#17
なにかの夢を見ていた。
うっすらと目を開ける。
窓から差し込むまぶしさに顔をそむけながらも、いつもの習性で目覚まし時計の表示を見てしまう。
いますぐ起床しないと遅刻する時間が、そこに表示されていた。
うんざりしながらも、布団を跳ね除けて身体を起こす。そのときにはすでに夢の断片は完全に消え去っていた。
ふと、机の上に置かれたVHMDが目に入った。
奇妙な感覚が、ゆっくりと思考をクリアにさせていく。
あの戦いから、一週間が経っていた。
*
「盾、あんた中間テストはどうだったの?」
食卓での母親の言葉に、俺は朝からげんなりした。
「……まだ、全部返ってきてないから」
俺の曖昧な言葉に、母親がすっと目を細める。
「あのね、わかってると思うけど、中学のときみたいなことは許されないからね。篤士だって、部活と両立しながらちゃ~んとやってるのよ。あんただけなんだからね、進んでテストの結果を見せないのは」
俺の成績はあまり芳しくない。
中学のときの付け焼刃のような勉強が祟ったのか、高校に入ってからの小テストでも微妙な点数を取り続けていた。
先週行われた最初の中間テストも、散々な手応えだったのだ。
「あんた、もしかしてまたゲームはじめたの?」
その言葉に、ぴくりと身体が反応する。
母は図星を見抜いたのか、声高らかに言う。
「だいたい高校生になったんだから、もうゲームなんて――」
「べつにいいだろ。好きでやってるんだから」
俺は言った。
なぜかそこだけは、反論せずにはいられなかった。
しまった。火に油を注いでしまった、と内心びびっていると、
「へぇ。ふーん。なるほどねぇ」
なぜか母は妙に嬉しそうな表情で、俺を見ていた。
「……なに」
「べっつにぃ」
くそっ。なんなんだ。
分けも分からず腹立たしくなり、俺は急いで仕度して家を出た。
自転車を引っぱって家を出る。
塀の脇に、ランドセルを背負ったクリスが立っていた。
驚きのあまりのけぞり、俺は自転車ごと倒れそうになった。
「だいじょうぶですか?」
「な、ど、どうしたの!? 学校は?」
「? これからですけど……」
携帯で時間を見る。8時ちょっと前。たしかにまだ小学校の始業時間までは余裕がある。
「わざわざ、寄ったの?」
「シルトさんに、会おうとおもって……」
はっきりと女性の身体つきをしているクリスのランドセル姿は、相変わらず奇妙な倒錯感があった。
「あの、ありがとうございました。ゲームでのこと……」
なんのことか、すぐにわからなかった。
遅れて思い至る。黒の竜の一件だ。
「い、いいよ、そんなこと。俺が自分で勝手にやったことだし。べつにそんな」
わざわざそれを言いにきたのだろうか。
不思議に思っていると、クリスは小声でつぶやく。
「あと……その、付き合ってるってこと」
「!?」
ついにきたのか。
言わなければいけない。俺たち、もう別れよう? いやちがう、なにを言ってるんだ俺は。そもそもが間違ってる。それを正さなければならない。
しかし、どう言えばいい? クリスを傷つけないためには。
俺が完全に混乱していると、クリスはうつむき、口をかたく引き結んでいた。
どうしたのだろう。
肩が震えていた。
具合でも悪いのかと不安に思っていると、突然、その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
俺は凍りつく。
「うそついて、ごめん、なさぃ……」
クリスが泣き出した。
しかも声を上げて。
世間話をしていた近所のおばさんたちが、何事かと鋭い視線を俺に向けてくる。
どっと嫌な汗が浮き出る。
「おお、く、クリス! 落ち着いて、その、大丈夫だから!」
なにが大丈夫なのかもよくわからないが、そう言うしかない。
必死になだめていると、クリスはしゃくり上げながら、なにかを言おうとしていた。
「シルトさんっ、きらわれっ、おもっ」
俺はクリスの言葉を解読すべく、全力で耳を傾ける。
「ひっぐ、こわくっ、シルトさんにっ、ことっ」
「うん、うん」
「シルト……さんに、ことわられるっ、のが……だからっ、ゆってっ」
しだいに俺は、あっけにとられはじめていた。
「ごめんっ、なさい……」
クリスは目をこすりながら、なんとか最後まで言い切った。
なにを言っているか、おぼろげながらも俺は理解した。
あの告白の、俺の返答を聞くのがこわかった。
だから付き合ってると、あのときうそをついた。
おそらくだが、そういうことを言おうとしているらしかった。
「あの……クリス、気にしなくていいよ。ほんとに」
クリスが落ち着くのを待って、俺はゆっくりと言った。
「俺もまったく気にしてないし、もちろんクリスのこと、嫌ってもいないから。こっちこそ不安にさせて、ごめん」
俺があのときクリスの誘いを無下に断ったから、それで不安にさせたのかもしれない。
クリスは涙をふき、ようやく顔を上げた。
「じゃあ、これからも、いっしょにあそんでくれますか……?」
「もちろん」
俺が言うと、クリスはぱっと表情を明るくし、ふにゃっと笑った。
ほっとする。
泣き止んでくれたし、なによりこれで、誤解が解けた。
もう周りからあらぬ疑いをかけられることもない。
「よかった……。じゃあ、まだチャンスはありますよね」
「うんうん…………うん?」
クリスは胸に手を当て、頬を染めている。
なんだろう。さきほど大きな問題が解決したはずなのに、最初に戻ったように感じるのは、気のせいだろうか。
とりあえずクリスを途中まで送って、俺は学校へと急いだ。
五限後の休み時間、俺は机で数学のプリントとにらみ合っていた。
うちの高校では、毎日課題として出されるこれを、帰りまでに解いて提出しなければいけないことになっていた。
「なんだ、これ……」
授業でやった範囲の応用問題のはずだが、解き方がわからない。
早くも付いていけないものが出始めている。
しかし、英語と数学はしっかり理解しておかないとまずいと感じていた。
「見せて」
上から声がした。
伊予森さんが、隣に立っていた。
俺の手からペンを取り、解きかけの式をさらっと眺めると、そこに続きを書き足していく。
「ほら、このグラフとX軸に共有点があるってことは、Y座標は0になるから……」
伊予森さんが垂れた髪をかきあげて、ペンを走らせる。
さらさらとした長い髪からただよう見知らぬ香りが、鼻腔をくすぐった。
脈拍が速くなっていく。
「これで終わり。むずかしくないでしょ?」
「あ、ありがとう……」
「いーえ」
伊予森さんにとってはたいしたことないらしい。
中間試験が終わり、俺は精根尽き果てていた。だがこの様子だと、伊予森さんはたぶん成績も良いのだろう。
ふと、以前にクリスにも聞いたことを思い出した。
「そういえばさ、伊予森さんは、どうしてアイゼン・イェーガーをやってたの?」
「みんながわたしの命令に従うのが、楽しいからかな」
「……そ、そうなんだ」
伊予森さんの性格が、だんだんとわかってきた気がする。
「それより、大変なことになってるよ」
そう言いながら、伊予森さんは携帯で、あるウェブページを見せてくれた。
「これって……」
アイゼン・イェーガーのコミュニティサイトだった。
そこのトップ記事に、一枚の画像が張ってある。
装甲がすべて脱落した片腕の猟機が、漆黒の機体にダガーを突き刺している。
あの戦闘の様子だ。
「だれかがあの場にいて、わたしたちの戦いを見ていた」
その記事には、
《黒の竜》を単機で撃破した英雄
などと大仰な見出しがついていた。
記事に書き込まれたコメントは、すでに数十万単位になっている。
「いまゲームのなかでは、遠野くんの話題でもちきりだよ」
「どうしよう……」
アバターが撮られていないのが救いだ。
機体もこの状態なら特定されることはないだろう。
「でも、だれがこれを?」
言って、俺はあの白い服の少女を思い出した。
いや、ちがう。彼女ではない。
根拠はないが、そんな気がした。
「わからない。あの場に他の猟機がいるなんて、わたしは探知していなかった。……遠野くんこそ、黒の竜のプレイヤーと、話したんだよね?」
「話した、っていうほどじゃないんだけど……」
――礼を言う。
最後のあの言葉が、頭に残っていた。
撃破されて感謝する、というのはいったいどういう意味だろうか。
それに俺のことを知っているような口ぶりだった。
「俺、あいつの正体を知りたい」
口から出たのは、偽りのない本音だった。
伊予森さんが、楽しそうに口元をゆるめた。
「奇遇だね。わたしも」
つづけて、すっと人差し指を立てた。
「ひとつだけ条件がある。遠野くん、きみの正体は秘密だからね」
その言葉の意図を、俺はすぐに理解した。
俺のやっていることは、あまり褒められたものではない。
言ってみれば、弱い振りをしていることになる。わざとではないが、それを不快に思うプレイヤーもいるだろう。
「シルトが元トップランカーだということは、絶対に秘密。もしそれがバレたら、わたしたちの活動は終わり」
正体を隠しながら、戦っていかなければならない。
それがどんな苦労を引き起こすか、そのときの俺にはまだ想像もつかなかった。
「やるよ」
このゲームの中でなにが起こっているのか、俺も知りたい。
それに憎むのではなく、また純粋にゲームを楽しみたいという気持ちも、俺のなかに生まれはじめていた。
「あの、ありがとう、伊予森さん」
「なにが?」
「伊予森さんのおかげで、なんかすっきりしたっていうか……。伊予森さんが一緒だったから、あいつも倒せたと思うし」
俺の言葉に、伊予森さんは目をまたたかせた。
「いいってば、そんなの……」
「あ、うん、ごめん」
真面目か俺は。
なんだか急に気恥ずかしくなってしまう。
リア充を名乗るには、俺はまだほど遠い。
けれど、伊予森さんやクリスと知り合えたのも、このゲームのおかげなのだ。
「ねぇ、遠野くんて、ほんとにクリスちゃんのこと……」
「クリス?」
伊予森さんは、さっと顔をそらした。
「な、なんでもない」
「え? あ、あの、いまのは」
「なんでもないってば!」
その声に周りの視線が集まり、俺たちはそそくさとその場を離れた。
*
「282点……?」
俺の口にした点数に、伊予森さんが目を丸くしていた。
帰り道、並んで自転車を引いて歩いていた俺は、その反応に逆に驚く。
「う、うん」
中間試験の結果だ。主要五科目での総合点。当然、500満点となる。
急に伊予森さんが立ち止まったため、前方がおろそかになっていた。
自転車がサラリーマン風の男性とぶつかってしまう。
「す、すいません!」
「いいえ」
やさしそうな人だった。一安心する。
ひたすら頭を下げたところで、伊予森さんが追いついてくる。
「勉強しなかったの?」
「いや、したは、したんだけど……」
それがこの結果なのだ。
「で、でもさ、成績よりも交友関係の方が重要っていうか、ほら、リア充って成績よくなくても許されるイメージがあるっていうか……」
「なに言ってるの?」
「……いえ」
心底頭を疑われるような気配がしたので、俺は口をつぐんだ。
「入学のときの模試の順位は?」
「えっと、209、だったかな」
ちなみに一学年の生徒数は、240人くらいである。
伊予森さんが、珍妙な動物でも見るような視線を向けてくる。
「遠野くんて、意外と……」
「……なにか」
「あ、ううん、べつに! それで、大丈夫なの? 親とかなにも言われない?」
「言われる……。うち、成績についてはうるさいから」
まずいという自覚はあった。
親が、というより母親が厳しい。
しかも優れた比較対象が家庭内に二人もいるのが厄介だった。詩歩はもちろん、篤士も中学のときの俺よりずっと成績がいい。くそっ、あいつめ、スポーツに打ち込むなら勉強ぐらいサボれと言いたくなる。
「それなのに、その点数なんだ」
「正直、数学はついていけてないかも。今日のテストの答え合わせでも、微妙に理解できてないし……」
伊予森さんはしばらく唖然としていた。
だがやがて、
「遠野くん、しばらくゲーム禁止」
「え!?」
その発言に俺はつい声を上げてしまう。
ついこないだ、俺をアイゼン・イェーガーに引き戻したのは当の伊予森さんだと思うのだが、という反論を口には出せず視線に込めていると、
「わたしのせいだって言うの?」
「い、いや。もちろんそんなことは、ありませんが……」
実際、中間テストに限って言えば、それとこれとはあまり関係がない。
だが過去の不出来を考えると、そろそろ本当に勉強にも力を入れなければまずい気がした。
「仕方ないなぁ」
伊予森さんは、ふとそんなことを言った。
「じゃあ、これからうちでテストの復習でもしていく?」
聞きなれない日本語に、俺の思考が停止する。
ゆっくりと、隣の伊予森さんの顔を見た。
「えっと……いいの?」
「仕方ないでしょ。わたしのせいなんだから」
「う、うん。ありがとう」
「期末試験では、目標二十位以内ね」
「えぇ!? それはちょっと……」
絶対に無理だという確信があった。いや――
弱音を吐くのは、もうすこしやってみてからでも、いいのかもしれない。
同じだ。
戦う前から、負けるつもりでいてはなにもできない。
リア充にだって、いつかはなれるかもしれないのだから。
「遠野くん、はやく」
先を行く伊予森さんに追いつくために、俺はまた歩き出した。
あとがき
あとがき、と言って本当にあとから付け加えて書くというのはどうかと思いましたが、ちょっとした捕捉までに。
アイゼン・イェーガーは、まずは第1話~第3話で一段落(EP01)となっています。
次はふたつほど短編(EP02、EP03)が続きますが、EP04以降、また同じように数話にわたってメインストーリーを描く本編に戻る予定です。
今後もそういったかたちで(時系列的にはひとつですが)、
話を進めていけたらなと思っています。




