファモリカの方を向いて何やら機嫌が良さそうだ。つられてそろそろと視線を向けて、がっちりと濃茶の視線とかち合って、思わず姿勢を正した。じっとそのまま見つめられて、申し訳ないと思いながらも、びくびくしてしまう。

 やがて、その薄めの形良い唇が開いて。


「急に大声を出して済まなかった。君を見ていると、どうしても()を思い出すので。……縁あって、アールノート様の元でともにお仕えすることになったんだ。できれば、仲良くしてほしい」

「は、はいっ」


 反射的に返事をして、仲良くするという答えが果たして正しかったのかと混乱して、何度も自問した。

 返答を間違えれば、にこやかな笑顔も急変するかもしれない。ラテはファモリカを見つめたまま、ぶるっと一度大きく震えたのだが。


「ありがとう、ラテ」


 花が咲いたような笑顔は、ファモリカの鋭い面立ちを驚くほど幼く見せた。

 美しん人形が命を得て動き出したような、鮮烈な変貌。それは、ラテの視覚と記憶に強く焼き付いて——ぱちんと、弾けた。

 え、と瞬きをする。ちらちらと眼裏に残っていたファモリカの笑顔すら、ふっと消えた。笑顔を見た、その事実は覚えているのに、映像がその瞬間だけ記憶から失われた。恐ろしいほどに、すっぽりと。

 ぼんやりとして、もう一度焦点をファモリカに合わせると、少し戸惑ったような綺麗な笑みを浮かべていた。

 先ほどのような全開の笑顔ではない。

 あの、どこかで、見たような。


「仲直りできてよかった。でもラテ、何か嫌な思いをしたら、すぐに教えるんだよ」


 にやり、と笑ったアルの顔は、悪戯そうだ。何故だかは、分からないけれど。

 少し可愛らしい。

 そう思ってしまったことに慌ててしまって、ラテは、かすかに残った戸惑いすら忘れた(・・・)


「で、たぶんディスは今日にも聞き取り調査に人を遣ってくるだろうから、その時は、私かファモリカがラテに付き添う。いいね?」

「はい」

「承知しました」


 自分のことで二人を煩わせるのは恐ろしい。けれど一人で対応するのも怖い。

 アルが命じるのなら、とラテははっきりと頷いた。






 屋敷の中を昨日のように掃除をして、アルと昼食をとり、台所の水場を磨いたら、少し休めとセリに言われた。


「また倒れたら元も子もないよ。あんたの一番大事な役目は、もっと肉をつけて、体を丈夫にすることさ」


 ポンポンと言われ、恐縮しながら自室に戻る。

 前掛けを外し、入口近くで衣服の埃を慎重に払い、そっと靴を脱いで、部屋を歩いた。掃除をするのは自分でも、与えてもらった居場所を汚してしまうかもしれないと思うと、掃除をした格好のままで気軽に踏み込むことはできないのだ。

 そおっと、そおっと、絨毯の端に座ってみる。長い毛足がラテを心地よく、ふんわりと受け止めてくれた。

 六年間、石の床で眠っていた体には、柔らかすぎて落ち着かない。

 やはり、部屋の隅の、床がむき出しのところの方がいいだろうか。少し体を浮かせた時、軽いノックの後で、ファモリカが扉を開けた。


「失礼、ラテ、いるか」

「は、はい」

「入っていいか」

「は、はいっ」


 ぴょんと立ち上がってお辞儀をすると、扉を大きく開けて入ってきたファモリカが、抱えてきた荷物越しに訝しそうな視線を寄越した。


「今、どうして床に座っていたんだ?」


 ラテは思わず言い淀んだが、はっとした。答えが遅れては、いけない。


「す、すみません。あの、あの、汚してしまうようで……」


 声を出した瞬間、ファモリカの眉間に皺が寄って、ラテは発言を酷く後悔した。けれど、その皺は瞬く間に溶け消えた。


「床で過ごすなんて、昔の家みたいだな。その方が落ち着くなら、それもいい」


 言うなり、靴を脱いで、絨毯に上がってきた。言葉を失うラテの前まで来て、荷物をそっと置き、どかりとあぐらをかく。

 そして、慎重な様子で、ラテに目線を合わせてきた。


「もう、ラテが悪いことをしたとき以外は、謝らなくていい。俺は、返事が遅かったり、間違っていても、怒らない。死んだってラテを殴ったりしない。傷つけない」


 裸足で立ち尽くすラテを、下から見上げる視線は、揺らがない。

 ラテは。

 ラテは必死に探していた。——どう答えたら、いいのだろう。

 そして同時に、悟る。きっと、正しい答えを探ることこそが、この人が一番されたくないことだ。

 けれどそうすると、ラテにはもう、どうすることもできなくて。

 固まってしまったラテに、ファモリカは、怒りも悲しみも表さなかった。ただ、鋭い目元を緩めて、いいよ、と言った。


「ゆっくりで、いい」


 そして、やおら荷物を片端から取り出して、ひとつひとつ、ラテに見せてくれた。

 普段用のシンプルな服数点、布に包まれたままの下着の替え、白墨と小さな黒板、装飾は少ないが絵の付いた子供用の本数冊、そして花の形をした淡紅色の小さな塊と、猫の形をした黄色いもの……。


「すべて、ラテのものだ」

「は……はい……?」

()に選ぶつもりで買ってきた。貰ってくれたら嬉しいんだ」

「はい……」


 目を白黒させながらも、ラテは猫の形の黄色いものを手に取り、表面をつと指で撫でて、匂いをかいだ。


「石けん……」

「そう、石けんだ。風呂用のな。女の子だから花を買ったが、猫も好きかと思って」

「こんなに可愛くていい匂いの石けん、初めて見ました……」


 ラテが手にしたことがあるのは、洗濯用の石けんだ。無骨な、煉瓦のような形で、独特の油脂の臭いがするもの。よく漱がないと、衣服に臭いが付いて、かえって叱責されるような代物だ。


「初めて、か。それなのに、よく石けんと分かったな」


 問われて記憶を探るが、やはりまったく覚えがない。けれど。


「けど、匂いは、どこかで……」


 その頼りない糸は、ふつりと頼りなく途切れ。

 首を傾げるラテに、ファモリカは本と黒板を示した。


「字は読める? 書く練習も、したらいい」


 驚く。驚いた。目が回りそうだ。心臓が鳴り響く。ラテの全身が、またしてもどうしていいか分からずに、凍り付いたように動けない。

 字を習うことなど不要だと、分不相応だと。それどころか、害であり悪であると、そう言い聞かされてきた。けれどそれでも。いくつか見覚えた文字を、馬車から眺める街並みの中に見つけることができた時。その意味を、読み取ることができた時。その喜びをもっと味わいたくてたまらなかった。

 けれどそれは分不相応なことで。もっと知りたいと願ってしまう、自分の罪深さに落ち込むこともたくさんあったのに。

 いいのだろうか。欲張りすぎではないだろうか。

 怖くて、怖くて。

 ファモリカは、静かに待っている。

 早く応えなければ、申し訳ない。けれど。

 息が、苦しい。


「ラテ」


 ファモリカのものよりも、少し響きの柔らかな声。


「早速、王立軍から担当者が来たよ。……どうしたの、これは」


 荷物を見て首をかしげ、そして絵本を見て、にっこりとラテに笑いかけてくれた。


「勉強するのかな、ラテ。えらいね。字をたくさん読めるようになったら、きっと楽しい。字の練習に、私に手紙をくれたら嬉しいな」

「……はい、アル様。勉強します」


 今度は躊躇う余地なく、ラテは即答した。

 なんであれ、アルが期待していると言うなら、応える道しかない。そのためにも、とラテはファモリカにぺこりとお辞儀をした。


「ファモリカ様、ありがとうございます。字を勉強してみます」


 何やら、ファモリカは、アルが入ってきてから複雑な表情でいたのだが。

 それでも、ラテの頭をポンと撫でて、微笑んでくれた。

 その様子に目を細めていたアルが、さてと笑い。


「まずは一緒に、調査に協力といこうか」


 と、ラテの肩をそっと抱いた。




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