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アイゼン・イェーガー  作者: 来生直紀
EP05/ 第5話 静かの海
70/93

#69

 どれくらい固まっていただろうか。

 数秒か、二十秒くらいか。

 時間の感覚すら失った。

 それほどの衝撃が、俺のシャツのすそをつかんだ伊予森さんの指先にも、その口から発せられた言葉にもあった。

 なぜ、という最初の段階で俺の思考は止まっていた。

 疑問以外の感情が沸いてこない。

 やがて氷と溶けるようにゆっくりと、そこになにかの感情が帯びているのかもしれないと俺の凡人並みの知能が思い至り――余計に混乱にした。

「ど、どうしたの……」

 かろうじてそれだけを口にした。

 ばくんばくん、と心臓が身体の裡で暴れている。

 耳の後ろにながれる血流の音は痛いほどにうるさかった。

 あきらかに普段とは様子のちがう伊予森さんが、視線を地面に落としたまま、ぽつりとつぶやく。  

「だから……」

「は、はい……」 

 一言たりとも聞き逃してはならない。

 そう自分に厳命し、俺はただじっと、続く言葉を待った。

 伊予森さんの桃色の唇が、かすかに震えた。

「…………く」

 く?


「暗いから!!」


 しんっ、と世界から音が消えた。

 その瞬間のことを、俺は生涯忘れないだろう。

 唖然とした。

 伊予森さんは妙に慌てふためきながら、

「そ、そう! あのね、暗いから怖くて、それでちょっと……」

「あ、ああ……」

 全身の硬直が解除されていく。

 それにしたがって、心臓や血脈の音もしだいに鳴りをひそみはじめた。

 死ぬほど、びびった。

 そういうことか。

 そういえば伊予森さんは暗いところが苦手だったな、と俺は思い出した。

 アイゼン・イェーガーのなかでも、この前のテーマパークのお化け屋敷でもそうだ。

 夜道とはいえ、月明かりと星のおかげでそれほど暗いということはなかったのだが、苦手な人には同じなのかもしれない。気づかなくて逆に申し訳ないとさえ思った。 

 ほっとしたような、がっかりしたような。

 いや、当然か。

 いったいなにを期待したのか? 勘違いにもほどがある。

「ごめん。なんでもない。気にしないで……ごめん」

 伊予森さんはうつむいたまま、そう繰り返した。

 その様子があまりに気の毒な感じがしたので、俺はつい、

「じゃ、じゃあそのままでも、俺はべつに……」

「え?」

 俺は目線で、シャツの裾を握った伊予森さんの指を指した。

 言ってから、引かれないかと不安になる。

 だが伊予森さんは、こくり、と控えめにうなずいた。



 弱々しい力を牽引しながら、俺たちはコンビニへの道をまた歩き始めた。

 伊予森さんはめっきり口数が減っていた。 

 この状況は、やはりまだ現実感に乏しい。

 いつもとはちがう場所で、いつもとはちがう伊予森さんがそこにいて。

 遠くにコンビニの文明的な明かりが見えてきた。

 それだけがかろうじて、現実とつながった手がかりのような気がした。

 そこで伊予森さんがようやく口を開き、

「――遠野くんってさ、友達付き合いって、苦手なほう?」

 あまりにいまさらなことを聞かれた。

「それは、まあ。友達っていうか……。他人がそもそも、苦手かも」

 はは、と伊予森さんが笑う。

 ギャグのように聞こえるが、俺とってはなにもギャグではない。

「わたしもだよ。わたしも、ちゃんと友達つくるのって、あんまり得意じゃなくて」

「え? まさか……」

 意外すぎる発言だった。

 俺の対極にいるような伊予森さんに限ってそんなことは、と思った。 

「仲いい子はいるけど、なんだろう……そこまで親友っていう子はいないっていうか、なんでも話せるような友達って、考えたらいないかなって。……あと、うち親もすこし厳しいから、それでわたしのほうから気を遣っちゃうのかも」

 最後のは非常に納得した。

 あのドンから、よく今回の旅行を許してもらえた。

 もし伊予森さんになにかあったら、俺はまず生きてはいられまい。そう思うと、ここにいる女の子を核兵器並に丁重に扱わなければならぬという決死の使命感が湧き上がってくる。

「それに、男の子はちょっと……苦手だし」

「……成瀬は?」

「晴? 晴は……べつに。だれとでも仲いいだけだから」

 なるほど。

「でもね。遠野くんは、例外だよ」

「そう……なんだ」

 会話の出口がわからず、俺はただ相槌を打つだけだった。

 俺は例外。

 男子としては、例外。

 それはいいことなのか、果たして――

「だってさ、最初はゲームのなかで存在を知った人で、知り合いになりたいなって思った人で、その人がこんな近くにいたんだもん。まるで……」

 伊予森さんはそこですこしためらい、俺を振り向かせた。

「い、いまからちょっと恥ずかしいこと言うけど、笑わないでよ?」

「? は、はい」

 伊予森さんは不思議な予防線を張った。そして、

「――ちょっとだけ、その、運命的みたいな……」

 被弾した。

 まさしくだった。

 聞いた俺の頬も熱くなる。顔に出たかもしれない。

 案の定、伊予森さんは抗議するように俺の服を強く引っ張った。

「い、いま恥ずかしいなこいつって思ったでしょ……」

「やっ、け、決して……!」

 本土から遠く離れた島の、その海沿いの夜道でふたり揃って顔を赤くしている。いったいなにをしているのか。本当に奇妙な夜だった。

「あのとき、最初、遠野くんに断られたでしょ?」

「? えっと……」

「ほら、黒の竜を倒してほしいって話」 

「あ、そうだっけ……」

「そうだよ」

 そうだった。

 俺は一度、彼女の依頼から逃げ出したのだった。

 伊予森さんに対して、強い劣等感があった。だから避けた。

「あのときは、ちょっとショックだったな……」

「すみません……」

 過去のこととはいえ、申し訳なかった。

 俺はいつも自分のことで精一杯だ。

 たぶん、そういうところが成瀬のような自然体で人を寄せ付ける人間と、致命的にちがうところなのだろう。

「でもそのあとで、遠野くんはあいつを倒すって言ってくれた」

「まあ、でも、それは……」

 伊予森さんが、俺を呼んでくれたから。

 それが一番の理由だ。

 そうでければ、俺はなにも変わらなかっただろう。

 俺が自分で決めたことは、ほんのすこししかない。

「あのとき、すごく嬉しかった。……ちょっと、泣いちゃいそうになるくらい」

「大げさな……」

「大げさじゃないよ。ほんとだよ。だから……」

 だから。

 その続きに、俺は息も止めて耳をすませた。

「……こ、これからもよろしくね!」

「あ、うん……」

 俺はふたたび脱力した。

 なんだか拍子抜けししつも、不思議な活力が身体に満ちるのを感じた。

 悪くない。

 というか、素直に嬉しかった。

 ちゃんと俺でも、だれかに友達として認めてもらえている。

 それがわかっただけで俺には十分すぎた。

「ねぇ、あのとき、ちょっと怒ってなかった?」

「え?」

「あいつと戦いにいったとき」

「あいつって……イレイガ?」

 伊予森さんがうなずく。

「だって遠野くん……シルトはゲームのなかだとけっこう冷静で余裕あるのに、あのときはなんかちょっと、切羽詰ってる感じがしたから」

 言われてみて気づいた。

 たしかに、そうかもしれない。

 あのとき俺は――イラついていた。

 一刻も早くイレイガと戦いにいきたいという気分だった。

 一秒でも早く、力の差を見せつけぶちのめしてやりたい。そういう黒々とした感情が俺のなかに渦巻いていた。

 いま考えると、我ながら珍しいことだったかもしれない。

「うん、ちょっとムカついてたのかも……。なんで、わかったの?」

「わかるよ。だっていつもみ……――」

 声が尻すぼみになり、続きはよく聞き取れなかった。  

「で、でもっ、なんで?」

「え?」

「なんで、怒ってたの……?」

 そう逆に聞き返された。

 俺は改めて、自分に問い返してみる。

 すると驚くほどに、単純明快な理由が見つかった。

「それはイヨが……伊予森さんがやられて、嫌だったから……」

 誤魔化す理由もなかったので、思ったままのことを口にした。

「腹が立ったっていうか、あいつを自分の手で倒したくなったっていうか……」

「そっ、か……」

「うん……」

「なんか……嬉しいかも」

「え――」

 そのとき、俺の小指と薬指にやわからな感触が触れた。 

「!?」

 伊予森さんがティーシャツのすそをつまんでいた手を離し、俺の手を遠慮がちに握っていた。

 いや、手を握るというほどではない。

 指同士がほんのすこし絡む程度。

 それでも俺は、指先から伝わる同い年の女の子の感触に、雷撃に貫かれたような衝撃を受けていた。

「お礼の握手……みたいな」

 伊予森さんははにかみながら、しっとりと微笑んだ。

 その破壊力たるや。

 重力砲以上の兵器に撃ち抜かれ、俺は役立たずのでくのぼうと化した。

「――――あっ、あざ、ざっす……」

 店に着くまで、ほんのすこしの間だったけれど、伊予森さんは俺の指を握っていた。コンビニが近くにあることをこれほど呪ったことはなかった。大学生になったらドミナント戦略の害悪性について、という論文を書こうと俺は誓った。 

 今がすこしでも永遠でありますように、と心の中で祈りながら。


 *


 買い物袋を手に、俺たちは旅館に戻ってきた。

 さき戻ってて、と伊予森さんから言われたので、俺はみんなの分の食料と飲み物を手に部屋に向かった。

 まだ夢の続きのようだった。

 来てよかったな、と改めて今回の旅行について喜びを噛み締める。

 ふわふわした足取りのまま、ルームナンバーを目で追って部屋に戻り、ドアを開けた。

 人の背中が目に入った。

 なめらかで綺麗な肌で、健康的な小麦色をしていた。

 なぜそれがわかったかというと、そこに立っていた夏華は、上半身になにも服を着ていなかったからで。


「え?」


 夏華と目が合い、俺はその場で凍りついた。



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