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◆ 5話 ◆

◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 春日綾名は気丈な少女だった。

 頬が幾重に光っても笑顔を作って台所に向かった。


「こんなことじゃ塩味がきつくなっちゃいますね」


 足下にぽたぽた滴を落としながら翔太に背を向け玉ねぎをみじん切りにする。


 タタタタタ……

 タタタタタタタタ……


 ミンチと合わせてハンバーグを作る。


「ああ、もうわたしったら! 玉ねぎくらいで泣いちゃって」


 誰に言い訳するのか、綾名は呟く。

 そうして出来上がったハンバーグはどこか味気なかった。

 ハンバーグのたねも分量通りだし、焼き加減も最高に綺麗、濃い赤茶のお手製デミグラスソースもよく出来た代物だ。きっと美味しいんだろう。でも気持ちが美味しいと感じてくれない。それはハンバーグの所為じゃなくて、あの紙切れの所為だと思う。


 テーブルにはハンバーグの他にポタージュスープとポテトサラダ。見た目も綺麗に作られたお手製ばかり。ご飯は茶碗に軽く装われた。ふたりの中間地点には一輪挿しに赤い薔薇、勿論綾名が買ってきた。


「カテキョの契約はいつするんですか?」

「まだ決めてないんだ」

「わたしね、珊瑚ちゃんが羨ましいです。ちょっといちゃいます」


 翔太の家庭教師の話とか、豪華列車に乗った綾名のご両親の土産話とか、料理部で日々作られる奇想天外な謎料理のこととか、楽しそうな話題を選んでは話をする綾名。


「金曜日は「元気が出て、でも太らない夜食」を作ろうってことになって、で、みんな考えて出来上がったのはバナナジュースにタウリンを配合したフルーツ風栄養ドリンクで……」


 ちょっと待った、タウリン、ってどこから持って来た?


「最初は牡蠣のソテーとバナナのヨーグルト添えを作ろうとしたんですが、いつの間にか全て混ぜちゃえ、ってなっちゃって」

「凄いな、謎料理部」


 牡蠣はタウリンなどの栄養が豊富なことで知られるし、バナナも低カロリーで栄養満点な夜食にうってつけの果物だ。しかし、そのふたつを混ぜ合わせるという発想は仏さまでも気がつくまい。いや、気がついて欲しくない。南無。

ってか、実行するなよ。


「でしょ? そんな発想、イエスさまもマリアさまも絶対気がつきませんよ」


 先日までカトリック系銀嶺院の生徒だった綾名は首をかしいでにこにこ笑う。

 翔太はポタージュスープを口に運ぶ。スープをスプーンで飲む時ってどうしても前屈みになってしまうのだけど、綾名は真っ直ぐ背筋を伸ばしたまま優雅に飲む。育ちの違いってヤツを感じる瞬間、住む世界が違うんだって思い知る瞬間だ。


「あの、お味はいかがですか」


 不安げに翔太を覗き込む綾名、その顔は本当に味に自信がないんです、って感じで。

 宝くじさえ当たっていれば、綾名が心から笑顔だったら、きっともっと美味しく感じるんだと思う。けれどそれはこの料理には責任のないこと。


「うん、とっても美味しいよ」


 笑って答えた。


「ほんとですかっ! 嬉しいですっ!」


 万華鏡が大輪の花を咲かせる。

 するとその笑顔が魔法を解いたのか、彼女が作ったハンバーグは驚くほど美味しく変身した。驚いた顔をしてる僕を見て、万華鏡がまた回る。何度も違う笑顔を咲かせながら綾名もハンバーグを口いっぱいに頬張る。料理たちが急に輝きだして、ふたりの食卓には笑顔が溢れた。


 食事が終わると翔太が買ってきていたケーキをテーブルに並べる。

 紅茶を入れようとポットを火に掛ける。

 と、突然、綾名が背中に密着してきた。


「わたし、お兄さまと出会えて幸せでした」


 思わず振り返った僕を見上げる大きな瞳。その瞳に吸い寄せられながらも翔太の頭の中がめまぐるしく回り出す。彼女は今「幸せでした」と言った。


 過去形。

 宝くじに見捨てられたふたりに未来はない。


 今、目の前でゆっくりと瞼を閉じる綾名。それは今までみた綾名史上最高に幸せな微笑みを浮かべていて、僕は彼女を抱き寄せる。

 こんな時、一緒に逃げよう、と言えたらと思う。だけど出来なかった。彼女は自分の家族のためにも結婚しなくてはならないのだ。ならば今、全てを燃やし尽くせばいい。


「大好きだよ」


 僕の言葉に少し震えて肯く綾名、その瑞々しい唇に引きつけられる。

 いま、この最高の時を永遠に、ふたりの心に閉じ込めておこう……




 ピンポン




 呼び鈴が鳴る。

 誰だろう、日曜の夜7時半、心当たりはない。

 郵便屋さんだろうか。何とも間が悪い。




 トントントン




 今度はドアがノックされる。翔太は綾名の背中に回した手をほどくと玄関に向かった。


「はい?」


 扉を開けると立っていたのは見たことのない中年の男性、そしてその後ろには上品な印象の綺麗な淑女。男は翔太の背後に目をやる。


「お父さんっ!」


 しかし、彼が言葉を発する前に綾名の声がした。


「お母さんもっ!」

「綾名!」

「どうしてここへ」

「どうしてもこうしてもない! さあ帰るぞ!」

「待ってください!」

「君が青柳くんか」


 お父さんと呼ばれた男は僕の方に目をやると睨みつけるように。


「こういうことをされては困るんだ。娘にはもう会わないでくれ」

「……」

「さあ綾名、帰るぞ」

「帰りませんっ!」


 感情剥き出しに声を荒げた綾名の気迫に「お父さん」はたじろいだ。


「綾名!」

「イヤです。帰らないと言ったら帰りません!」

「…………」

「…………」

「あなた」


 少しの沈黙を破ったのは綾名のお母さんだった。


「外で待ってるわよ、綾名。準備をしてらっしゃい。ね、お父さん」

「……」

「青柳さん、チケットをお譲り戴いてありがとうございました」

「あ、いえ、こちらこそ……」


 お母さんは会釈をしながらドアを閉める。立ち尽くす僕と綾名は顔を見合わせた。


「ごめんなさい」


 か細い声を絞り出した綾名。僕は言葉を探すけれど、何も見つからない。彼女はポットの火を止めるとひとり分の紅茶を入れる。


「……」

「……続き」

「綾名」


 台所に立ったまま僕は彼女を抱き寄せた。綾名は背伸びをしながら目を閉じる。僕らは唇を重ね合うと貪るように求め合った。初めてのキス、だけどこれが最後のキス。


「んんっ!」

「あ、んん」


 好きだ、大好きだ。綾名の全てが、何もかもが大好きだ。

 思い返せばキスなんて、経験も、練習もしたことない。だからこれでいいのか分からないけど、気持ちが求めるままにふたりは口づけた。薄い玄関の板一枚向こうに綾名の両親が待っていても関係ない。


 やがて、ふたりはゆっくりと離れた。




 綾名がいなくなった部屋。

 食卓にはケーキがふたつに紅茶が1杯、そして一輪の真っ赤な薔薇。

 椅子に腰掛け、背もたれに寄りかかり、大きく息を吐き、そうして天井を見上げた。



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