きらいに、なりました
王立軍の部隊長だという男が、まだ大人になりきらない年齢の使用人に頭を下げたことに、驚いたのだろう。
ファモリカは少し目を見張ったが、すぐにまたうっすらと微笑みを浮かべた。
「私ではなく、その謝罪は、彼女にして下さいませんか。苦言も、アル様の身を案じてのことと思いますが、彼女を尊重するならば、そのあたりで止めていただきたい」
「彼女? そこの、ちびっ子か? あの屋敷にいたのか?」
「……はい」
二人に揃って視線を向けられて、ラテは少し、身構えた。
ファモリカも、あの屋敷に捕われていた、と言っていた。けれど、屋敷の半地下と外回りしか知らないラテは、ファモリカを屋敷で見かけたことはない。さきほど身の上を話しはしたが、それ以上に、一方的に知られているようなのが不思議だった。
ヒゲ男が、神妙な顔でラテの前まで来て、腰を曲げて覗き込んできた。
「嬢ちゃん、悪かった。辛かったろう」
声には真摯な響きがあり、眼差しは揺るぎなく温かい。そんな目は、つい昨日まで、知ることのなかったものだ。
王立軍は、市民の味方だ、という。その中でもとても偉い立場にいるのに、ラテにまで頭を下げられるこの人は、ラテのような弱い存在がいれば、きっと助けてくれるのだろう。
けれど、ラテは、
「いえ……」
と言ったきり、小さく口を引き結んで男をうつむいてしまうのを止められなかった。
救いが間に合わなかったことを恨んではいない。男にも王立軍にもそれぞれの事情があり、さらにこの男の本質は、弱いものに寄り添うものだと、ラテにもわかっている。
けれど男がよい人だと思えば思うほど、なぜだか、心が塞ぐのだ。
男は、しばらくラテのつむじを見つめていたが、やがて背を伸ばし、がしがしと頭をかいた。
「んー、で、坊主が俺たちより先に連れ出してたのは、この嬢ちゃんと、少年とだけ、ってことか? 他にはいないのか」
「調べがついてるってわけじゃないのか」
「ない。今、総出で屋敷の下働きにまで事情を訊いているが、誰もが自分以外には関心が薄くてな。だが昨夜、お前が連れていたのは確かに複数だったと、複数の証言がある。うち一人は、自力で歩けていなかった、とも。嬢ちゃんはそこまで弱ってはなさそうだ」
アルは腕を組んで、しばらく考えているようだったが、やがて、ぽつりと情報を落とした。
「昨夜連れてかえったのは、ファモリカ、彼ともう一人だ。もう一人は女性。体調が優れないので、離れで療養している。——ラテは」
自分の名が呼ばれた、と思ったラテは、弾かれたように顔を上げた。アルが、深い夜の瞳を向けてくる。
「ラテは、その前の夜に、旧神殿区で倒れているところを見つけた。彼女から話を聞いて、あの屋敷が違法に奴隷として人を囲っていることがわかったんだ」
「旧神殿区? ——なんでだ?」
問いかけられたアルが、首を振って答えを示す。それで、ヒゲ男は問いかける相手を間違えたことに思い至ったようだった。
「嬢ちゃん、なにがあった? 逃げ出したのか?」
反射的にヒゲ男から視線を逸らしてしまい、ラテは自分でも驚いた。さっきから自分は、どうしてしまったのだろう。身分の高い人に対して、非礼に過ぎる。自然と、身体が強張った。
けれど同時に、ラテははっきりとわかっていた。この男は、そんなことではラテに怒りはしないだろう。だから、お腹の底から震えが湧き上がるのに、それでも視線を逸らしていられたのだが。
「ラテ、辛いことだったら、無理に話さなくていいよ」
声をかけられて、アルがとても心配そうな顔でこちらを見ていたことを知った。
とたんに、子供じみた嫌な態度を取っていた自分が、恥ずかしくなる。さっと、目元が熱くなった。
「あの……申し訳ありません。大丈夫です。……わたし、いつも道案内をしているんです。旧神殿区の中でも、道を覚えられるから。あの時は、ご主人様が指輪を落としから、輪を見つけるまでは帰ってくるなと、馬車から降ろされて置いて行かれたんです」
「指輪」
「はい、紋章の入った、金の指輪だと。けど、見つかる前に、寒くて疲れて、動けなくなってしまいました」
ちっと、遠くから舌打ちが聞こえた気がした。
「あの男爵、何本か折っておけばよかった」
すぐ近くからは、アルの悔やしげな一言。
おいおい、とヒゲ男が呆れているが、ラテはきゅうっと心臓が引き絞られるようだった。自分のことを思ってもらえている、そう感じるだけで、甘露を舐めるかのような強い幸福感がある。
「指輪のためとはいえ、嬢ちゃんを一人置き去りにするってのも、奇妙な話だ……。男爵としては、嬢ちゃんを人目につかないようにしたかったと思うがな」
顔をこする男に、ラテはぎこちなく頷いた。
「だからいつもは、馬車の中の座席の下にある荷物乗せに入るんです。でも気をつけないと転がってしまって。一度馬車から落ちたときには、慌てて拾ってもらいました。見られたら困るのに、ってとても叱られて」
そして、手酷く殴られたのだ。幸い、怪我は手首の捻挫で済んだ。ラテだって、落ちたくはない。けれど特に強い冷え込みに連日よく眠れず、馬車の中も酷く冷えて、突っ張る手足が利かなくなってしまったのだ。
「でもあの日は、ご主人様はお怪我をしていて、指輪は絶対見つけなければいけないけど、早く帰って血を止めたいと」
「怪我?」
「手の甲から血が出ていました。たぶん、相手の馬車で何かあったんだと思います」
「相手?——嬢ちゃん、男爵は、旧神殿区に何をしに行ってたんだ? 道案内を嬢ちゃんがするってことは、今回が初めてってわけではなかったんだろ?」
ヒゲ男の目付きが鋭さを増して行く。
ラテは半分以上、記憶の中にいて、ぼんやりとそれを見つめ返した。
「一昨日で私が道案内するのは十四回目でした。ご主人様は、ふた月ごとに一度くらい、旧神殿区で誰かと会っていました。相手も馬車で来て、大路沿いの小路で待ち合わせてから、しばらくはその馬車に連れられて、旧神殿区をずっとうろうろと走るんです。その日の場所に着くと、ご主人様だけそちらの馬車に行きます。帰りは、そこで別れて帰ります。でも、馬車の御者の男の人だけだと、帰り道がわからなくなるって」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そうだ、あの日。
がたん、と大きな音がして、男爵が相手の馬車から転げ落ちてきた。御者が慌てて駆け寄って、手を貸す間に、相手の馬車は勢いよく走り去った。
強張った顔つきの男爵を乗せ、ラテはしばらくの間だけ、御者台の隅に座り、帰り道を指示した。
大路まで出たところで、馬車の座席下、荷を乗せる空間に移動する。そこで、切羽詰まった声で男爵が叫んだのだ。
「指輪が、指輪がない!」
男爵が御者台の背を激しく叩いて、馬車を止めた。急停止に、ラテは荷入れ口からこぼれ落ちそうになったが、必死で身体を支えて縮こまった。
まだ日があるのに、灯りを点してまで馬車内を探る音がする。ありません、と御者が言うと、忌々しそうな舌打ちが聞こえた。
「くそ、血で滑ったな。あれを失くしては生きてはおれん」
「道を戻りますか?」
尋ねた御者を、男爵は怒鳴りつけた。
「これだけ血を流している儂に、戻れとは、お前は儂に死ねと言うのか! おお、痛い」
「では、急いで屋敷に」
「だが、指輪を捨て置くわけにはいかん。……おい、汚い子供。出て来るのだ」
汚い子供、とはラテのことだ。
ラテは慌てて、荷乗せからまろび出た。
「お前、指輪を探して、持って帰れ。見つかるまで、帰ってきてはならん。帰って来るのも、夜になってから忍んで帰って来るのだ。
金の指輪だ。——持って逃げようと思うなよ。指輪には尊い紋章が付いている。誰も買ってはくれないし、お前の母親の命もなくなると思え」
「は、はい。かしこまりました、ご主人様」
薄汚れた身体を折り曲げて返事をするラテを、もう男爵は見ていない。さっと馬車に乗ると、出発を促した。
御者は——以前、旧神殿区で道を覚えられずに半日彷徨い、男爵に鞭で打たれていた御者は——、何かを語りかけるような目でこちらを見て、それから、馬車を駆って去って行った。
ぽつりと残されたのは、ラテ一人。
広大な大路には人の気配もなく、大路の果てに聳える大階段と本殿には、すでに赤みを増した光が射し始めていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ありがとな、嬢ちゃん」
ぽんと、頭に手を乗せられて、はっと意識を戻した。
ヒゲ男は冷めてしまっただろう珈琲を一息に飲むと、こうしよう、と言った。
「嬢ちゃんの様子を見るに、身柄を引き渡せというのも酷だ。うちのを送って調書を取るのに協力してもらえるなら、ここに保護されるのでよしとする。そっちの少年と、もうひとり、女もだ」
「かまわないよ。お茶もお出しできないがね」
「勤務中だ。いらん。——俺のこれは、俺が持ってきて置いてある豆だ」
はいはい、とアルが鷹揚に頷くのに、やや憮然とした顔になって、ヒゲ男は風のように去って行った。
ファモリカが見送りに出る。
急に広くなったように感じる食堂に、セリが淹れたての紅茶を持って来た。アルの前に置く——そしてラテにも、温め直してくれたようだった。
「ラテは、ミルクは入れないの? 風味が変わって、美味しいよ」
勧められて試したのが、懐かしいような温かな美味しさで。うっとりして飲んでいると、アルが食堂で朝食をとると言い出した。
待ってましたと言わんばかりの素早さで、食卓に美しい食事が並べられる。アルはそのいくつかをつついていたが、思い出したようにラテにジャムをなめさせたり、果物を食べさせたりするので、ラテは嬉しさ半分、困惑が半分になってしまった。
「あの、アル様。私はもういただいたのです」
「そう、でもまだ食べられるなら、食べたらいい。たくさん食べて回復しないと。私もラテが食べるのを見ていると、いつもより美味しく感じるよ。今度からは、必ず一緒に食べよう」
にこにこと、蕩けるように微笑まれたら、もう差し出されたものはすべて頬張るしかない。その様子を、セリは微笑ましそうに、戻ってきたファモリカは呆れ半分に見ているようだった。
「あの、アル様」
「なに?」
「あの、ヒゲの男の人は、このお屋敷で珈琲を飲んでもいいんですね」
それは、ふと思い出した香ばしい匂いに、思ったこと。魂だけの存在であるというラテと、屋敷の主であるアルだけが、この屋敷の中で飲み食いをしていいのだと、不思議なしきたりを聞いたところだったのに、と。
アルは目を二三度瞬いてから、柔らかく相好を崩した。照れた笑み、けれど、どこか冷たく寂しい——。
「ああ、あれはね、秘密」
「秘密? あ、すみません、尋ねてしまって」
「違う違う。ディス、あのヒゲ男はディスクス・ローデンというのだけど、奴には飲食の決まり事は特に言っていない。言う前に奴が破ってしまったから、っていうのが始まりなんだけどね」
けれど、それは始まりであって、それだけではないのだと。アルの目を一心に見つめていたラテにはわかってしまった。
ラテは直感的にそれ以上考えるのを止めた。
ディスクス・ローデンのことを考えるだけで、お腹の底がぐらぐらと煮えてくる。落ち着かず、心が引っかかれるようで、アルに差し出される果物さえ、思わず要らないと言ってしまいそうだ。
これは、きっと、嫌いというきもち。
嫌いな人。恐ろしいのではなくて、嫌いな。
そんな相手ができたのも、ラテにとっては生まれて初めてのことだった。




