#51
「ほら、その調子。うん上手上手」
「シルトさん、がんばです。水はこわくないですっ」
「ぷ、ぷぷっ……!」
――なんたることだろう。
浜辺から二十メートルも進んでいない浅~~い海で、俺は女子たち(※小学生含む)から、直々に水泳の指導を受けていた。
伊予森さんが俺の手をつかんで引っ張っている。
クリスが俺の腹を指先で下から支えている。
千亜はそれを嘲笑のまなざしで見つめている。
俺は女子たちの助けを得ながら全力で泳ぎを――犬掻きを続けていた。
手足が疲れる。息が苦しい。耳や鼻から水が入ってくる。
俺には不思議でたまらない。
なぜだ?
なぜこんなに大変なことを、みんなは平然とできるのか?
伊予森さんは難儀そうに眉をひそめた。
「うーん、遠野くん、足曲がりすぎかなぁ。もっと伸ばして水面でバタ足しないと、前に進まないよ?」
「で、でもっ、沈むっ」
「沈まないってば、人間は」
「いやっ、だって現にっ」
「あの、ビート板借してもらえるか、わたし聞いてきますか?」
「……いや、それは、大丈夫」
「クリスちゃん、わたしそっち抑えるからこっちお願いしていい?」
「はーい」
クリスが伊予森さんと位置を交代して、俺の両手をつかんだ。
にっこりと無邪気な笑みを浮かべて、クリスは「さっきよりいい感じです!」と俺を勇気づけようとしてくれている。
屈辱――
……というほどのプライドもさして持ち合わせていないが、すくなくとも格好よくはないだろう。
わざわざ南の島にまで来て、いったいなにをやっているのか。
そもそも海水浴なんていうものは水や浜辺ときゃっきゃうふふ的に戯れることが本質なのであって、本気の水泳能力など必要あるのだろうか?
「言い訳……」
ボソッと千亜がつぶやいた。
俺がにらみを効かせると、千亜はすいすいと泳いで逃げていった。
この海上でそれを捕まえる術は、俺にはない。
伊予森さんとクリスは普通に泳げているし、それ以上に意外だったのは、千亜が水泳は得意だったということだ。息も長く続くらしく、まるで小魚のようにすいすいと水中を進んでいた。
途端、頭がなにかにぶつかった。
非常にやわらかな感触だった。
「わっ」
気づくと、クリスの胸の下に頭を突っ込んでいた。
余所見をしていたせいだ。
「ご、ごめん!」
「ううん、だいじょうぶです。わたしもちょっとぼぅっとしてました」
クリスはすこし頬を上気させながらも微笑んだ。そこで俺と指を絡ませたままのことに気づき、慌てて離した。
その反応に、俺もどぎまぎしてしまう。
「あ……ありがとうね、わざわざ俺のために――いだっ!?」
腹に鋭い痛みが走った。
つねられたような感触に驚き、横に浮いた伊予森さんの方を見た。
「い、伊予森さん?」
「うん? どうかした?」
「……い、いまなにか、チクっと」
「クラゲじゃない?」
「…………そ、そうですね」
怖いくらいに完璧なスマイルを前に、俺は閉口するしかない。
そのとき、それまで遠巻きにこちらを見ていた千亜が、俺のところにすーっとやって来て、
「……沈むのは、肺に空気をためてないから」
ぼそりと言った。
「え、そうなの?」
「まず、大きく息吸う。あと、頭を持ち上げるからお尻が沈む。……これ、当たり前のこと」
とりあえず、俺は言われたとおりにしてみた。
大きく息を吐き、そして吸って止める。
その状態で、思い切って顔を水面に付けて、身体を伸ばしてみた。
すると、意外なほど簡単にバランスが取れた。そのままバタ足でキックすると、身体が前へと進みはじめた。
息が続かなかったのですぐに止まってしまったが、いま一瞬だが、確実に泳げていた。
「お、おぉ……!」
「……ほら」
千亜はほんのすこしだけ、得意げな顔をした。
伊予森さんとクリスは、ぽかんとしている。
まさかこんなコツがあったなんて。さきほどまでの侮辱も忘れ、俺は素直に千亜に感謝したかった。
「あ、ありがと。千亜」
「……ほわっ」
千亜はへんな声を出して、いきなり水中にもぐってしまった。
「――と、遠野くんさ! ちょっと真剣さが足りなかったんじゃないかな」
なぜか伊予森さんの声は、むすっとしていた。
「そんなことは……ないですが」
「とにかく、これじゃ埒があかないし。ふたりにも申し訳ないし、わ、わたしが専属で特訓してあげるから」
犬掻き状態で浮いている俺の右腕を、伊予森さんがぐいっと引っ張った。
待って、片腕だけはやめて――
だがさらに、クリスが俺の左腕を別方向に引っ張った。
「そ……それならわたしがやりますっ! わたし、体育は一年生のときからずっと『よくできました』です! なので任せてくださいっ」
いやクリス、手を奪わないで――
両手を取られ犬掻きもできず、しかも肺の空気を吐き出してしまったため、身体が海に沈みはじめた。口と鼻に大量の海水が流れ込む。
「がふっ!? ちょっと、ふたりとも手離し――」
そのとき、俺の背後の水面から千亜が頭を出した。
「……自分が、ゃる。たぶん、一番効率的……」
千亜は水中で、俺の海パンのすそを引っ張っていた。
「げっほ! おいやめっ、気になって泳げな――」
ふたりは遊んできていいから!
いえ、シルトさんはわたしに!
……ど、どっちも非効率……。
あれやこれや。
女子三人は、カナヅチの俺を囲んでなにやら白熱している。本来なら女子に囲まれ嬉しいはずの状況が、俺には恐怖でしかなかった。
肺に残っていた最後の空気を海水とともに吐き出し、そこで俺は限界に達した。
もう、だめだ……――
ぶくぶくと水面に泡を残し、俺の視界は海水に覆われた。
――そういえば、猟機も水には沈むもんな……。
遠のく意識のなか、俺はそんな場違いなことを考えていた。
*
「はい、焼きそば」
ビキニの上からパーカーを羽織った伊予森さんが、パラソルの下へ戻ってきた。
差し出された焼きそばのパックを受け取る。まだ温かい。
「ありがと……」
かろうじて俺は水死体になることを免れ、休憩のためビーチへと戻ってきた。
「落ち着いた?」
「うん、平気だよ」
「さっきは、ほんとごめんね。みんなで引っ張りまわしちゃって……」
「いや……。まあ俺が泳げないのが、そもそものアレだし」
結局、泳げるというレベルには到達しなかった。
それでも三人のおかげで多少進歩が見えたので、今回はそれで十分だと思う。
伊予森さんが俺のとなりに腰を下ろした。なにかのボトルを手にしている。
「それは?」
「あ、サンオイル」
「ああ……」
漫画やアニメではおなじみのアレか。
まず初めに二次元の存在を思い浮かべてしまったが、どうやらちゃんと実在するものだったらしい。
「……もう、塗ってきたんだけど」
なぜか、伊予森さんは聞いてもいないのに答えた。
「え? ああ、うん」
それは、そうなのだろう。日に当たる前に使わないと意味がない。あんな二次元的イベントと現実は無縁である。
「なんだけど……。こまめに塗りなおしたほうが、いいっぽくて」
「……そう、なんだ」
会話の方向が見えず、俺は困惑した。
伊予森さんはなぜかすこし黙り込んだあと、パーカーをはらりと脱いだ。
なめらかな肩の柔肌が目の前にあらわになる。
俺は焼きそばをすすった姿勢のまま、硬直した。
伊予森さんの手は、わずかに震えていた。
「も、もし、嫌じゃなかったら――」
「どうしたんですか?」
飲み物を手にしたクリスと千亜が、うしろに立っていた。
口から焼きそばが吹き出た。
「……き、きたなっ」
千亜が俺からさっと距離をとった。クリスはびっくりして目を丸くしている。
「大丈夫……ですか?」
「んんっ……! いや、ぜんぜん、なんでも」
「ふ、ふたりとも、早かったね?」
伊予森さんもすこし慌てて、脱ぎかけていたパーカーを着直した。
いま、なにか。
とてもデンジャランスなことを言われかけていた気がするが……。ふ、深く気にしないほうがいい気がする。いまこの場では。
「楓さん、シルトさん。あっちでなにかやってるみたいです」
「……イベント、かも」
「へぇ、そうなんだ」
「じゃ、じゃああとで、みんなで行ってみよっか」
「うん」
しばし軽食をとりながら休憩した後、俺たちはその会場へと足を運んだ。
ビーチの一角に、沢山の人間が集まっていた。
俺たちはビーチの端っこに陣取っていたので気づかなかったが、大きなメインステージを中心に、いくつかのブースが設置されていた。
砂浜に突き立てられたのぼりに書かれた文字を、目で追った。
「『夏よ恋よ燃え上がれ 第42回サマービーチカップルコンテスト』……?」
「『飛び込みエントリー大歓迎』、だって」
「なんか楽しそうです」
「……り、リア充の波動を感じる……」
伊予森さん、クリス、千亜はそれぞれ異なるリアクションをとっていたが、会場は盛り上がっていた。
どうやら、カップル限定でさまざまな競技を行うものらしい。
司会者らしきアロハシャツ姿の男が、マイクを手にその場にいる海水浴客たちの参加を声高に求めていた。
近くで配られていたチラシを受け取ってきた伊予森さんが、なにかに気づいた。
「……すごい! 優勝商品は一番いいやつで海外旅行のペアチケットだって! ……し、か、も……それぞれの参加競技ごとに商品が出るから、何回もチャンスがあるみたい」
「へぇ」
俺はすでに他人事の気分だった。
たしかに商品は魅力的かもしれないが、俺たちは根本的な参加条件を満たしていないからだ。
「そっかぁ。まあ残念だけど――」
「あ! 見て見て、『参加者はカップル、もしくはカップルになりたい男女でもOK』……だって!」
「うわぁ、なんかステキです」
「け、軽薄っ……」
クリスはピュアにときめき、千亜は恐怖に慄いていた。
気持ちはわかる。さすがリア充たちの世界は格がちがうようだ。
「じゃあ、遠野くん。よろしくね」
「――え?」
俺はぽかんとした。
伊予森さんの瞳はすでにやる気に満ちていた。
「当然でしょ。だって、男の子は遠野くんしかいないんだし」
「それは、そうだけど。……いや、っていうか、カップルでもないし、その」
なりたくない、わけではないが。
――だれと?
まさか、それをいま、ここで表明しろということか?
俺は金縛り状態で言葉に詰まった。
そんな俺を、伊予森さんはきょとんと見つめていた。
「? もぉ、遠野くん真面目に考えすぎだよ。こういうのは、ノリでいいんだってば。べつに証明しろって話じゃないし。っていうかたぶん、競技ごとにちがうペアで出ても大丈夫だと思う」
「あ……そういうこと」
「じゃあまずは……。あ! あっち行ってみよう」
伊予森さんが指さした先。
そのブースに掲げられた横断幕には次のように書かれていた。
『 彼女を導け漢たち クイズ&スイカ割りタイムトライアル! 』




