#50
息を吸い込むと、潮の匂いが鼻腔に抜けた。
俺はフェリーのデッキに出て、生ぬるい海風に吹かれていた。
下を見下れば、白い波を泡出たせて船首が海面を切り裂いて進んでいる。上を見れば、絵の具で塗ったような群青色の空が、どこまでも広がっている。
快晴に快温。
この場にずっといてもいいほど心地よかった。
「来てしまった……」
無意識のつぶやきが漏れたとき、背後から声がかかった。
「――どうしたの?」
振り返る。
そこに白いワンピース姿の伊予森さんがいた。
実に、非現実的だった。
幻想的といっても言い過ぎではない。
だがいま俺たちが船上の人になっていることも、伊予森さんの普段のさらに三割増しの美少女っぷりも、たしかに現実のものである。
伊予森さんはつばの広い帽子を押さえながら、俺のとなりに来て手すりにつかまった。
「もしかして、酔った?」
「いや、俺は大丈夫。千亜は?」
「まだダメみたい。いまクリスちゃんと一緒に、ちょっとお昼寝中」
「そっか」
俺は自然と、ふたりの寝姿を想像した。
俺、伊予森さん、千亜、そしてクリスの四人は、観光地である島を目指してこのフェリーに乗船していた。数時間の船旅なので、暇つぶしにさきほどまではみんなで船内でトランプなどしていたのだが、千亜が酷い船酔いを起こしてダウンしてしまったので、しばし自由行動で休憩をとることになった。千亜は大富豪でさんざん大貧民の俺を虐げ続けたので、それの報いかもしれない。
……まあ、一輪車に引かれて数ヶ月入院するような少女である。
船酔い程度で済むならまだマシと考えるべきか。
「遠野くんは、ぜんぜん平気そうだね」
「まあ……乗り物で酔ったことはないから」
「そうなんだ? 前から?」
「うん。生まれつきっていうか……」
普段はあまり意識することもないが、そういえば俺の数少ない特技(とえ言えるかは微妙だが)だった。これまで得をしたと感じたのは、せいぜい学校の遠足や旅行で長時間バスに乗っても酔わないで済む、ということくらいだったが。
「ワクワクするね」
「ああ、うん」
「……あれ、なんかテンション低いぞ」
「いや、ただ、緊張してるだけ」
「えぇ、なんで~? 遊びにきてるのに」
俺の答えに、伊予森さんはおかしそうに笑った。
普通の人ならそうだろう。だが人間、だれだって慣れないことは緊張するものである。それに男は俺だけだし。
「――でも、これてよかった」
俺は素直にそう口にした。
今年はようやく、夏休みらしいイベントを経験することができそうだ。
それも伊予森さんのおかげだった。
「そ、そう言ってもらえると、嬉しいな……」
「え……。あ、うん、それは」
伊予森さんの妙にしおらしい態度に、俺も気恥ずかしくなる。
そのとき、ばさりと間近で音がした。
「ひゃっ!」
驚いてよろめいた伊予森さんが、俺の胸に飛び込んできた。
抱きとめて顔を上げると、鳥の群れが船と平行するように飛んでいた。死角から急に現れたのでびっくりしたらしい。
だが俺にとっては、たかが鳥類より、密着した伊予森さんの方が遥かに驚異だった。
胸越しに伝わる生々しい体温と重さに、心臓が跳ね上がる。
「おっ、おっ、うぉ?」
「あ、ウミネコだ」
伊予森さんはすぐに気づき、一転して笑顔を浮かべて、ウミネコの群れを視線で追った。一方の俺はといえば、すぐには鼓動が収まらない。
「ねぇ遠野くんカメラ持って……って、なんで固まってるの? べつに、ウミネコは襲ってきたりしないから、大丈夫だよ」
「そ……それは、なにより」
まさにこういうことが、緊張の種なのである。
落ち着け、と俺は自分に言い聞かせた。
「そ、そういえば、どうして今回ここなんだっけ?」
場を持たせるため、俺は適当なことを口にした。
今回、旅行先を提案したのは伊予森さんだった。南の島としては定番の場所ではあるが、ほとんど最初から決めていたような感じだった。俺や千亜たちも特に異存もないので、すんなりの決まったのだが。
「ふふ、それはねぇ……。まあ、いまは内緒」
「え?」
「大丈夫だってば。ちゃんと計画してるから、楽しみにしてて」
なにやら伊予森さんは、悪戯っぽく目を細めて微笑んだ。
数時間ほど経ち、ようやくフェリーは港へと到着した。
降り立つと、まるで異国の地のように感じるほどの熱と匂いを感じた。
「暑い……しぬぅ……」
荷物を抱えながら、千亜がゾンビのようにうめいていた。
「そんなに暑い?」
「……自分、摂氏22度から24度の範囲内でしか、い、生きられなぃ」
「どんだけ温室育ちだよ」
「うわぁ、すっごく気持ちいいですね!」
負のオーラをまとった千亜とは対照的に、クリスは目いっぱい身体を伸ばしていた。まぶしい日差しを受けて、ブロンドがきらびやかに光っている。
「じゃあ、まずは……」
俺は女子たちに向けて聞いた。
一泊なのでそれほど荷物が多いわけではないが、とりあえず宿泊場所に行くのか、それともどこかで昼飯にするのか。
「ふふ、決まってるでしょ」
伊予森さんは自信たっぷりの表情で、ずばり答えた。
それはクリスの目を輝かせ、千亜の顔を青ざめさせた。
「泳ごっか!」
*
白い浜辺に、ゆったりとした周期で波が押し寄せている。
空も海も地面もすべてが大きい。足裏に張りつく砂の感触やまぶしい日差しなど、どれも俺にとっては非日常そのものだった。
俺たちがやって来た最寄の海水浴場は賑やかだった。
やはり夏休みシーズンということもあって人が多い。あちこちにパラソルやテントが並び、海の家も多く建っていて、どこも盛況だった。
伊予森さんたちといったん別れた俺は、一足先に新調した海パンに着替えて、シートとパラソルを設置しつつ女子たちが来るのを待っていた。
男とはちがって、女子は時間がかかる。
俺はふと、周りを見渡した。
行きかう男、女、子供、外人、みな当たり前だが水着姿だ。
若い男はマッチョで黒々とした身体つきの連中もそこら中にいた。途端、俺は自分の貧相な肉体が気になり、なんだかいたたまれなくなる。実は今日に備えて密かに筋トレなどをしていたのだが、数日程度で目に見える成果が出るはずもない。
そういうわけで、一目でインドア野郎だと生白い男がひとり、こうしてぽつんと佇んでいるのである。
それはともかく――
緊張の一瞬だ。
変に意識しないほうがいい。と、ずっと自分には言い聞かせているのだが、最初に伊予森さんに誘われた瞬間から妄想していた状況に、自分がいまいるのだと思うと、どうしても落ち着かなかった。
いっそ心の準備が出来るまで来ないでほしいとさえ思った、そのとき。
「――お、お待たせ」
声のほうに無理向くと、目の前に着替え終わった三人が現れた。
まず、伊予森さんだ。
深い青色のビキニ姿だった。片腕を抱き、すこし恥らうように視線を斜め下に落としている。
まず目を奪われたのは、その女の子特有のボディラインだ。
ボリュームのある胸元から、きゅっとウェストが細まり、腰まわりの丸みを描いてほどよい肉つきの脚へと線が続いている。その一方で、小さな肩や狭い腰幅には十代の少女らしい未成熟さが残っていて、それらが組み合わさることで、いまこの瞬間にしか存在し得ないと思うほどの希少な美しさを感じた。
その肌はミルク色というのか、健康的な乳白色で、わずかでも傷や汚れをつけることは許されないと思わせるほどに滑らかだ。
ふんわりとウェーブのかかった髪先が、肩や首元、そして胸の上にかかっている。浜風に揺れる髪に飾られることで、単なる色気以上の可憐さや気品をただよわせていた。
そして自然と深い谷間を作ってしまうサイズの双つの丸みが、水着を内側からぐいっと押し上げていた。その迫力のせいかより露出度が高く見える。
鎖骨、胸、へそ、ふともも、足首――
どこをとっても、非のうちどころがない。
至極当然のことでは、あるが。
俺はそのとき初めて彼女の身体を、その輪郭がはっきりとわかるかたちで目の当たりにした。だからこそ、想像を越える生の肉体に目を奪われてしまっていた。
「ど、どうかな……」
「 」
言葉が出ない。
完全に見惚れてしまっていた。
「と、遠野くん? そんなに、見られると……あの」
「……!? ご、ごめっ、ど、土下座します……」
「そこまでじゃないけど……どう?」
「か……完璧な、ビルディングかと」
「えぇ、それどういう意味?」
「じゃない、とにかく、とても……き、綺麗なんじゃ、ないでしょうか……」
しどろもどろになりながら口にすると、伊予森さんはようやくほっとしたように、朗らかな笑みを浮かべた。
「あ、あのぅ、わたしは……」
続いてクリスがおずおずとした足取りで、一歩こちらに近寄った。
クリスの方もセパレート水着だった。トップスは水色基調のボーダー柄で、ビキニほど露出は多くない。ただやはりサイズ的な必然の産物として、深い谷間が覗いている。
むしろビキニよりも窮屈そうな見栄えなのは、水着のせいかその発育のせいか。そして下はホットパンツ状のボトムスという組み合わせだった。
長いブロンドの髪は邪魔になるからだろう、お団子状に結ってアップにしていた。はじめて見るが、それはそれで非常に愛くるしい。
伊予森さんとはまたすこしちがう意味で、スタイルのよさが際立っていた。
モデルのよう、と言うのが適切か。とにかく手足がすらりと伸びていて、頭が小さく、腰の位置が高い。普段でもその発育の良さは一見してわかるものの、いまは主張の激しい胸の膨らみも合わさって、子供離れというか日本人離れしたものになっていた。
伊予森さんと並んでも立ったとしても、甲乙つけがたい。
美少女JK×2にしか見えないところが、改めてクリスのすごいところである。
「へ、へんですか?」
「いやまったくすばらし――し、自然だと思うよ。うん、似合ってる、かと」
「やったぁ、シルトさんに褒められました!」
クリスは心配事だったのか、伊予森さんによしよしと頭を撫でられていた。
似合っているのはもちろん真実だが、ちょっとまずいかなと俺は懸念した。
なにがまずいかというと、周りの視線がだ。
すでに周囲の男が、チラチラとふたりを盗み見ていた。
いや片方は小学生だから! と言って追い払ってやりたいが、それはそれでべつの問題を起こしそうな気がする。
「…………んが」
小動物めいたうめき声で、俺はもうひとりの存在を思い出した。
ふたりのうしろに隠れるようにして佇んでいた千亜も、ちゃんと水着姿だった。
チェック柄のワンピースで、ややロリータ風味のその水着は、ぱっと見では涼しげな夏服のようだった(それにしては丈が短いが)。
胸元にはワンポイントのリボンが飾られていて、洋風の人形のような可愛らしさを前面に出していた。だが千亜が俺の視線から逃げるように背を向けたため、意外と大胆に開いた背中をもろに見てしまった。
ギャップに不意を突かれ、ドキリとする。
さらにこうして水着姿を見てはじめてわかったが、(意外にも)くびれははっきりとしていた。他のふたりほど女性らしい発育はまだ遂げていないものの、決してプロポーションが悪いわけではない。
むしろ、小柄な千亜に可愛らしいデザインの水着はとてもよく似合っていたし、ふたりとはちがう魅力を秘めているように感じた。あと濡れるので短いツインテールにして髪を上げているのも、その水着姿を引き立てていた。
……胸はふたりに比べると、だいぶ控えめだが。
等々。
思うことは沢山あったが、もちろんなにひとつ口には出せない。
――が、顔には多少出ていたらしい。
「なに」
気づくと、千亜がやや険悪な目つきで俺を見ていた。
俺はやましい気持ちを悟られないよう、慎重に言葉を選んだ。
「えっと……安心、いや、安全かなって」
「……!? し、失礼……! 非常に、失礼っ」
「な、なんで?」
なぜか千亜を憤慨させてしまい、俺はうろたえた。
「いや、千亜も似合ってるよ。ほんと、他意はないので」
「……くぅ」
どこか納得いかなそうに千亜はうめいた。
だがノリノリの伊予森さんに腕を引かれて、三人は俺が敷いていたシートにタオルなどの荷物を置くなり、波打ち際へとダッシュした。
「じゃあいこっ!」
「うん、いってらっしゃい」
『……?』
俺はなるべく自然な笑顔を作って、伊予森さんたちに手を振った。
だが、それでは誤魔化せなかったらしい。
三人が立ち止まる。不思議そうな視線が、俺に集まった。
「遠野くん、どうしたの?」
「いや、大丈夫。だから、俺のことは気にしないで」
「大丈夫って……なにが?」
「いや、まあ、とにかく」
言葉に詰まる俺に、三人は探偵のような視線を向けた。
暑さとはちがう理由で、俺のこめかみにじわりと汗が浮かんだ。
やがて三人の頭上に、電球マークが灯る。
「遠野くん、もしかして……」
「え、そうなんですか?」
「……うわぁ」
反応は三者三様。
だが、言いたいことはみな同じだろう。
……こうなったら、仕方ない。
そうだ。こういうときは卑屈になるよりもむしろ堂々としていたほうが格好がつくのである。つくかもしれない。ついたらいいな。
覚悟を決めた。
俺はできるだけ何事でもないように、胸を張って言った。
「泳げないですけど、なにか?」
えぇ~~~!? と三人は天に届きそうな声を上げた。




