#02
どうやって帰ったのか、あまり覚えていない。
玄関の扉を開け、靴を脱ぎ、ふらふらとリビングに入った。
「あ、おかえり兄貴」
声をかけてきたのは、ソファーで寝転がっている弟の篤士だ。
俺は無言のまま台所に行き、冷蔵庫を開ける。
「どうしたの? なんかニフラムで消えそうな顔してるよ」
「ほっとけ……」
コップに牛乳を注ぐ。一気に飲み干す。新鮮な冷たさが身体に染みていく。
大きく息をついて、頭をからっぽにする。
なにかが引っかかった。
「おい、どういう意味だそれ」
篤士の聞き捨てならない言葉が、俺を現実へと引き戻してくれた。
「え? なにが」
弟はノリと直感で生きているような人間だ。とぼけているのではなく、数秒前に自分が言ったことも覚えていないにちがいない。
とはいえ、こいつはこいつで有能なのにちがいはない。少なくとも俺よりは。
「元気なさそうだったから。まぁ、いつものことだけど」
「べつに、そういうわけじゃ……」
「兄さん。大丈夫ですか」
教科書とノートを小脇に抱えた詩歩が、二階から降りて来た。
篤士と同じく中学二年生。一言で言って、才女だ。
「おまえまで……。だから、なんでもないって」
こう見えても俺は三人兄弟の一番上。心配させて申し訳なくなる。
詩歩は大人びたまなざしで俺を見つめて、
「冷蔵庫の牛乳、賞味期限がだいぶ切れていたような気がして」
「……俺の腹は、強いから」
さらに気力を蝕まれつつ、自分の部屋へと帰る。
そのままベッドに身体を投げ出した。
仰向けに天井を眺めたまま、カフェでの出来事を思い出す。
――『アイゼン・イェーガー』ってゲーム、知ってる?
聞き間違いではない。
伊予森さんはたしかにそう言った。
あのとき、しばらく呆然とした俺は、思考停止した頭でかろうじて、
(な、な、名前くらいは……)
とっさに嘘をついてしまった。
それをどう受け取ったのか。伊予森さんは奇妙にも思える間を置いた後、
(そっか)
なにごともなかったかのように、うなずいただけだった。
(な、なんで?)
(ううん。なんでも。あ、そういえばさ――)
その話題はそれきりだった。
なぜだか、胸騒ぎがしていた。
「おはよ、遠野くん」
翌日。
登校して、すぐに伊予森さんに声をかけられた。
普段とちがい髪を後ろで束ねてアップにしていた。いつもは隠れている首筋がのぞく。
ああ、今日も天使だ。
「お、ぅお、っす」
いつものようにスムーズな挨拶を返しながらも、俺はさっと視線をそらしてしまった。
簡単に言えば、びびっていた。
色々なことが、頭のなかで整理できていない。
「昨日はありがと」
「い、いや?」
「でもよかったー。あのお店、うちの家族もまだ誰も行ってないし、一番乗り。でもちょっと高いよね?」
「う、うん」
伊予森さんは、いつもと変わらない。
聞いても、大丈夫だろうか。
実際に口にするのは、多少の勇気が必要だった。
「あ、あのさ、昨日言ってたこと、だけど」
「なんだっけ?」
「アイ……なんとかってゲームの、こと」
またしても濁してしまった。慣れない演技をするのは、妙に気恥ずかしい。
「ああ、あれ……」
伊予森さんは少し考えた後、小さく指先で手招きした。
近うよれ?
ドキドキしながら、しかし顔を寄せる勇気がなく、数センチだけ身を乗り出す。
「実はね、妹の友達がそのゲームをやってるみたいなんだけど、そこで対人トラブル……? みたいなことになってて、困ってるらしいんだ」
「はぁ……。妹さんの、お友達さん……」
「でもわたし、そういうのよくわからないから……。遠野くんなら、もしかしたら詳しいんじゃないかと思って」
なるほど、そういうことか。
聞いてみればなんのことはない。
……いや待て。それは、俺がいかにもゲーム廃人のような雰囲気を漂わせていたということだろうか?
「あ、気にしないで。たぶん、なんとかなるはずだから」
線の細い横顔が、ふいに寂しげにかげる。
だれも頼る人がいない、そんな風な。
思い込みかもしれない。だがそう見えた俺にとっては、看過できないものだった。
「と、登録の仕方くらいなら、わかるかも」
考えもせず、そう口走っていた。
馬鹿か。
こんなことで見栄を張って、どうするつもりだ。
すぐに後悔するも、伊予森さんの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
食いつかれた。
これ、よくない。悪い方向に向かっている。あくまで俺は詳しくはない振りをするんだ。俺のリア充ライフに、もうゲームは必要ない。
「あ、でも、詳しいことはあん――」
「じゃあ今度の休み、遠野くんのうち行ってもいい?」
*
掃除機の音が、六畳一間の部屋に響いていた。
時計を見る。十二時半。
さっき見たとき十二時丁度だったから、いつの間にか三〇分が経過していた。どれだけダニを駆逐するつもりだ。
朝一で部屋の片付けをしていた。
シーツもカバーも新品に変えた。換気して掃除して、ファブリーズも農薬ばりに散布した。18禁関係のブツは篤士の部屋に緊急退避させてある。
これだけ念入りに準備しながらも、俺はノートパソコンの前でうなだれた。
机の上には、使い慣れたVHMDが置いてある。
つい先日、使用を断ったばかりのゲーム機器。
「っていうか、なんだこの状況……」
あの伊予森さんがうちに来るなんて。
女子というのは、そんなに簡単に男の家に来るものなのか? もしかして、中学のときも自分が知らないだけで、頻繁にそんな淫らな交流があったのか?
くそっ。非常に気になるが聞く相手がいない。弟の篤士ならわかるかもしれないが、かろうじて残った兄としてのプライドがそれを許さなかった。
それより、問題は他にある。
アカウントを消してしまったのだ。
当然、アバターも猟機のデータもない。
「仕方ない。いちからキャラ作るか……」
アバターはまあよしとしても、苦心して造り上げた機体は一からだし、膨大なパーツもそれを購入する資金もない。本当にゼロからのスタートだ。
ただRPGとはちがって、アイゼン・イェーガーは、機体の操縦技術によるところが大きい。
極端なことを言えば、たとえどんな高性能な機体を使おうと、満足に動かせないようでは、対人戦で勝利することはできない。
アカウントごと消してしまったので、メールアドレスの登録からはじめた。淡々とフォームに入力し、新規に作成。ゲームを起動する。
最初にやるのはキャラクタークリエイションだ。
これがVR空間内での自分の分身となる。
「適当でいいか」
名前、性別、肌の色、目の色、髪の色と細かく好きなように設定できる。装飾品などはゲーム中で入手できるほか、現実のお金で購入、いわゆる課金で入手することもできる。
昔、一番最初のときは、それだけで一日費やすほどこだわったものだったが、いまはその興味もつきていた。
(とことん地味なやつにしよう……)
かつての自分のキャラは、かっこいいビジュアル系のようなキャラクターだった。銀髪に頬の傷。黒いコート。名前はシルバーナイト。
いま思い出すと、軽く線路に飛び出したくなる。
シルバー……シル……
名前は、
シルト。
ぱっと思いついた名前だったが、語呂もいい。自分は猟機でシールドを持つ戦闘スタイルを得意としていた。だからシルト。
Schildと入力。
「シールドの綴りって、こうだっけ……?」
どこか間違っている気がしたが、どうせこの一回切りだ。そのまま登録する。
続いて、猟機の選択。
アイゼン・イェーガーはゲームスタート時に、搭乗する猟機を複数から選択できるようになっている。これが初期機体と呼ばれるもので、プレイヤーはこれをベースとして、自分なりの猟機を造り上げていくことになる。
速度が売りの軽量猟機。
装甲の堅牢さが売りの重量猟機。
性能のバランスと扱いやすさが売りの中量猟機。
俺は迷わず軽量機体を選択。武装はハンドガンとレーザーソードだけだ。それを選んだのはかつての愛機にもっとも近かったからだ。もちろん性能は段違いだが。
「こんなもん、か」
一息つこうとしたとき、呼び鈴が鳴った。
心臓が跳ねる。
微妙にパニックになりながら階段を駆け下りる。
何度か深呼吸したのち、扉をそっと押し開いた。
「あ、遠野くん」
休日なので、伊予森さんは私服姿だった。
ふわりとスカートが広がった白いレース柄のワンピースに、ライトブルーのカーディガン。清楚を体現しているようなまぶしさ。
この破壊力は、やばい。
「ど、どうも」
顔がにやけそうになるの堪える。
「あ、それでこっちが……」
振り向いた伊予森さんの後ろに、もうひとり女の子がいた。
一言で言って、その子は目立つ容貌をしていた。
背は伊予森さんより高い。スポーティーなスニーカー、細身のジーンズにロングティーシャツ、小さなリュックを背負っていて、活動的な印象を受けた。だが目立つのはそのせいではない。
釣り上がりぎみの瞳の色は、澄んだブルー。
なにより、薄い色の金髪。ブロンドだ。
「真下クリスちゃん。妹の友達なんだ」
「今日は、よろしくおねがいします」
クリスは、ぺこりと頭を下げた。
一瞬、ちがう言語かと身構えたが、ごくごく普通の発音の日本語だった。伊予森さんもとくに補足しないところを見ると、気にする必要はなさそうだった。
っていうか、友達って女の子だったのか……。
伊予森さんの妹がいくつなのかは知らないが、詩歩より年下には見えないから中3ぐらいだろうか。それにしてもずいぶん大人っぽい。いや、というより――
(胸、でか)
クリスのそれは、シャツを大胆に盛り上げ存在を主張していた。詩歩と比べると、同じ中学生でもずいぶんちがうなぁと思う。詩歩は代わりに頭に栄養がいってしまったのだと理解している。口にする勇気はないが。
クリスと目が合った。
「……あの」
「上がって、どうぞ」
高速で目を逸らし、回れ右する。
危ない危ない。中学生の胸を見ていたなどと伊予森さんに見抜かれたら、俺の社会生命は終了する。
そういうことに頭がいっぱいで、肝心なところが抜けていたことに、俺は直前まで気づかなかったのだ。
廊下を抜けていくとき、リビングの扉が開けっ放しになっていた。
詩歩がそこにいた。
目が合った。
「あ、お邪魔します」
伊予森さんとクリスが、目を点にして固まる詩歩に会釈する。
「兄さんが、女の人を家に……」
ここまで驚いている詩歩を見るのはひさしぶりだったが、一番動揺しているのは他でもない。俺だ。
「う、上だから、どうぞどうぞ……」
バタン! と扉を閉めて、駆け足気味に二階へと上がった。部屋の前でもう一度深呼吸し、二人を案内する。
「ここが遠野くんの……」
伊予森さんは楽しげに、俺の部屋を見渡していた。
反対にクリスはきょろきょろとせず、どこか緊張しているようだった。
部屋に女の子が二人。
またしても心拍が乱れてくる。
伊予森さんは、俺のパソコンと、机の上に置かれたVHMDに目を向けた。
「すごい。もう準備できてるの?」
「キャラ、作っただけだから……」
伊予森さんは、じっと俺を見ていた。
なにやら視線に含みがある。なんだ?
(あ、そういうことか……)
一瞬混乱したが、奇跡的に察することができた。
「えっと、伊予森さんも、やる?」
「できるの?」
どうやら正解のようだ。嬉しそうな伊予森さんを前にすれば、断る理由などこの地上にはない。
「アカウント登録して、キャラクターを作ればだれでも」
「あ、そのアカウント登録っていうのはやってきたよ。パソコンでできたから」
「あ、そうなんだ。じゃあ話は早い」
幸いに、俺の部屋にはもう一台VHMDがあった。元は弟のものだが、早々に飽きてしまったらしく、いつの間にか俺の物と化していた。
アイゼン・イェーガーの基本プレイは無料だ。
俺はパソコンでさきほど同じように、加えて伊予森さんに要望を聞きながら、女性キャラクターのアバターを作っていく。
「名前は?」
「じゃあ、イヨで。……へんかな?」
「いや、いいと思うよ」
Iyoと入力。
プロポーションも細かく設定できるが、今回はそこまではしなかった。
アバターは完成した。続いて初期機体の選択。
「機体は、どれがいい?」
「それに乗って、戦うの?」
「まあ、基本的には……」
「あんまり戦わないのが、いいんだけど」
なかなかレアな要求だった。
もちろん戦闘するだけがこのゲームではないが。
「じゃあ……管制機がいいかも」
全身が細いフレームで構成され、奇抜な頭部をした機体を選択する。
「他のとちがうの?」
「管制機は戦闘には参加できないんだ。武装を持てないから。その代わりに特別な役目があって、戦闘を観測して仲間に指示を出したりとか、これが結構重要で……あ、でも気にしないで。今回はただ乗って見てるだけで大丈夫だから」
早口気味の俺の説明に、伊予森さんはややぽかんとしている。
「お任せするね」
要所だけ上手く説明するというのが、自分は致命的に下手くそだ。
「……これで、完了っと。じゃあ伊予森さんは、これ使って。使い方、わかる?」
伊予森さんに篤士の古い型のVHMDを渡す。
「一回使ったことあるから。特別なことはないよね?」
「うん。大丈夫」
VHMDは、脳波を読み取ってあらゆる入力動作を代替してくれるタイプのヘッドマウント型マルチメディアデバイスだ。映像は網膜投影、音声は骨伝導で臨場感を極め、非常に高精度なVR体験を手軽にできる機器として、ゲームや映画干渉用に普及している。
「クリスちゃんは?」
「自分の、持ってきましたから」
クリスはごそごそとリュックから女の子らしいピンクカラーのVHMDを取り出した。デコレーションのシールが張ってあるのが可愛らしかった。中学生にしては子供っぽいような気がしたが、さすがに口に出すほど愚かではない。
「あ。それで、トラブルっていうのは……」
俺が聞くと、クリスはうつむいてしまった。
どうしたらいいかわからず、俺は伊予森さんに助けを請う。
「とりあえず、はじめてみない?」
「そ、そうだね」
やたらやる気のある伊予森さんに続き、VHMDを装着する。
「じゃあ、いくよ」
電源を入れる。OSが起動。スタートメニュー画面からアイゼン・イェーガーを選択。クラウドにあるゲームシステムに接続。
世界は一度消え――やがてVRが開かれた。




