8-2
窓から差し込む西日が、彼女の髪を茜色に照らす。
黒く、艶を取り戻して久しい髪のひと房が、開け放たれた窓から入る風に揺れた。
遠くに臨む草原が、キラキラと光を反射している。
それを直視したクルミは、眩しさに目を細めた。
色素の薄い彼女の瞳にとって、不規則な輝きを放つそこを見つめることは、わずかな不快感を伴うのだった。
そして、彼女は手にしたものを口元へ運び、そっと、目を閉じる。
深く息を吸い込んで感情を沈め、目を開けた。
温い風が頬を撫でるのを感じながら、ゆっくりと、口を開く。
コツコツ。
ドアを叩く音に、返事はない。
首を傾げたカイは、足音が近づいてくる気配すらないことを不審に思いつつ、もう一度、今度は少し強めにノックした。
それでも、やはり返事はない。
「クルミ・・・?」
呟いた彼は、少しの間考えてからドアノブを握った。
かちゃ、
「まさかとは思ったけど・・・」
ため息混じりにドアを開け、中へ入る。
呆れと怒りの入り混じる気持ちをひとまず飲みこんで、鍵をかけた。
カイの視線が、部屋の中へと投げられる。
「クルミ?
寝てるのか?」
前回とは打って変わって遠慮のない足取りで部屋にあがりこんだ彼は、少女の名を呼んだ。
けれど、それにも返事はない。
「・・・クルミ・・・?」
カーテンが閉められ、明かりのついていない部屋の中は薄暗い。
テレビもついていないし、エアコンもついていない。
それなのに肌寒いとすら感じるのは、そこに人の気配がないからだ。
「まったく・・・」
ぽつりと零れた呟きが、ゆっくりと落ちる。
カイは、大げさにため息をついた。
胸の中に渦巻き始めた、嫌な予感に気づかない振りをして。
「・・・仕方ないな」
買ってきたものをテーブルに置いた彼は、ソファに腰を下ろす。
そして、気が付いた。
耳に当てたレコーダーが、声を再生させる。
【・・・カイさん・・・】
ここにいない存在の声が、自分に語りかける。
それはとても、不思議な感覚だった。
どうして今、彼女のいない部屋で、彼女が自分に向けたメッセージを聞いているのか。
その理由を探し当てかけて、カイは、絶句する。
同時に、“彼女”が静かに話し始めた。
【ごめんなさい、わたし・・・】
「・・・なんだよ、それ・・・」
震える息を吐きだした彼は、静けさのあまり痛む耳に、目を閉じる。
役目を終えたレコーダーが、その手に握りしめられていた。
「しばらく、ここで生活してもらうよ」
統治官の笑顔に、クルミは俯いた。
頷きたくはない。
けれど、頷かなければ何が待っているのか分からない。
かすかに上下した彼女の頭を見て、統治官は目を細めた。
思いのほか、少女は素直だ。
「・・・カイ君に、会いたい?」
不意打ちで放たれたひと言に、クルミが顔を上げる。
すると彼は、そっと口角を上げた。
「それなら、なおのこと・・・しっかり協力して貰わないと、ね」
真っ白な壁が、目に眩しい。
クルミは、統治官から目を逸らした。
彼の目を見続けていると、気分が悪くなりそうなのだ。
部屋に入ってからというもの、彼女がひと言も言葉を発しないことを訝しんでいた彼は、「そういえば」と切り出した。
「少佐には、連絡しておいたよ。彼は君を放任しすぎているからねぇ・・・。
・・・ああ、そんな顔しないでくれるかな。
統治部としては、何か起きて上から叱られるのは避けたいんだよね」
上機嫌な統治官を睨みつけたクルミは、こぶしを握り締める。
すると彼は、黙ったまま何も言わない彼女に笑みを投げて続けた。
「だから・・・少佐が養育者としてふさわしいと判断出来るまで、君はここで保護される。
彼は離婚歴があるからね、書類審査を強行突破してくれたおかげで叩くところがたくさん、」
「やめて!
少佐にも、カイさんにも何もしないで!」
鋭い声で自分の言葉を遮ったクルミを、彼は笑って受け流す。
「そう言われてもねぇ・・・」
「お願い・・・」
唇を噛みしめて俯いた彼女の肩が、小刻みに震える。
「ずっとここにいればいいんなら、そうします。
だから、あの人達には何もしないって、約束して・・・」
蚊の鳴くような声で懇願するクルミを見て、統治官は意地悪く口角を上げた。
「良い子にしてるんだよ」と言い残して、統治官は部屋を出た。
ドアが閉まり、自動でロックがかかる音がする。
その音は、彼女に絶望をもたらした。
「・・・ふ、・・・ぇぇ・・・っ」
嗚咽と共に、涙が溢れ出る。
生活するための物以外、何もない真っ白な部屋の中心に、クルミは崩れ落ちた。
陽の光の差さない地下に、窓はない。
ドアは自動で施錠されて、外部と遮断されている。
人の気配も、外の音もしない。
本当に自分が独りになってしまったのだと、現実が迫ってくる。
デジタル時計が指す時間は、すでに6時を過ぎていた。
嗚咽を漏らしながらそれを見たクルミの脳裏に、カイとの約束が翻る。
“ちゃんと会いに行く”と言ってくれた彼は、あの個室を訪れたのだろうか・・・そんなことを思って、さらに涙が流れた。
「・・・カイ、さん」
これから先、あの温かな手が自分の頭を撫でることはおそらく、ない。
それが分かっている彼女は、声を上げて泣いた。
その痛みは、昨夜男達に乱暴された痛みとは比べ物にならない酷さだ。
胸の中を抉られるような、ひりひりと逃げ場のない痛みに、クルミは顔を歪める。
「カイさん、カイ、さ・・・っ」
しゃくりあげながら涙を流し続けた彼女は、声が枯れるまで泣き続けた。
床に座り込んだまま、壁の一点を見つめる。
涙を流し尽くし、彼女は息を吐いた。
頭がぼんやりと膜がかかったようにハッキリしないけれど、そのおかげで感情が暴れ出して錯乱することもない。
・・・聞いて、くれたかな・・・。
テーブルの上に置いてきたレコーダーの存在を思い出し、ちくりと胸の奥が痛む。
大切なことを、そこに置いてきたのだ。
打ち明けるのは勇気が必要だった。
けれど、統治官の口から意地悪く、カイの耳に入れられるのだけは我慢がならなかった。
・・・嫌われちゃうんだろうな。
・・・気持ち悪いよね、きっと。
助けて欲しい。
けれど、そんなことを願うのは間違っているような気がした。
痕の残らない腕が、ちくりと痛む。
クルミは息を吐いて、カイの顔を思い浮かべた。
「カイさん・・・」
膝を抱え、顔を埋める。
隙間から漏れた呟きは、掠れていた。
【・・・カイさん・・・】
ボリュームを上げ、耳を澄ます。
【ごめんなさい、わたし・・・】
感情のこもらない、静かな声。
カイは、自分の名を呼んで謝った声に、思わず目元を手で覆って俯いた。
【ちょっと、行かなくちゃいけない所があって・・・だから、ごめんなさい・・・。
・・・あのね、カイさん。
わたし、カイさんに言わなくちゃいけないこと、あるんだ】
【あの話・・・わたしが大昔に生まれた話・・・信じてくれて、ありがとう。
嬉しかった。ほんとに、嬉しかったよ。
でもね、あの話はちょっと、違うんだ・・・。
本当のこと、ずっと隠してた・・・ごめんね、ごめんなさい。
出来ればずっと、死ぬまでずっと誰にも言わないでおくつもりだった。
そうするのが、わたしに出来ることだと思ってた。
・・・でも、もしかしたら、わたしじゃない誰かから聞かされちゃうかも知れないから。
そんなのは嫌だから、全部、わたしの口から言っておこうって、思う・・・】
【わたしが氷の中に閉じ込められたのは、病気になったからじゃ、ないの・・・。
世界大戦が終わる頃、わたしくらいの年の子達が、戦地に送られるようになって。
同じクラスの子達が、少しずつ集められるようになった。
・・・わたしが最後まで残っていられたのは、たぶん、お父さん達が軍人だったから】
【お父さん達が何の研究をしてるのか、わたしは知らなかった。
でも、ある時2人がわたしに、真剣な顔をして全部教えてくれたの。
・・・日本を戦場にしないために、子どもを兵士にして戦わせてる、って。
それが、アルメリアとの約束なんだって、言ってた。
注射を打って、人じゃないものに変えて、戦争に参加してるんだ、って・・・】
【わたし、意味が分からなかった。
だって、出兵した同級生のお母さんだって、そんなこと知らないんだよ。
だからお父さん達の頭がおかしくなったのかって、真剣に心配した。
・・・でも、2人は泣きながら、わたしに言ったんだ・・・。
“お前にも、薬を打たなくちゃいけなくなった”って・・・】
【お父さん達は考えてた。
他の子どもに打ったのとは違う、効き目の弱い薬を作って、それを打つ・・・って。
わたしは子どもだったから、言われた通りにしか出来なかった。
自分で選べる状況じゃなかったし、頭が混乱して、わけが分からなくて。
それで、気づいたら、ベッドの上で魘されてた。
痛くて、熱くて、見た目がおかしくなった自分を鏡で見て、怖くて叫んだ。
・・・結局兵士にもなれなかったわたしは、処分されることになって・・・】
【ねえ、カイさん。
人じゃないものになるって、どういうことか分かる・・・?
大戦で、注射を打たれた子どもがどうなったのか、想像出来る・・・?
わたしの友達はみんな、ナラズモノになっちゃった。
わたしよりもずっと強い薬を打たれて、心まで人間じゃなくなって・・・】
【だから、ね・・・。
わたしみたいな化け物は、人と一緒に暮らしてちゃいけないんだと思う。
能力が暴走して、きっと、たくさんの人を傷つけるから。
・・・昨日の夜だって能力を暴走させて、わたし、あの男の人達を、】
プツ、という音がしたのと同時に、声が途切れる。
カイが、その手でスイッチを切ったのだ。
重くのしかかる空気を払いのけるように口を開いたのは、少佐だった。
「なるほどな」
吐き捨てるような口調で、届けられた書類に視線を走らせる。
「・・・ふざけた真似を」
睨みつけた場所に書かれているのは、ツヴァルグ統治官のサインだった。




