#25
次の土曜日の昼。俺はきわめてめずらしいことに、家から電車ですこし出たところにある繁華街にいた。
青い空と、賑やかな街並みと、人々の喧騒。
暑い。
まだ六月のはずだが、快晴の空から注ぐ直射日光とアスファルトに照り返された熱で、体感温度は三割り増しくらいあるような気がした。
そして、なにより慣れないのは行きかう人の多さだった。
だが今日はここに来る明確な理由があった。
オーリーさんと、直に会うという約束をしたのだ。
待ち合わせ時間の五分前になったとき。
俺の目の前で、ひとりの女性が立ち止まった。
俺はゆっくりと、額に汗かいた顔を上げた。
見たところ、二十四、五歳ぐらいだろうか。薄手のカーディガンにロングスカート姿。ひとつまとめた長い髪を襟元から胸へと垂らしている。すこし垂れ目がちな瞳は優しい印象で、左の目尻に小さなほくろがあった。
やや病的なほどに色白だ。しかし、とてもきれいな人だった。
大人の色香、というものを初めて理解した気がする。
どぎまぎしていると、女性が口を開いた。
「あの、もしかして、シルトさん……ですか?」
「は、はぇ」
極度の緊張のため、上手くろれつが回らない。
無様だ。しっかりしろ。
「そ、そうです」
「佐倉織江といいます」
「あ、えっと、遠野盾っす……」
相手につられて、つい自然と本名を名乗ってしまう。
だがそんなことなど気にならないほど、俺は動揺していた。
「というか、よく、わかりましたね? 俺のこと……」
とくに目印などは持っていない。よくよく考えたら、人が多くて見分けがつかなかった可能性も十分あった。彼女がすぐに見つけてくれて助かった。
そもそも人と待ち合わせをするということがないので、色々と気遣いが足りていないのだなと痛感する。
「その、雰囲気で。なんだか、似ているような気がしたので……」
「似てる、って……アイゼン・イェーガーのアバターと?」
「はい」
意外だった。
俺のアバターは、あのクリスの一件でゲームを再開したときに、それまでの厨二的ビジュアル系キャラの反動で、ひたすら地味に地味にとあえて作ったものだったからだ。
そのキャラが現実の俺と似ているということは、つまり……。
「ど、どうかされました?」
「いえ……」
俺が嫌な現実から目を背けようとしたとき、
ふらり、と佐倉さんの身体が傾いた。
「うぉお!?」
そのまま冗談のように倒れかけた華奢な身体を、俺はとっさに抱き支える。指先のやわらかな感触と未知の香りに心臓が跳ねた。
「だだ、大丈夫、ですか!?」
「すみません……ちょっと、立ちくらみがしただけで……」
通行人の視線を強く感じる。
さんざんテンパった挙句、俺は周囲を見渡す。やがて視界の端に、一軒のカフェを見つけた。
暑さと人ごみから逃れるようにして、俺たちはカフェに入った。
「すみません、私、身体があまり強くなくて……」
「そ、そうなんですね……」
たしかに、彼女は見ためからして病弱そうである。
席について飲み物を注文すると、佐倉さんが上着を脱いた。
落ち着いた柄のノースリーブ。色白の肩や腕があらわになる。
なぜかいけないものを見ているような気がして、動悸がはやまった。
「あの……シルト……遠野さんに、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
かしこまって言われ、俺は戸惑う。
「な、なんでしょう?」
「その……。ゲームのなかで出会った人と仲良くなるというのは、よくあることなのでしょうか?」
唐突な質問に面食らった。
俺は困惑しながらも、とりあえず一般論の範疇で答える。
「それは、まあ、あるんじゃないですかね」
いわゆるオフ会というのはインターネットやオンラインゲームの黎明期からすでにあったことだ。いまどきめずらしくもない。
俺の返答に、彼女の表情が沈む。
「そう、ですか……」
「それが、どうかしたんですか?」
「……私、主人がいるのですが」
そのときようやく、彼女の左手の薬指に、銀色に光る指輪がはめられていることに気づいた。
それが意味することは、ひとつだ。
「結婚、されてる」
「ええ……まあ」
彼女は妙に濁すように言った。
“まあ”、なんなのか――
まだ高一の俺には到底図りかねない深遠な響きが、そこに含まれている気がした。
「その、最近、夫のことで心配なんです」
「それは、どういう……」
「……もともと、アイゼン・イェーガーは夫がよく遊んでいるゲームだったのですが……。数ヶ月前から、そこで親しくなった人がいたようで、オフでもよく会って遊ぶようになったんです。私も最初は、男の人だと思ってあまり気していなかったのですが、夫はその人をうちに連れてくることはどうしても嫌がって……。だんだん、私も不安になってきて……」
「な、なるほど……」
話にじっと耳を傾けていると、彼女が言おうとしていることがおぼろげながらわかってきた。
つまり、この手のゲームに慣れている(ように見えた)俺なら、そういう事情についても詳しいのではないか、と思ったのだろう。
そうか。だから直接会って、相談しようと思ったのか。
まあたしかに、あまりネット上で気軽にするような話でもない。
だが、しかし。
高一の、しかも女子と付き合ったこともない俺に、大人の男女問題についていったいなにが言えるというのか?
「……それで、なにかわかるかなと思って、夫に内緒であのゲームをはじめてみたんですが、思っていたよりも難しくて……そんなとき、遠野さんに助けていただいたんです」
「そう、ですか……」
早々に、俺は返答に詰まった。
気まずい沈黙の時間が過ぎていく。気持ちを落ち着かせるため、飲み物を一口含んだ。
「遠野さんは、彼女さんはいらっしゃるんですか?」
「ゴフッ!」
盛大にむせた。こぼれたアイスコーヒーがシャツにかかる。
予想外の質問に妙に動転してしまった。
佐倉さんが慌てて立ち上がる。
「ご、ごめんなさい! 私が変なこと聞いたから……」
「い、いえべつにっ」
どうせ安物だ。帰ってから洗濯すればいい。俺は本当に気にしていなかったが、彼女はひたすら申し訳なさそうにし、クリーニングして返すと言った。俺がそこまでする必要はないし、それに着替えもないし、と口にしたときだった。
「あの……それでしたら、うちにいらっしゃいませんか?」
「え……」
彼女の瞳は、真剣そのものだった。
*
待ち合わせ場所から三駅ほど先にある学生街。俺は佐倉さんに連れられて、街の住宅地にある彼女の家までやってきていた。
洋風な一軒家だった。
繊細な門の作りなど、どことなく女性的な雰囲気が感じられる。
家に入ってリビングに案内されると、窓越しに広い庭がよく見えた。
ただの芝生ではなく、ガーデニングというのか家庭菜園というのか、野菜から果物らしきもの(俺には判別がつかなかった)などが沢山育てられていた。
「なんか、すごいお庭ですね……」
「いろいろやってるんです。私、身体が弱くてあまりアウトドアなことには向いてないのですが……ガーデニングは趣味なんです。あの奥にあるものはハーブですね。その手前はイタリアンパセリで……。それと最近はルッコラを育てはじめたんですけど」
「はぁ」
気のない返事で庭を眺める。俺の目にはどれも似たような草としか映らない。
彼女はひとしきり楽しそうに菜園の説明をしたあと、反応の鈍い俺を見て、あわてて申し訳なさそうに頭を下げた。
すすめられるままソファーに腰を下ろす。
彼女もためらいなく、となりへと座った。
「と、ところで佐倉さんのご、ご主人は……」
「……あの、できれば名前で呼んでいただけると……」
「え?」
俺はたじろいだ。
「いえ、そのっ、ごめんなさい。妹の名前が、桜なので……。結婚して、苗字が変わっていまの佐倉になったんですが、なんだか変な感じがして……」
「ほ、ほぉ……」
そういう珍しいこともあるのか。
「旦那は、出張中なんです」
「へ、へぇ」
織江さんの一言で、形容しがたい沈黙が広がる。
これは、なんだろう。
いや、俺はべつにやましいことはなにもない。そのはずなのに。
織江さんは目を伏せた。
「十歳年上で、一昨年結婚したんです。私は短大を出てからすぐに」
「お、お幸せそうで」
愚にもつかないことを口走る。落ち着け、俺。
「……もしかしたら、これが倦怠期なのかもしれません」
「そ、そうですか……」
けんたいきって、上手くいっていないっていう意味か。
だからどうした。
俺にはなんの関係もない。ないはずなのに……。
織江さんがソファーの上で、俺のほうに身体を寄せてきた。
ち、近くない!?
頭がぐるぐると回っているようだった。はげしく高まる自分の心臓の音まで、彼女に伝わってしまいそうな気がした。
「遠野さん、あの、お願いがあるんです……」
手をにぎられた。
ごくり、とつばを飲み込む。
こんなことが起きるのか。起きていいのか。
弱々しく身を寄せてくる織江さんに、俺は抗えなかった――




