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アイゼン・イェーガー  作者: 来生直紀
EP03/ 禁断の交友
26/93

#25

 次の土曜日の昼。俺はきわめてめずらしいことに、家から電車ですこし出たところにある繁華街にいた。

 青い空と、賑やかな街並みと、人々の喧騒。

 暑い。

 まだ六月のはずだが、快晴の空から注ぐ直射日光とアスファルトに照り返された熱で、体感温度は三割り増しくらいあるような気がした。

 そして、なにより慣れないのは行きかう人の多さだった。

 だが今日はここに来る明確な理由があった。

 オーリーさんと、直に会うという約束をしたのだ。

 待ち合わせ時間の五分前になったとき。


 俺の目の前で、ひとりの女性が立ち止まった。


 俺はゆっくりと、額に汗かいた顔を上げた。

 見たところ、二十四、五歳ぐらいだろうか。薄手のカーディガンにロングスカート姿。ひとつまとめた長い髪を襟元から胸へと垂らしている。すこし垂れ目がちな瞳は優しい印象で、左の目尻に小さなほくろがあった。

 やや病的なほどに色白だ。しかし、とてもきれいな人だった。

 大人の色香、というものを初めて理解した気がする。

 どぎまぎしていると、女性が口を開いた。

「あの、もしかして、シルトさん……ですか?」

「は、はぇ」

 極度の緊張のため、上手くろれつが回らない。

 無様だ。しっかりしろ。

「そ、そうです」

「佐倉織江といいます」

「あ、えっと、遠野盾っす……」

 相手につられて、つい自然と本名を名乗ってしまう。

 だがそんなことなど気にならないほど、俺は動揺していた。

「というか、よく、わかりましたね? 俺のこと……」

 とくに目印などは持っていない。よくよく考えたら、人が多くて見分けがつかなかった可能性も十分あった。彼女がすぐに見つけてくれて助かった。

 そもそも人と待ち合わせをするということがないので、色々と気遣いが足りていないのだなと痛感する。

「その、雰囲気で。なんだか、似ているような気がしたので……」

「似てる、って……アイゼン・イェーガーのアバターと?」

「はい」

 意外だった。

 俺のアバターは、あのクリスの一件でゲームを再開したときに、それまでの厨二的ビジュアル系キャラの反動で、ひたすら地味に地味にとあえて作ったものだったからだ。

 そのキャラが現実の俺と似ているということは、つまり……。 

「ど、どうかされました?」

「いえ……」

 俺が嫌な現実から目を背けようとしたとき、

 ふらり、と佐倉さんの身体が傾いた。

「うぉお!?」

 そのまま冗談のように倒れかけた華奢な身体を、俺はとっさに抱き支える。指先のやわらかな感触と未知の香りに心臓が跳ねた。

「だだ、大丈夫、ですか!?」

「すみません……ちょっと、立ちくらみがしただけで……」

 通行人の視線を強く感じる。

 さんざんテンパった挙句、俺は周囲を見渡す。やがて視界の端に、一軒のカフェを見つけた。



 暑さと人ごみから逃れるようにして、俺たちはカフェに入った。

「すみません、私、身体があまり強くなくて……」

「そ、そうなんですね……」

 たしかに、彼女は見ためからして病弱そうである。

 席について飲み物を注文すると、佐倉さんが上着を脱いた。

 落ち着いた柄のノースリーブ。色白の肩や腕があらわになる。

 なぜかいけないものを見ているような気がして、動悸がはやまった。

「あの……シルト……遠野さんに、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 かしこまって言われ、俺は戸惑う。

「な、なんでしょう?」

「その……。ゲームのなかで出会った人と仲良くなるというのは、よくあることなのでしょうか?」

 唐突な質問に面食らった。

 俺は困惑しながらも、とりあえず一般論の範疇で答える。

「それは、まあ、あるんじゃないですかね」

 いわゆるオフ会というのはインターネットやオンラインゲームの黎明期からすでにあったことだ。いまどきめずらしくもない。

 俺の返答に、彼女の表情が沈む。

「そう、ですか……」

「それが、どうかしたんですか?」 

「……私、主人がいるのですが」

 そのときようやく、彼女の左手の薬指に、銀色に光る指輪がはめられていることに気づいた。

 それが意味することは、ひとつだ。

「結婚、されてる」

「ええ……まあ」

 彼女は妙に濁すように言った。

 “まあ”、なんなのか――

 まだ高一の俺には到底図りかねない深遠な響きが、そこに含まれている気がした。

「その、最近、夫のことで心配なんです」

「それは、どういう……」

「……もともと、アイゼン・イェーガーは夫がよく遊んでいるゲームだったのですが……。数ヶ月前から、そこで親しくなった人がいたようで、オフでもよく会って遊ぶようになったんです。私も最初は、男の人だと思ってあまり気していなかったのですが、夫はその人をうちに連れてくることはどうしても嫌がって……。だんだん、私も不安になってきて……」

「な、なるほど……」

 話にじっと耳を傾けていると、彼女が言おうとしていることがおぼろげながらわかってきた。

 つまり、この手のゲームに慣れている(ように見えた)俺なら、そういう事情についても詳しいのではないか、と思ったのだろう。

 そうか。だから直接会って、相談しようと思ったのか。

 まあたしかに、あまりネット上で気軽にするような話でもない。

 だが、しかし。 

 高一の、しかも女子と付き合ったこともない俺に、大人の男女問題についていったいなにが言えるというのか?

「……それで、なにかわかるかなと思って、夫に内緒であのゲームをはじめてみたんですが、思っていたよりも難しくて……そんなとき、遠野さんに助けていただいたんです」

「そう、ですか……」

 早々に、俺は返答に詰まった。

 気まずい沈黙の時間が過ぎていく。気持ちを落ち着かせるため、飲み物を一口含んだ。

「遠野さんは、彼女さんはいらっしゃるんですか?」

「ゴフッ!」

 盛大にむせた。こぼれたアイスコーヒーがシャツにかかる。

 予想外の質問に妙に動転してしまった。

 佐倉さんが慌てて立ち上がる。

「ご、ごめんなさい! 私が変なこと聞いたから……」

「い、いえべつにっ」

 どうせ安物だ。帰ってから洗濯すればいい。俺は本当に気にしていなかったが、彼女はひたすら申し訳なさそうにし、クリーニングして返すと言った。俺がそこまでする必要はないし、それに着替えもないし、と口にしたときだった。

「あの……それでしたら、うちにいらっしゃいませんか?」

「え……」

 彼女の瞳は、真剣そのものだった。


 *


 待ち合わせ場所から三駅ほど先にある学生街。俺は佐倉さんに連れられて、街の住宅地にある彼女の家までやってきていた。

洋風な一軒家だった。

 繊細な門の作りなど、どことなく女性的な雰囲気が感じられる。

 家に入ってリビングに案内されると、窓越しに広い庭がよく見えた。

 ただの芝生ではなく、ガーデニングというのか家庭菜園というのか、野菜から果物らしきもの(俺には判別がつかなかった)などが沢山育てられていた。

「なんか、すごいお庭ですね……」

「いろいろやってるんです。私、身体が弱くてあまりアウトドアなことには向いてないのですが……ガーデニングは趣味なんです。あの奥にあるものはハーブですね。その手前はイタリアンパセリで……。それと最近はルッコラを育てはじめたんですけど」

「はぁ」

 気のない返事で庭を眺める。俺の目にはどれも似たような草としか映らない。

 彼女はひとしきり楽しそうに菜園の説明をしたあと、反応の鈍い俺を見て、あわてて申し訳なさそうに頭を下げた。 

 すすめられるままソファーに腰を下ろす。

 彼女もためらいなく、となりへと座った。

「と、ところで佐倉さんのご、ご主人は……」

「……あの、できれば名前で呼んでいただけると……」

「え?」

 俺はたじろいだ。

「いえ、そのっ、ごめんなさい。妹の名前が、桜なので……。結婚して、苗字が変わっていまの佐倉になったんですが、なんだか変な感じがして……」

「ほ、ほぉ……」

 そういう珍しいこともあるのか。

「旦那は、出張中なんです」

「へ、へぇ」

 織江さんの一言で、形容しがたい沈黙が広がる。

 これは、なんだろう。

 いや、俺はべつにやましいことはなにもない。そのはずなのに。

 織江さんは目を伏せた。

「十歳年上で、一昨年結婚したんです。私は短大を出てからすぐに」

「お、お幸せそうで」

 愚にもつかないことを口走る。落ち着け、俺。

「……もしかしたら、これが倦怠期なのかもしれません」

「そ、そうですか……」

 けんたいきって、上手くいっていないっていう意味か。

 だからどうした。

 俺にはなんの関係もない。ないはずなのに……。

 織江さんがソファーの上で、俺のほうに身体を寄せてきた。

 ち、近くない!?

 頭がぐるぐると回っているようだった。はげしく高まる自分の心臓の音まで、彼女に伝わってしまいそうな気がした。

「遠野さん、あの、お願いがあるんです……」

 手をにぎられた。

 ごくり、とつばを飲み込む。

 こんなことが起きるのか。起きていいのか。


 弱々しく身を寄せてくる織江さんに、俺は抗えなかった――


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