#26
「いてて……」
週明けの教室で、俺は机につっぷしていた。
いつもの寝たふりではなく、本当に疲労がたまっていた。
腰が痛い。
日々の運動不足の上、慣れないことをしたせいか、筋肉痛が遅れてやってきていた。正直、俺には荷が重かったらしい。
なんだか変なことになったな、と先週末の出来事を思い返す。
未知の体験だった。
だが、織江さんが喜んでくれているのだから、まあがんばろうかとは思う。
「遠野くん。なんか疲れてない?」
気づくと、伊予森さんが心配そうに俺を見下ろしていた。
「うん、ちょっと週末、めずらしく身体酷使しちゃって……」
「なにしてたの?」
「―――え」
まじまじと、伊予森さんが見つめていた。
なぜか俺は、奇妙なうしろめたさを感じた。
「だから、なにをって」
「いや、その……家の手伝いとか、そういうのとか」
とっさに俺は嘘をついた。
なんとなく、妙なうしろめたさを感じたからだ。
ただでさえ、クリスのことで伊予森さんには妙に思われているかもしれないのだ。これ以上、疑いを増やしたくない。
「ふーん……」
そのとき、携帯にメールが入った。
この前、帰り際に教えてもらった連絡先――織江さんからだった。
「だれから?」
「ぬぉお!?」
伊予森さんが手元を覗き込んできたので、とっさに全力で身体をひねった。
その大仰なリアクションに、伊予森さんは目を丸くしている。
「そ、そんなに驚かなくても……」
「いや、ちょっと……」
「なんで隠すの?」
「そういうわけじゃ」
「なんか、あやしくない?」
「そそそんなことないって!」
なぜか背中に汗が浮かぶ。
逃げながら携帯を覗き、文面を確認する。
:遠野さんの服、クリーニングが終わりました。
本当に、お届けしないでもよろしいでしょうか?
思い出した。
この前、織江さんと別れるときに、また次に来るときに引き取るからわざわざ送らなくてもいいと言ったのだった。
「それよりさ、遠野くん。次の土曜って空いてる?」
「つぎの……」
「週末ならクリスちゃんも一緒に遊べるって言ってから、せっかくだからどこかで集まって、みんなでやろうかなって話してて。あ、なんだったらゲーミングカフェにみんなで行くのも――」
伊予森さんはにこやかな笑みを浮かべている。
結局なんだかんだでアップデート以降、まだちゃんと伊予森さんとアイゼン・イェーガーをやることができていなかった。
はやくやりたいオーラが、その全身からもれている。
そこまでうずうずしているなら自分ひとりでもやりそうなものだが、どうやら伊予森さんは俺と一緒にやることを希望してくれるようだった。
それ自体は、なんというか、素直にとても嬉しい。
なのだが……。
「ごめん、その、ちょっと土曜は……」
「え? だれかと、約束?」
「うん、いや、まあ、そんな感じで……」
伊予森さんはきょとんとした。俺が休日に約束をとりつける人間がいることが、信じられないといった様子だ。俺もそう思う。
にしても、この気まずさはなんだろうか。
「ごめん、なさい……」
「う、ううん。無理なら、まあ、いいけど」
伊予森さんは残念そうに言いながら、すっと目を細めて俺を見つめていた。
放課後、俺が校門から出ると、視界の前方でなにか赤い物体が揺れた。
その物体――赤いランドセルに、俺は目を剥いた。
「く、クリス!?」
「あ、シルトさん!」
ランドセルを揺らしながらクリスがぱたぱたと近寄ってきた。
こうして出待ちされるのは、いつ以来だろうか。
傍目には小学生には見えないスタイル抜群の金髪少女に、やはり周囲の生徒たちの視線を感じる。だが当のクリスは気にした様子もなく、
「あの! 最近、シルトさんとあまり遊べてなくて、今日もすぐ帰らないとダメなんですが……その、今度の週末なんですけど!」
嫌な予感がした。
さきほど、伊予森さんから誘われた件だ。
「く、クリス、そのことなんだけど……」
俺がもごもごと予定があってその日は遊べないと歯切れ悪く告げると、みるみるうちにクリスの顔から笑顔が消えていった。
「そ、そうですか……」
「ほんと、ごめん」
「き、気にしないでください。……そ、それでは、またそのうち……」
うつむくクリスに罪悪感を覚えつつも、ただタイミングが悪かったと、そのときの俺はそう思うだけだった。
*
次の週末、約束通りに俺はまた織江さんの家へとやって来ていた。
織江さんが、俺を手招きする。
「来てください、遠野さん……」
「はい」
――二時間後、俺は汗だくになっていた。
「やっぱり、男の人は、すごいです……」
「い、いえ」
そんな風に褒められると、少々恥ずかしかった。
織江さんも相当汗をかき、どこか清々しい表情を浮かべている。
外はまだ初夏とは思えないほど、容赦のない日光が襲いかかっていた。
「あの、よかったらシャワー使ってください」
「え? いや、でも……」
「遠慮なさらずに。結局、いろいろとしていただくばかりでお礼もできなくて……。あ、お昼まだでしたよね? ちょっと遅くなっちゃいましけど、ぜひ食べていってくださいね」
火照った頬で織江さんは言った。
俺は薦められるまま、シャワーを借りることにした。
浴室に入った瞬間、いい香りがした。
人の家の風呂は、落ち着かない。
とはいえ、ベトついた身体をぬるいお湯で洗い流すと、そんな懸念もきれいに吹き飛んでしまった。
さっぱりした身体で浴室を出ると、丁寧に折り畳まれたタオルが用意されていた。
さすがにパンツまで借りる気持ちにはなれなかったが、替えのティーシャツが出されていた。サイズは大きい。男向けのものだ。旦那さんのものだろうか。
妙なうしろめたさを感じながらも拝借し、髪がまだ濡れていたためタオルを首にかけて、洗面所から出た。
リビングに戻ろうとしているとき、呼び鈴が鳴った。
台所の方から、織江さんの声がした。
「――あの、ごめんなさい。今手がはなせないので、代わりに出ていただいいてもいいでしょうか?」
「は、はい」
なにか荷物の受け取りとかかな。俺は深く考えることなく、風呂上りの格好のまま玄関の扉を開けた。
目の前に現れたのは、伊予森さんによく似た美少女だった。
つややかな黒髪、均整のとれたプロポーション。はっと息をのむほどに整った顔立ちに、俺は自然と見惚れてしまう。
ほぅ、と驚いた。
世界にはその人と似た人間が三人はいると聞くが、まさかこんな近くに、これほど似ている人間がいようとは。
いや、それにしても本当に似ている。親戚とか、姉妹とか、それ以上に。
…………。
……いや、というか。
それは紛れもなく、伊予森さん本人だった。
「え……?」
脳がフリーズする。
一方の伊予森さんもまた、俺を見て固まっている。
ぽたり、と俺の髪からしずくが落ちた。
向けられる視線が、俺の頭からつま先までゆっくりとなぞった。
「うそ……」
伊予森さんは青ざめ、おののいていた。
しかも伊予森さんの後ろに、もうひとりいた。姿を見せたのは、長い金髪をポニーテールにしたスタイル抜群の少女、クリスだった。
「クリスまで、なんで……」
硬直する俺の後ろから、織江さんがやってきた。
伊予森さんはエプロン姿の織江さんを見て、さらに顔をこわばらせた。
織江さんは無言で固まったままの俺たち見て、きょとんとしている。
「あの……どちら様ですか?」
*
リビングで、四人が無言のまま向かい合っていた。
片側に俺と織江さん。
その対面に伊予森さんとクリスが座っている。
「それで、ふたりはどうして……」
俺は伊予森さんたちに聞いた。
「うーん、たまたまだよ」
「た、たまたま?」
「そう。たまたま駅で遠野くんの姿を見つけて、たまたまちょっと後をつけてみたらこちらのお宅に入っていくのが見えたから、なんだろうなぁ、って思ってちょっとお訪ねしてみただけだよ♪ ね、クリスちゃん?」
「は、はいっ!」
伊予森さんが目を細める。その微笑が、なぜかとてつもなくこわい。
あれ? この笑顔をどこかで見た気がする。
これは、いつかの黒森さん。
ど、どうしてまた降臨されたのだろうか?
というか、さすがに本当に偶然なわけはない。考えられるとすれば、最初から俺のあとを尾けてきた、ということだが……。つまり、俺が朝、家を出るときからずっと尾行してきたということだ。まさかさすがにそんなことは……。
……いや、やるか。
伊予森さんだもんなぁ……。
その伊予森さんは、さきほどから俺をじっとにらんでいる。
「ねぇ。なんで、髪濡れてるの?」
「あ、さっきシャワー浴びてたから」
「へ、へぇ……」
拳をぎゅっと握り締めた彼女の声は震え、目がはげしく泳いでいた。
いつもこちらが萎縮してしまうほど落ち着き払った伊予森さんらしくない。
織江さんが言った。
「遠野さんの、お友達ですか?」
「はい、同じ高校の……」
「ただのクラスメイトの、伊予森といいます」
前の方を、伊予森さんはやたら強調した。
この居心地の悪さは、いったいなんだろう?
「もしかして、お邪魔だった?」
「え? いや、べつにそんなことは……」
「ほ、ほんとかなぁ。無理しなくてもいいんだよ、ねぇ、クリスちゃん?」
「はい。なんだか、オトナな感じがしますっ!」
ふたりして、俺をジトっとにらんでいる。
この状況は、いったいなんだ?
「遠野くんと、佐倉さんは、どういうおつながりで?」
「あの、アイゼン・イェーガーで――」
俺はとりあえず、これまでの経緯をふたりに説明した。
「で、織江さんがわざわざ俺の服のこと気にしてくれて、それで今日はそれを返しにもらいに来たのと、あとこの前のときに――」
「織江さん……」
ぴくり、と伊予森さんが反応する。
名前で呼んでいるのにもちゃんとが理由がある。だがそれを口にする前に、伊予森さんはひとりうなずいた。
「そっか……。わたしたちが遊べないときに、そんなことしてたんだ。そうなんだ……」
だんだんと伊予森さんの声から、覇気がなくなっていく。
こんなに弱々しい伊予森さんを見るのは初めてだ。
だがやがて、気丈な気配をまとって、伊予森さんが顔を上げた。
ちらり、と織江さんの手元を見やる。
「あの……こういうのって、よくないと思います」
伊予森さんの手は、硬く握り締められていた。
「え?」
「と、遠野くんは男の子だから、そういうのあるかもしれないけど、でも相手が……。それはやっちゃいけないことだよ!」
「そ、そんなに、まずい……?」
「当たり前でしょ! なに言ってるの!?」
知らなかった。
俺みたいな素人が手を加えるのは、そんなにまずいことだったのか?
……とはいえ、途中で投げ出すのは織江さんにも申し訳ないし、俺自身もなんだかもやもやしてしまう。
「でもさ、それだと、その……ちょっとすっきりしないっていうか」
「す、すっきり!?」
「できれば、最後までやりたいとは思うんだけど……」
「さ、最後ぉ!?」
「もうすこしで、できそうだから」
「で、デデ#%=$>……!?」
言葉にならない声を上げて、伊予森さんが白目をむいていた。
一方のクリスはぽかんとしている。
伊予森さんは激しく頭を振ってから、ずばっ! と立ち上がった。
「なに言ってるの!? し、信じられない……! そんな、そんなこと……それこそ手遅れじゃない!」
「な、なにが???」
俺はすっかり混乱していた。
伊予森さんがなにを言っているかわからない。
やはり俺のコミュ力が低いせいか? いや、それにしても……。
珍しい伊予森さんの壊れっぷりに、言い知れぬ不安がこみ上げてくる。
伊予森さんが目をこすった。
一瞬、その手が濡れているように見えたが、それを確認する前に伊予森さんは強く言い放った。
「遠野くん。勝負しよう」
「え?」
「わたしたちが勝ったら、もうこの爛れた関係は終わりにして」
「た、ただれ? っていうか、わたしたち……っていうのは」
伊予森さんは自分と、クリスを指差した。
「もちろん、わたしと」
「たちです」
クリスが伊予森さんの言葉を引き継いでうなずく。
「……えっと、それで、勝負っていうのは」
「決まってるでしょ」
伊予森さんは立ち上がり、民草を見下ろす暴君のように告げた。
「アイゼン・イェーガーで」
ふたりは俺をきつく睨み、その瞳に炎を宿していた。




