決戦の後、日は暮れて
こうして、イレーネの助けを借りて書類仕事を今日の分は何とか終わらせたガストンは、夕食を摂って湯浴みが終わる頃には、脳の限界が来てしまったらしい。
昨夜と違ってイレーネは落ち着いた様子でガストンを迎えたのだが、そんな彼女を見てもガストンはどうにもぼんやりした様子。
「今日は、お疲れ様……すまん、ほんとに、疲れた……」
と、挨拶もそこそこにガストンは昨夜と同じくベッドの壁際側に潜り込み、イレーネへと背中を向ける。
あんまりな態度と言えばそうだが、今日のガストンの仕事ぶりや様子を見ていたイレーネとしては、怒る気にはなれない。
「はい、お疲れ様でした、今日はもうお休みくださいまし」
「お、おう……」
落ち着いた声音でイレーネが挨拶を返せば、くぐもった声で返事があって。
それからものの数秒ほどで、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「もう寝付かれたのね……まあ、昨夜はろくに眠れなかったみたいだし、今日は頭を大分使ってもらったわけだし」
ベッドの側に立ち、向けられた背中を見つつイレーネは一人呟く。
何とも今日は、ガストンの意外な面ばかりを見ていたような気がする。
いや、そもそも彼のことを何も知らなかったのだが、改めて思い知らされた、と言ってもいいかも知れない。
「当たり前と言えば当たり前、よね。ほとんど話をしてこなかったのだから」
彼と婚約を結ぶことになってから半年、それぞれに忙しく、まともな会話はほとんど無かった。
結婚して、その夜に初めてきちんと話せて。
どうやら自分が随分と思い違いをしていたらしい、と気付かされた。
野蛮そのものな外観だというのに、不器用ながらこちらを気遣う心根。
彼は寝付けなかったようだが、イレーネはしっかりと眠ることが出来た。
「おかげで、書類仕事でへまをせずに済んだけれど」
如何にイレーネとて、寝不足の頭であんな書類捌きは出来ない。
今日の昼に格好を付けられたのは、まとまった睡眠が取れたからというのも要因の一つ。
そして、それをもたらしたのは、今目の前で丸くなっているガストンだ。
「……冬眠する熊って、こんな感じなのかしら」
ふと、そんな失礼なことが思い浮かんでしまう。
この場合、熊とガストン、どちらに対して失礼なのかはわからないが。
ともかく、目の前にあるのが、すっかり寝入ってしまって無防備なガストンの背中だ。
なんとなしにそれを見ていたイレーネは、ふと気付く。
「……本当に、随分と無防備ね……?」
そう呟きながら、そっと足音を立てないようにしながらベッドへと近づく。
……反応が無い。
そっと、静かに揺らさないように、ベッドに腰を下ろす。
……反応が無い。
優秀な武人であり、気配には敏感であろうはずのガストンが、まるで反応しない。
そのことがおかしくて、吹き出しそうになった口元を手で押さえる。
つまりガストンは、ほとんど会って二日目と言って良いイレーネ相手に、ぶんどった形になっている敗戦国の王女相手に警戒を解いてしまっているのだ。
それも、完全に、と言えるレベルで。
「……わたくしが実は刺客で、なんてこれっぽっちも思ってない、ってことよね、これって」
もちろんそんなことは毛ほども考えていないし、命じられてもいない。
むしろ命じられたら必死に反対したことだろう。
そんなことをすれば、今度こそレーベンバルト王国は滅びるだろうから。
確かにガストンは、一騎当千と言って良い程の強さを誇る武人だ。
彼一人で戦局を変えたこともあると聞くし、彼がいなくなりでもすれば、シュタインフェルト王国の戦力には影響が出ることだろう。
ただしそれは、きっと致命的なものではない。
兵の数も質も十分で、彼がいなければ瓦解するような軍備ではないし、士気も高い。
おまけにガストンのあの人柄だ、もし彼が暗殺されでもすれば、全軍が弔い合戦とばかりに士気を上げることは想像に難くない。
そうなってしまえば、レーベンバルト王国にその勢いを受け止めることなど出来はしないだろう。
「まあ、王太子殿下はそこまで考えていないのだろうけど。単にわたくしが野蛮な成り上がり子爵の妻になることで悦に入っているだけ、という顔だったし」
思い出したくもない顔を思い出して、思わずため息を吐く。
考えてみれば、まず停戦交渉の会談からよろしくなかった。
そもそも会談の場には臨席することが許されず、ならばせめてとイレーネが用意した各種資料を王太子はほとんど取り合わず、ろくに読みもせず、交渉の席に着いたらしい。
当然交渉は難航、というかシュタインフェルト王国側の言い分にろくな反論が出来なかったようだ。
最悪なことに、そんな状況で何とかせねばと焦りながらイレーネの資料を使おうとして、逆に墓穴を掘ってしまったというのだから目も当てられない。
そこまでやらかした上にシュタインフェルト側が出してきた、イレーネを差し出せば少し譲歩してやろうという提案に飛びついて妹であるイレーネを差し出したのだから、恥知らずにも程がある。
これには普段イレーネと仕事をして彼女の貢献度を知っている貴族家はもちろんのこと、王太子寄りである貴族家すら引いていた、らしい。流石に顔には出していなかったようだが。
挙げ句、自分のせいでそうなったことなど見えなくなるほど高いところにある棚に置いて、イレーネ相手に下卑た顔でシュタインフェルト王国行きを告げたのだから、最早処置無しである。
自分の失態の尻拭いを妹に押しつけた上に、そのことに対してまるで責任を感じていない、むしろ自分のせいだとまるで理解していない様子を見せられて、貴族達はどう思っただろうか。
そして、今後も変わらぬ忠誠を捧げてくれるだろうか。
考えるまでも無いことだ、とイレーネはまた小さくため息を吐く。
ちなみに、王太子は周囲の空気に全く気付いていなかったらしい。
そんなことで今後の政権運営は大丈夫なのだろうかと思わなくもないが、最早考えるだけ無駄なのだろう、色々と。
「まさか、嫌がらせをして相手を蹴落とすことだけが政治だとか思ってないわよね……?」
ふと思い至った考えは、否定しようにも出来ない。
彼女の前に出てきた王太子は、常に嫌がらせをしてイレーネを蹴落とすことしか考えていなかったから。
もちろん王太子として様々な執務もこなしていたはずだが……彼本人がやっているかどうか、確認したことはない。
「……やめましょう、もう考えても仕方ないことだわ……国の人達が何とかするでしょう」
そうだといいな、という願望を口にして、イレーネはレーベンバルトについて、その王太子について考えるのはやめた。
考えるだけ時間の無駄で、勿体ないのだから。
「わたくしは、今この場所で、わたくしがすべきことをするだけだわ」
そう自分に言い聞かせるように呟けば、イレーネは布団に潜り込み、身体を横たえた。
そして、昨夜と同じくガストンからは距離を取り。
昨夜と逆に、扉の方では無く、ガストンの方を向いた。
その背中は、イレーネの視線に気付いた様子も無く静かに動いている。
すぅ、すぅ、と聞こえてくるガストンの寝息。
そういえば、随分と静かな寝息だ。
こういった体格、外見の人間であれば、いびきに歯ぎしりと騒々しく、寝相も悪いものかと思っていたが、どうやらそれは偏見だったらしい。
その逆で、ガストンの寝相は実に大人しく、こじんまりとして、静かだ。
きっと、彼が生きてきた人生が、環境が、彼をそうさせているのだろう。
そして。
こんなにこじんまりと寝ているのに、彼はそれを窮屈に感じていないようだ。
「人の邪魔にならないこと、邪魔にならないようにすること……それが当たり前で、望んでいること、なのかしら」
ガストンは、自分が人より大柄であることを理解している。
人より遙かに力があることを理解している。
その上で、人の中にあることを望んでいる。
であれば、彼はそう生きるしかないし、そう生きることを願っても居る、のかも知れない。
まだ、わからないけれども。
「……だめね、夜にあれこれと考えるのは」
そう呟いて、イレーネは寝返りを打ち、ガストンに背中を向けた。
……わかりたい、なんて思ってしまったのは、きっと夜の魔力のせいだ。
きっと、明日の朝日を浴びれば消えてなくなるはず。
そう思いながら、目をつぶる。
きっと、そうはならないだろうという予感を胸に抱きながら。




