#01
予想はできたことだった――
県立北ヶ瀬高校。
校舎の一階奥にある一年一組の教室は、高校生になりたての少年少女たちの声で賑わっている。廊下側から二列目の一番前の席で、俺はまだ慣れない制服に身を包み、こじんまりと背を丸めていた。
この教室という大海のなかで、俺の席は見事に孤島と化していた。
背中にぶつかるクラスメイトたちの明るい笑い声が、どこまでも痛い。
理不尽さと疑念が腹の底にうずまく。
どういうことだ。
まだたった二週間だぞ?
だというのに、こいつらはいったいなんなんだ? どうしてそんな打ち解けている? おまえらみんな中学校一緒だったのか? 俺だけがちがうんじゃないか? そうでもなければこんな状況、おかしくないか?
だれにともなく恨み言をぶつけたい気分だった。
小さくため息をつく。
どこかで、覚悟はしていた。
つい先日までリアルでのまともな対人関係を構築したことのないやつが、いきなり円滑なコミニュケーションなど取れるはずもない。最初から一歩も二歩も出遅れているのだ。致命的に。
しきりに周りに視線を配る。
どこか、どこかに、きっかけはないか?
今日もまた昼休みの時間がやってきてしまう。授業内容などどうでもいい。いかにして休み時間を無難にやり過ごすか。昼を一緒に食べる昼飯要員を日々見つけ、いかにしてぼっちではないように過ごすか。それだけが高校生となった俺の最優先事項だった。
これはリア充っていうか、キョロ充というやつでは……。
「――おはよ」
「あ、おはよ~楓」
香りが横切る。
俺は自然と、顔を上げていた。
揺れる膝丈のスカートと、紺色のブレザー。真新しく朝日に照らされる、女子生徒の姿。
彼女の長い黒髪までが、きらめているように見えた。
俺は教室に入ってくる彼女を、そっと盗み見る。
入学してすぐに、彼女の名前だけは覚えた。
伊予森楓。
可愛い、という以上に綺麗だった。大人っぽい、と言っていいかもしれない。
その日は、少し迂闊だった。
長々と見てしまっていたとき、伊予森さんが、こちらを向いた。
「おはよ、遠野くん」
息が止まった。
席が近いというだけで、こんな俺に挨拶を。
しかも名前を覚えてくれている、だと?
天使だ。
そんな天使に向かって、俺は、俺は――
「お、お、おっ」
どもった。
我ながら、見事なコミュ障ぶりだった。
おはよう……と蚊のなくような声で返し、情けなさのあまり顔をそらしてしまう。伊予森さんは気にした様子もなく席についた。さっそく周りが声をかける。
「楓、今日の数学教科書忘れちゃったー。見せて!」
「また? しょうがないなぁ……」
「あ、俺も忘れちゃったから仲間に入れてくれー」
「それはうそ。あるでしょ?」
「なんでわかったの! すげー」
賑やかな笑い声と、快活とした表情。
傍目に見ても、伊予森さんの周りには、男女問わず人が集まる。
もはやべつの世界だ。
近いが、どこまでも遠い。
ここには、見えない境界がはっきりと存在していた。
昼休みになった。気がつくと教室は女子の比率が高まっている。男子は学食に行ってしまったのか? だれも誘ってはくれなかった……。
惨めな気分になりながら、弁当を広げる。こうなったら速攻食ってどっかへ行こう。
「えー知らない? うそ、絶対いたよ」
ご飯をかき込んでいると、近くで机を合わせている伊予森さんたち女子グループの会話が聞こえてきた。
「だれか三中の人いないかなぁ」
伊予森さんのその言葉に、俺の耳が反応した。
第三中学校。俺もそこの出身だ。幸か不幸か、このクラスには俺しかいないようだった。この北ヶ瀬高校は俺のいた中学からは遠く、かといってそれほど人気のあるところでもないため、うちからの進学者はかなり少ないのだ。
――あの人って、そうじゃないっけ?
女子のささやきに、どきりとする。
振り返る間もなく、足音が近づいてきた。
「ねぇ、遠野くん」
びくりと、と俺は小動物のように跳ねて振り返った。
伊予森さんが、すぐ目の前で俺を見下ろしていた。
「な、なにひぃ?」
声がみっともなく裏返る。最悪だ。
だが伊予森さんは気にした様子もなく、
「遠野くんって、どこ中だっけ?」
「だ、第三中……」
「やっぱり! ねぇ、佐々木美穂って知ってる? わたし家近くて友達なんだ」
知らない。だれだ。いや、確かクラスにそんな名前の女子がいたような、いないような……。
伊予森さんが、期待に満ちた視線を向けている。
やめてくれ。クラスメイトの女子の名前とか、そんな高度な質問を俺にしないでくれ。男子の名前だってろくに覚えていないのに。
「……く、クラスちがうかも……」
「三年のとき何組だった?」
「5組、だけど……」
「あれ、じゃあたぶん同じだと思うけど」
まずい。
ひきこもっていたことがバレてしまう。
伊予森さんのどこまでも無垢な表情が、俺を苛む。
なぜそんなに俺を追いつめる? 天使じゃないのか?
「わ、わかんない、かな。いひッ」
ごまかすつもりの愛想笑いは、頬をひきつらせただけだった。見ていた女子たちが、一斉にドン引く。
死にたい。
入学して早速、部活動の仮入部期間がはじまっていた。
放課後になると友達と一緒に、みな思い思いの部活へと向かう。
俺はひとり、校庭に立っていた。
校舎の上の階から、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。校庭では野球部、サッカー部、陸上部などが上手く棲み分けながら活動しているのが見えた。体育館ではバスケ部やバレー部が活動しているのだろう。
日が傾き始めたなかでも、学校は活気に満ちていた。
なにがしたいのか、自分でもよくわからない。
したいことなど、なにもないような気がする。自由な選択肢を与えられてはじめて、自分の中になにもないことに気づく。
なにも考えずに、どこかへ飛び込んでみるべきなのかもしれない。
だが億劫さがどうしても勝り、動けなくなる。
このままじゃ駄目だ。わかっているのに。
ふと校庭の反対側、部室棟の近くにあるテニスコートに、見知った姿があった。
ジャージ姿の伊予森さんだった。
テニスウェア姿なのは上級生だろうか。楽しそうに話している。
ふと、目があった。
慌てて背を向ける。俺は逃げるように、いや、実際にその場から逃げ出した。
どんどん進んでいく周りの時間に付いていけず、自分だけが取り残される。
なぜだかどうしようもなく、惨めだった。
*
高校入学から、はやくも一ヶ月が経とうとしていた。
陸の孤島、健在。
どうだ、この鉄壁の防衛力は。と誇りたくなるほど、俺の席は難攻不落の島だった。
正直、学校に行くのが嫌でたまらない。毎朝うんざりして、登校中に心がくじけそうになりながら通っている。
こんなはずじゃ、なかったのに。
休み時間、席で寝たふりをしていると、教室の後ろの方で集まっている同類の雰囲気をただよわせるグループの会話が、耳に入ってくる。
「――来週のサーガの新作楽しみすぎるんだけど。やるでしょ?」
「うーん、どうしようか迷い中」
「おれはまだアイゼンやってるけどなー。あれだけ長く遊べるロボットもののオンゲーはないし、やっぱ面白れーよ」
リアルの知り合い同士でゲームとか。ゲームは独りでやるものだろ? はっ、これだからゲームをコミニュケーションツールだとか思ってる世代は。
……俺も入れてもらえないかな。
だが話しかける勇気がない。
「アイゼンはなぁ。廃人が多いのがなぁ。いやじゃない?」
「それはある。マジでランカーとかバケモンしかいねーし。廃人にならないとやってけねぇよ」
「でもそういうやつらって、学校とか仕事とか捨ててでしょ?」
「引くよなーそこまでやってると」
「あるある」
拳に力がこもる。
正直、腹が立った。そして同時に、ぐうの音も出ないほどに同感なのが、また自分を苛立たせていた。
その通りだ。
だからやめたんだ――
構わない。もう俺は、あの虚構の世界とは縁を切った。
「ねぇ、遠野くん」
いつの間にか、伊予森さんが机の前にいた。
俺は呆けたように見上げる。
伊予森さんは目を細め、口元をゆるめた。自然体のにこやかな表情
やはり天使だ。
席の位置が近いからか、妙に話しかけられている気がする。
まさか、俺に気があるのだろうか?
たとえ可能性がリアルにゼロだとしても、一瞬でもそう思ってしまうのは、男の性というやつだ。
「な、なんでしょう?」
「……なんで敬語なの?」
笑われた。恥ずかしさに頬が熱くなる。
なにを期待している。話しかけられただけだぞ。リア充はそんなことでいちいち勘違いしないのだ。……たぶん。
「遠野くんて、部活入ってないんだっけ?」
「入って、ない」
結局、俺はどの部活にも入っていなかった。
入りたい気持ちはたしかにあった。
教室まで先輩がやって来て、「中学のとき陸上部だった○○くん! いますかー!」なんて声を上げて、○○くんが少し恥ずかしそうに先輩に連行されていく。
そういう光景を横目にすると、どうしても気持ちがくじけてしまう。
だがどんなに羨望しようと、「中学のときネトゲ廃人だった遠野くん! いますかー!」なんて声をかけてくる先輩はいない。
誘ってくれさえすれば、俺だって。やる気はあるのに。
……いや、そういう考えが甘いのだろうか。
「そうなんだ。……あのね。ちょっと。お願いがあるんだけど」
伊予森さんは少し言い出しにくそうに指先を絡ませる。
まだなにかあるのか。
私の代わりに日誌職員室に持って行ってくれ、とか。そういったことなら喜んで引き受けようと思う。どうせ用事などなにもない。いいよ。でもその代わりに……わかるだろ? などと些細な妄想にトリップしていると、
伊予森さんは、さらりと言った。
「放課後、一緒に帰らない?」
*
激しい警報が鳴っている。
味方機の状況は? 目標は、敵の猟機はどこだ?
いや、敵などいない。
まだ明るい住宅地を、俺は自転車を引きながら昔のASIMO並のぎこちなさで歩いていた。
隣には、どこかうきうきとした様子の伊予森さんがいる。
なんだこれ。
いったい、どうなってる。
ゲームにのめり込むあまり、現実と妄想の区別がつかなくなったのか?
半ば本当に自分を疑ってみたが、どうやら現実のようだった。だがVR空間のほうがよほど現実味がある。
あまりに突然降ってきた異常な状況に、俺は気が気ではなかった。
こ、告白されるのだろうか? なんだ、俺って実はかなりかっこよかったのか? 自分では気づかなかった。いや、だが確かに風呂上がりだとイケメンに見えることがあったし。そうか、これが隠れた逸材というやつなのか……。
「部活はじまるとみんな大変そうだよねー。特に運動部とか」
「た、たしかに……。伊予森さんは……、テニス、だっけ?」
「ううん。結局どこも入ってない。バイトとか、忙しいし」
「ば、バイト?」
この清純そうでお嬢様っぽい雰囲気すら漂わす伊予森さんが、バイト?
イメージのちがいにショックを受ける自分がいたが、その程度でショックを受けているようだから、自分は駄目なような気もした。
「クラスの人には、言わないでね?」
「お……はい」
「だから、どうして敬語になるの?」
伊予森さんが笑ってくれる。それは素直に嬉しかった。
同時に実感する。
まだ、ただのクラスメイト。
他のことはなにも知らない。中学はちがうし、共通の知り合いもいない。なにを話せば良いのか。
「ねぇ、せっかくだから、どっか寄ってかない?」
寄る!? そ、それまさか、い、いかがわしいところとか!?
「どど、どこに?」
「カフェとかあったでしょ。駅前に新しくできたとこ」
そういうことか。
当たり前だ。俺の頭はおかしいにちがいない。
「どうかした?」
「いいいや、べつに……」
駅に近づくと、たしかに新しいカフェチェーンがオープンしていた。いつか彼女が出来たらこういうところ行きたいなー、と思っていたところだ。
…………!!!
動悸が速まりながら、オサレな雰囲気を漂わせる店内に足を踏み入れる。
伊予森さんの後をついていき、なにがなんだかわからないままアイスコーヒーを注文する。
同じくらいの中高生や社会人で、店内は盛況だった。二階まで行って、ようやく窓際の席に空きを見つけた。伊予森さんと向かい合って座る。
距離が近い。
俺は挙動不審になってしまう。
店員も客も、自分たちを見ているような気がした。
「時間、大丈夫?」
伊予森さんの声で我に返る。
しっかりしろ。
「ぜんぜん、だいじょうぶ」
「ほんとはね、ここに来たかったんだけど、みんな部活で予定合わなくて。それで、遠野くんに付いてきてもらったんだ」
「ひまそう、だったから?」
「え? えっと、そのぅ」
伊予森さんは、あはは、と少し困ったような笑みを浮かべ、そのあと、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「うん……」
しゅんとしている伊予森さんは、なんというか、非常にいじめたくなる可愛らしさに満ちていた。反則だ。
「おこった……?」
「いや、べつに、まったく」
「よかった」
帰宅部最強説、浮上。
部活に入らなかった自分の積極性のなさを、はじめて誇らしく感じた。
「人に見られたら、付き合ってるって誤解されちゃうかもね」
むせかえった。
コーヒーが気管に入った。涙目になりながら咳き込む。
「だ、大丈夫?」
まるでマンガのように動揺してしまった。
しかし、さすがに。この言動は狙ってやっているのだろうか? やはり誘っている?
落ち着け。冷静になれ。
これが普通の、他愛のない会話というやつだ。
俺がしていた会話と言えば――
「敵機2。遠スナと近ガト。指示請う」
『8時後退。6セカンドで路地。ソード再突』
「ケー」
どこの軍隊だ。
あんなものは会話とは呼ばない。伝達だ。
「遠野くんの名前って、たて、って読むんだよね? めずらしいよね」
「ああ……。そう、ね。でも、あんまり名前で呼ばれない」
「そうなんだ?」
名前ネタは、これまで幾度となく言われてきた。高校生ともなると辟易していた。だから自分の名前があまり好きではない。
だが不思議と伊予森さんに呼ばれると、嫌な気はしなかった。
むしろ、嬉しい。
つい口元がにやけてしまうのを、俺はがんばって引き締めた。
「そういえば、化学担当の先生さ、ちょっとヘンじゃない?」
「あー。わかる、わかる。っていうか、ミスタービーンに似てる」
「そうそう! って、それどういう人だっけ?」
「え? ああ、ほら、だからこういう……」
ぎこちなくも、会話が続いていた。
いままで、どんなゲームをしていても感じたことのない幸福感が胸に満ちていく。
ああ、これがリア充というやつか。
これでいい。
ここにはゲームの話題は存在しない。
対人がどうとか、スキルがどうとか、レアなアイテムがどうとか、対戦成績がどうとか。どうして、自分は今までそんなことに拘泥していたのだろうか。
べつにゲームそのものが悪いわけじゃない。
ただ、俺にとっては、あれは麻薬だった。やるべきじゃなかったんだ。
だから俺もう、あの仮想の世界を捨てた。
もっと早くにこうすべきだった。いや、過去はもういい。俺には新しい未来が待っている。
さらばゲーム。こんにちは、リアルな人生。
伊予森さんはしきりに笑ったあと、うつむき、テーブルの上で指先をからませた。
「ところで、さ。遠野くんって……」
誘ってきたときと同じだ。
どうやら伊予森さんは、遠慮するとき、こういう仕草をするらしい。これをあざといというのだろうか? いやだとしても。そこがいい。
気にせずになんでも言ってくれればいい。実はお金ないから奢ってとか? いくらでも出そう。実は他にも行きたいお店があって? どこまでも付き合おう。
「うん、なに?」
「『アイゼン・イェーガー』ってゲーム、知ってる?」
揺れるコーヒーの水面を、俺は見つめていた。
店内のざわつきは遠のき、やがてなにも聞こえなくなる。言葉を脳が処理しきれずに、知覚を停止させてしまったようだった。
ゆっくり。
ゆっくりと、顔を上げた。
伊予森さんは薄く微笑んだまま、首をかしげている。
頭に浮かんだのは、アカウントの消去画面。
俺はもうやめた。
――そのはずだった。




