#70
「――――ぬ?」
驚きすぎて変な声が出た。
俺と夏華はお互いを見つめたまま硬直していた。
やがて夏華がマグネットクラスターの力場に囚われたような緩慢な動作で、手にしていたシャツを胸元に引き寄せた。
その口が悲鳴を上げるかたちを作る。
それが引き金になり、電撃的に身体が動いた。
「ごごごごめんッ!!」
俺は回れ右をして部屋から飛び出した。
扉を背で押し込むようにして閉める。
遅れて心臓が暴れはじめた。やがて自分の言葉を反すうする。
――ごめん?
なぜごめんなのか? ここは俺の部屋だったから? いやそのことではない。
いけないものを見た、そんな気がしたからだ。
見えたのは背中だけ。
しかしそれがあまりに綺麗で、はっきり言ってしまうと色っぽかったからだ。
混乱したまま、俺は扉の前でトーテムポールと化していた。
しばらくして、中から声がした。
「た、盾くん。いいよ、入って……」
俺はおそるおそる扉を開けて、中を伺うようにしながら改めて部屋に上がる。
夏華はさっきまでとちがう柄のティーシャツに着替えていた。裾に半分隠れたショートパンツからほっそりとした脚が伸びている。
頬がほんのり赤い。
それがまた気まずかった。
「ご、ごめんね。ちょっと着替えようと思ったんだけど、あっちの部屋、クリスちゃんが寝てるから明かり点けたくなくて、その……」
「あぁ、おぅ……」
単純にタイミングが悪かったらしい。
俺も俺でまったく中を気にしようとしなかったのがまずかった。浮き足立っていたことを猛省する。
「申訳ない、です……」
「ううん、ボクのほうこそみんなの部屋で勝手にごめんね」
「あ、えっと……千亜は?」
「千亜ちゃん、さっきちょっとゲームコーナー見てくるって出ていっちゃった。ほら、お風呂場のほうの自販機の前に古いゲーム台とかあったところ。なんかあの寂れた感じがいい味出してるとかで……」
「ああ……」
なぜ肝心なときにいないのか。
いや、まあこの場にいたらいたでまずかった気もする。むしろ見られなくてよかった。
「あ、これ買ってきたやつ……」
「あ、ありがと……」
夏華にパックのイチゴ牛乳を手渡す。
だがそれでどうにかなるほど軽い空気ではなかった。
き、気まずい……。
その沈黙があまりに息苦しく、俺は追い詰められてひとりで限界までテンパった挙句、
「ごめん」
謝っていた。
「え、なにが?」
「や……その……。守れなくて」
夏華はきょとんとした。
夏華の、モルガンの猟機はさきほど撃破された。
とっさに繕った言葉ではない。
負い目を感じていたのは本当だった。
俺があのときイレイガを逃さず仕留めていれば、すくなくともモルガンが狙われることはなかった。止めを刺したのがCPUのボスガイストだとしても、一番大きな要因を作ったのはやつであり、それを許したのは俺だ。
俺は自分の戦いに酔っていただけで、それ以外のこと、たとえば仲間の安全といったことをどれくらい意識していただろうか。
言い訳にもならないが、俺は実のところ、あまりチームプレイというものが得意ではない。
やめる以前、俺がアイゼン・イェーガーで費やした時間の大半はデュエルバトルだった。チームバトルに参戦するようになったのはだいぶあとからだし、それも俺が自分から仲間と密に連携していたというよりは、駒のひとつとして体良く使われていたにすぎない。攻略をやる場合もソロが多かった。
仲間と一緒に戦う、仲間を守って戦う、そういうことに慣れていない。
結局、他人とのコミュニケーションが億劫だったからだ。
そういうところは現実でもゲームでも変わらない。
しかしそれが、こんなかたちで裏目に出るとは思わなかった。
「ううん」
だが、夏華は気にしていないように首を振った。
「シルトはイヨを、ボクらを守ってくれたよ。シルトがいなかったら、きっとみんなやられてたもん」
「……そんなことは」
逆にフォローされ、どう反応すればいいかわからなかった。
だが夏華は無邪気に笑ってくれる。
「もぉ、ゲームのことなんだからそんなに気にしないでよ」
「それはそうだけど……」
「でもほんと、シルトってあんなに強かったんだね。でも、それなのにレベルも機体のランクもすごく低いのはどういうことなの?」
「それは……なんていうか、中学の頃ずっとやってて……。ただ高校に入る前に、一度ぜんぶ、アカウントごと消したから」
言いながら、話していいのだろうか、と一瞬ためらいが生じた。
基本的には隠していることだ。以前、伊予森さんともそう約束した。周りでもちゃんと知っているのは伊予森さんくらいで、千亜やクリスもそのあたりの事情にはあまり興味がなさそうなので、改めて説明はしていない。
だが、いま隠すのは気がとがめた。
夏華は意外そうにした。
「え、それだけで?」
「……っていうか、それしかやってなかったというか」
「だとしても、すごいよ。なんだ、じゃあボクのほうがアイゼンでは後輩だね」
「あ、夏華……も、けっこうやってる人なんだっけ……?」
伊予森さんから聞いた話では、夏華もアイゼン・イェーガーは古参のプレイヤーとのことだった。
俺はとくにモルガンのことは知らなかったが、べつにおかしなことではない。そもそもプレイヤー数が多すぎるし、名前の目立ちやすい公式のデュエルマッチやチームマッチのランキング戦だって全プレイヤーがやっているわけではない。
「ボクは……そうだね。でも、シルトには負けるよ」
「いや、俺もいまはもうべつに――」
「よろしくね、センパイ」
夏華は俺をからかうように微笑んだ。
その言葉のくすぐったさといったら。
しかも夏華のまぶしい笑みで言われると、威力は三割増しだ。
頬がゆるんでしまいそうになるのをこらえ、俺は話題を変えようとした。
「そ、そういえばさ。ちょっと気になったんだけど」
「なに?」
「いや、大したことじゃないんだけど……あのとき、地上に落ちたあと再会したとき、変な感じがしたっていうか……。あの、夏華の猟機ってさ――」
そこまで言って、自分はなにを聞こうとしているのか不思議に思った。
俺はなにが言いたい?
夏華がなにか、隠しているとでもいうのか。
仮にそうだとして、常識的に考えて今日知り合ったばっかりの俺が詮索するものではないだろう。夏華だって俺のことをしつこくは聞いてこない。
「ご、ごめん。なんでもないっす……」
「えぇ、なに気になるよぅ」
「いやいやほんとなんでも! えっと……っていうかそれより、そう、あれのことなんだけど」
俺は誤魔化して話題を変えた。
「あれのこと?」
「ほら、夏華がその……今回が最後で会えなくなるって……あのこと」
口にした途端、夏華の表情がくもった。
「うん……」
「伊予森さんは……知ってるん、だよね?」
「……イヨには、黙ってて」
「え」
意外な発言に、俺は目を丸くした。
伊予森さんは知らない?
そんなことを、俺が知っていていいのだろうか。
「その……い、いいの?」
「うん。あの子は、普通の子だから」
普通?
言葉の意味がわからなかった。
すくなくとも俺のなかでは、伊予森さんは容姿的にも性格的にも「普通」からワンランク飛び抜けているという認識なのだが……。
「ねえ、シルト」
なぜか夏華は俺のことをアバター名で呼び続けながら、
「なに……?」
「もし、ボクのことを悪くいう人がいたら、信用しないでほしい」
「? それ、どういう……」
困惑した。
なにを危惧しての言葉なのか、すぐに理解できなかった。
「ボクのほうを信じて」
「それは……、うん、いいけど……」
「ありがとう」
これはなんのための会話なのか。
俺は妙に圧倒され、それが逆に俺に一時的な度胸をもたらした。
まだひとつ、べつの大きな疑問を抱えたままだった。
「あ、あの……」
「なに?」
いまなら聞ける。
さいわい、いまはふたりきりだ。
他の女子たちの前ではとても聞けない。もし間違っていたら、俺は確実に空気を凍りつかせる最低男になってしまう。
「な、夏華って――」
「まさか、男か女かなんて聞かないよね?」
「――――」
頭が空白に染まった。
まったくの不意打ちだった。
まさかの先手をとられ、俺の疑問の言葉は完全に封殺されてしまった。
「な、そんな……そんなわけ……」
「もう、そんなの決まってるでしょー? やめてよもぉ」
「じょ、冗談だってば。はは、は……」
結局どちらなのか。
それもわからないまま、俺は愛想笑いをするしかなかった。
*
ようやく千亜と伊予森さんが戻ってきて、俺たちはしばし飲み物片手に談笑した。
俺が適当に追加で買ってきていたチーズ鱈に千亜が妙に目を輝かせていたとき、伊予森さんがおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、あとなにやろっか?」
その発言に、千亜はぼんやりと小首をかしげている。
当然のごとく共同戦線イベントの続きをやるのだと思っていた反応だった。
夏華も同じように目をまたたかせている。
「街に戻ってほかのひとのデュエルバトルの観戦でもする? それともまたべつのクエスト受けて……」
「イヨ、なに言ってるの?」
夏華がさえぎるように言った。
その静謐とした声に、俺や千亜はぎょっとした。
伊予森さんだけが動じず、
「だって、夏華だけ除け者にしたくないもん。べつに〈オルクス〉はまたいつでも再挑戦できるし――」
「だめだよそんなの!」
突然、夏華が叫んだ。
その反応に全員が驚いた。
夏華も自分が声を上げたことに気づいたように口元をおさえた。
「……そ、それにさ。ザンノスケさんにもせっかく助けてもらったでしょ? ボクらがリタイアしたらちょっと申し訳ないし」
「それはそうかもけど……」
伊予森さんが意見を求めるように俺を見た。
だがまさにそれは、俺にとっても一番後ろめたい部分だった。
一期一会かもしれないとはいえ、とくに身を呈して救ってもらった俺としては、行けるところまではいきたいのも本心だった。
「でも、それだと夏華が……」
「ボクのことはいいから」
夏華は頑なだった。
「それに……実はボクちょっと調子良くなくて」
「え、ほんとに? 大丈夫?」
伊予森さんの顔色が変わる。
夏華は身振りで平気だとアピールし、
「うん、たいしたことはないから。ボクのことはほんといいからさ、みんなで続き挑戦してよ。せっかくのチャンスなんだから」
「……うん」
最終的に、伊予森さんはうなずいた。
今日は先に休んでるね。おやすみ、と言って、夏華は一足先に女子部屋へと戻っていった。
残された俺たちは戸惑いの空気のなか、置かれた人数分のVHMDを見つめた。
「まあ、夏華がああいうなら……」
伊予森さんは俺たちを、というよりは自分を納得させるように言った。
「……自分は、どっちでも」
千亜が一応の意見を口にする。
「うん、まあできるとこまでは」
俺もフォローのつもりでそう言った。
半分は本音も込めながら。
それがわかったのか、伊予森さんは肩の力を抜くように表情をゆるめた。
「うん。じゃあ……〈オルクス〉攻略の旅、再開だよ!」
お、おーというふぬけた俺と千亜の掛け声が、八畳一間の部屋に小さく反響した。
こうして俺たちは、再びアイゼン・イェーガーの世界にログインした。




