#11
帰宅途中、わいわいと騒ぐ大きなスポーツバックを背負った男子中学生の集団のなかに、篤士の姿を見つけた。
一緒にいるのは、同じ中学のサッカー部の面子だろう。
近づいていくと、篤士がこちらに気づいた。
「あ、兄貴」
ちわーっす、と他の中学生たちが挨拶してくる。
「ねえねえ、聞いてよ兄貴。吉田がさっきさ、散歩中の犬にびびって転んで、電柱に頭ぶつけたんだよ!」
「ちょ、おまえなに話してんだよ! 頭は打ってねーし!」
「うそつけー目まわしてただろ」
「マジですごかったんっすよ! 『ひぃ』とか言って横に飛んでガツン! って。あ~ムービーとっときゃよかったぁ。どんだけびびってんだよ」
「おいやめろってば!」
遠慮なく互いをどつき合い、笑っている。
俺はそれを、まぶしげに見ていた。
「楽しそうだな」
「ん? まーね。仲間だから」
仲間、か。
うらやましいが、それよりも弟が人に恵まれていることに安堵した。
俺は駄目かもしれないが、せめて篤士と詩歩には、幸福な人生を送ってほしいと思う。それは嘘偽りのない本心だった。
「兄貴もさ、なんか部活とかやればいいのに」
「俺が?」
「兄貴って運動とかはいまいちかもしんないけど、ほら、ときどき鋭いこと言ったりするし、あと……あと……なんだろ……? あ、ほら、目がいいじゃん!」
長所を言いにくい兄で申し訳ない。
とはいえ、目がいいというのは、篤士の観察眼も的外れではないようだった。
なんだろう。弓道とかそういうのをやったら活かせるのだろうか?
「……考えとくよ」
コンビニに寄っていくという篤士たちと別れ、俺はひとり帰路についた。
家に帰ると、詩歩がいつものようにリビングで勉強していた。
小さい頃から、ここが詩歩の一番の勉強場所だった。
部屋でやっていることもあるが、こうしてリビングで問題集を広げていることの方が多い。本人いわく、その方が部屋でこもってやるより捗るからということらしい。
いつもなら、なにも口出ししない。
だがその日は、なんとなく声をかけていた。
「あのさ、なんでそんなに勉強するんだ?」
問題に集中していた詩歩は、しばらくしてから顔を上げた。
「一位になるのが楽しいからです」
「身もふたもないな……」
秀才の我が妹は、なにごともないように言ってのけた。
それは、それだけできたら楽しいだろうなと思う。
とはいえ、俺は知っている。
小学生の頃からこつこつ毎日勉強してきたからこそ、いまの詩歩がある。才能とかそういうことではない。努力した。ただ、それだけのことだ。
「それと、もしかしたらこの先、家族を養っていかないといけないかもしれないですから……」
「おまえ、そんなことまで……」
中学二年生にしてそこまで考えているなんて。
我が妹ながら誇らしい。
両親も感無量だろう。
「将来、ニートになるかもしれない人がいますので」
「……それって、いや、いい」
その先は聞きたくなかった。
静かな部屋。
ベッドと学習机。ゲームの関連書籍が詰まった本棚。
そういえば、ここに客人を招いたのは数年ぶりのことだったと、いまになって気づいた。
その二人も、もうここに来ることはないだろう。
なにも変わってはいない。
最初からこうだっただけだ。
篤士に言われたことを、本気で考えてみようと思う。
部活なら今からでも入れる。
かなり気まずいが、ここで頑張らなければ、この先は開けない。
今度こそ、逃げ出さずに、やりたいことを見つけなければいけない。
なんとしても。
次の日の放課後、例の公園でクリスが待っていた。
最初の日以来、クリスが校門前で待つようになっていたので、人目をさけるためここを集合場所にしようと俺が提案したのだった。
来るなとは言えなかったがゆえの急場しのぎだった。
だがそれも、今日で。
ベンチに座っていたクリスは、俺を見つけ顔をほころばせて立ち上がった。
「シルトさん! 今日、このあと一緒に新しいフィールドに来てくれませんか? ケイたちもみんなも一緒です。みんなシルトさんに教えてほしいことが――」
「ごめん。クリス」
クリスは目をまたたかせる。なにを言われたのかわからないような無垢な表情が胸を締め付ける。
「俺、忙しくて」
最低だ。
小学生相手に嘘をついている。
「あ、あの……」
「友達同士で、楽しくやってきなよ」
感情のこもっていない俺の言葉を、クリスはどのように受けとめたのだろうか。
「そ、そう、ですよね。高校生はたいへんですよね。ごめんなさい……」
「いや、気にしないで」
うつむくクリスに、俺は笑みを向けた。
こんな状況で笑顔を作れる自分が、他人のようだった。
押し寄せる罪悪感を、胸の中で握りつぶした。
これでいいんだ。
そう俺は思い込んでいた。
翌日、伊予森さんは話しかけてこなかった。
いつものように、自然とクラスメイトたちの中心にいる。
明るい伊予森さんの声は、俺の耳を通り過ぎていく。
結局その日、一度も伊予森さんと話すことはなかった。
その翌日も。
さらに次の日も。
こうして、鉄壁の防衛力を誇る俺の孤島が復活したのだった。
*
その日は一日中雨だった。
俺は自転車を家に置いて電車で登校した。帰りも同様に、駅からの道のりを傘を差しながら歩いていた。
ぽっかりと、胸に穴が空いてしまったような気分が続いている。
いや、ちがう。もとに戻っただけだ。
これが俺の現実。
そこから、俺はスタートしなければいけない。
懐が震えた。
電話。取り出した携帯、その画面に表示された名前に、心臓が跳ねた。
- 伊予森 楓 -
出るべきか。
ごちゃごちゃとした無数の言葉が、頭のなかをかき乱す。
なけなしの勇気を振り絞った。
画面に触れる。
「もしもし……」
無言。
かすかな息遣いだけが聞こえた。
「伊予森さん。あの、俺……」
なにを言うべきか考えていなかった俺は、言葉に窮した。
謝る?
なにを?
俺は自分の意思で、もうゲームをやらないと決めた。それだけのことだ。
『遠野くんに、言うべきか、迷ったんだけど』
伊予森さんは、慎重にそう前置いた。なにか様子が変だ。
「どうしたの?」
『クリスちゃんが……』
そのことを聞いた俺は、家まで走った。
帰るなりばたばたと部屋に上がり、すぐにVHMDを装着。
ログインした俺は、クリスのドックへと向かった。
デコレーションされた機体は、無残な状況だった。
左腕がなかった。両脚がなかった。頭部が潰され、胸部が溶解し、無傷で残っているパーツはなにひとつなかった。
大破した自分の猟機を、クリスが見上げていた。
感情が見て取れないその横顔。
かける言葉が、見つからなかった。
「せっかく、きれいに作ったのに」
「……プレイヤーに、やられたのか」
こくり、とクリスがうなずく。
「チームのみんなも、おんなじ風に」
全員やられたのだ。
ケイも、リエンも、マグナスも。
あのとき、はじめての対人戦に勝利して手放しで喜んでいた彼らは、いまどんな気持ちでいるだろうか。
「なにもできませんでした。やっぱり、つよい人は、すごいですね」
俺が一緒に行っていれば。
なにかできたかもしれない。
「でも、こういうゲームですもんね! 気にしないでください。わたしも簡単にやられちゃわないように、もっと特訓します」
そう言って、おそらくクリスは笑おうとしたのだろう。
だが残酷にも、VHMDはクリスの感情を、現実の反応を正確に拾い、アバターがそれを再現してしまった。
涙が頬を伝う。
「あ、あれ……? やだ、ご、ごめんなさい。……その、シルトさんが来てくれるって、思って、なくて……びっくりして、だから」
「クリス」
こらえていたものが溢れてしまったように、クリスは声を詰まらせた。
その涙に含まれる感情が、決して言葉通りのものだけではないことを、こんな俺でもわかってしまった。
そして、いまの俺にはどうしようもないことも。
「あいつに襲われたんだよ」
かたわらの声に、振り向く。
長い髪。王立猟団の制服。
あのとき俺たちを救ってくれた凄腕オペレーターがそこにいた。
「い――」
伊予森さん、と言いかけて口を閉ざす。
「黒の竜」
その名前はまるで呪いの言葉のように、俺の胸に沈み込んだ。
「猟機のアイカメラのログを見た。やっぱり映像は荒くなってたけど、映っていたのは、あの黒い猟機」
一瞬、だっただろう。
クリスたちもなにがなんだかわからないうちに攻撃され、大破させられていた。
そのことが、まだわずかな救いのように思えた。
「なんとも、思わない?」
なにがだ。
これはゲーム。しょせん遊びだ。
べつにクリス本人の身体が傷ついたわけじゃない。猟機だって資金が貯まれば修理して綺麗に元通りになる。
その黒の竜と呼ばれているプレイヤーだって、公式に問題ないと認められているじゃないか。
仮になんらかの不正行為があったとして、それがなんだというのか。
そんなこと、どんなオンラインゲームでも多かれ少なかれ起きていることだ。めずらしいことじゃない。
俺のアバターの表情は、なにも変わらなかったにちがいない。
イヨは寂しそうに、目をそらした。
「……そう」
そう呟いたきり、イヨはその場から転移した。
俺はクリスが今日はもうログアウトすると言うまで、いつまでもその機体を見つめていた。
そのあと俺は、ソロのままフィールドに出た。
カルサード平原。
そこは、かつて俺がよく通っていた場所だった。あまりガイストが現れず、攻略場所としては重要度が低いため、あたりにプレイヤーの姿は見えなかった。
猟機を停止、機体を降りる。時刻を確認し、しばらく待った。
やがて地平線に、赤い日が落ちる。
巨大な空。
どこまでも続く乾いた大地。
無限に広がる世界に、俺は包まれていた。
これは現実じゃない。その虚構の空間に、かつての俺は魅かれた。
思い出していた。
このゲームをはじめたばかりの頃。
右も左も分からず飛び出したフィールドの怖さを。
なけなしの資金を貯めて買った未知の性能のパーツで、新しい機体を組み上げたときの興奮を。
対戦に負けて、それを大破させられたときの、悔しさを。
はじめて勝負に勝ったときの、嬉しさを。
これはゲームだ。
現実じゃない。
だがそれでも、傷ついた心は、本物だ。
拳に力がこもった。
俺はメニュー画面からログアウトを選択。視覚情報と音声の入力が消えるのを待って、VHMDを外した。
これは、きっとただの感傷。
いっときの気の迷いに当てられているだけ。なにかに気づいたわけでも、なにかを学んだわけでもない。
過去が変わるわけではない。
後悔が消えるわけではない。
それでも――
俺は机の横に置いてあった携帯を手に取り、慣れない手つきでメールを送った。
*
放課後、いつかと同じ屋上。
転落防止用の無骨な柵に覆われたこの場所は、まるで檻のようだった。よくある青春らしい爽やかな雰囲気もぶち壊しだ。だから、というわけではないだろうが、その日も屋上にほかの生徒の姿はなかった。
呼び出した俺は、一足先に来て待っていた。
やがて、伊予森さんが現れた。
その姿を目におさめた瞬間、ほっとした。
来てくれた。
無視されるかもしれない、と覚悟していた俺は、まずそのことに救われた。
だが伊予森さんの表情は、険しくくもっている。
「なに?」
俺は彼女に、一枚の紙を差し出した。
それはあのとき、伊予森さんに渡されたプリント。竜のエンブレムを持った、謎の黒い猟機の画像だった。
伊予森さんは眉をつり上げる。
「べつに、捨てていいから。わざわざそんなことでいちいち――」
「俺がやる」
伊予森さんが、ゆっくりと、俺を見る。
その視線から、今度は目をそらさなかった。
もう間違わない。
もう迷わない。
「俺がそいつを倒してやる」
言葉は熱を持っていた。
それはいまになってさえ、俺のなかで消えずに残っていた熱。
遠いあの日。
ゲームに呆れるほど夢中になっていた俺が、ここにいた。
伊予森さんは数秒の間、呆然としていた。
その薄い唇がやがて弧を描く。
不敵な表情。
最初のおしとやかなイメージとはちがったが、そうやって本当に楽しそうにしている伊予森さんもいいなと場違いながら感じていた。
伊予森さんが手を差し出す。
「歓迎する、遠野くん。いいえ――」
凶暴なほどに嬉しそうな笑みを浮かべながら。
「元トップランカー、最強の猟機乗り――シルト」
細くて綺麗なその手を、俺は遠慮がちに握り返した。
今度こそ、自分の意思で俺は戻る。
弾丸と砂塵が吹き荒れるあの戦場に。




