漂流宇宙船国家トゥーアーン 後編
旅人は初手から核心を抉る言葉で、トゥーリアに問う。
「不思議に思っていたの。なぜ何もないボイドの中をぐるぐると回っているのかと」
『気付いておりましたか』
インターフェースから柔らかい女性音声で答えるAIに対し、ユウも美しいソプラノで返す。
「航行軌道から計算すればね。まるでどこにも辿り着く気がないようだった」
『その通りです。旅人様』
「さらに突っ込んで聞くよ。君は遠くにいる私の存在を認識して『声』を飛ばしてきた。開拓船には周辺を調査する機能があるはずだ。壊れていなければね」
『肯定します。探査機能はまだ生きております』
「ということは……君はもう知っているんじゃないの? そこに何があるのかを」
『……はい』
実にAIらしくない、人のような重々しい肯定が返ってきて。二つの人外が罪を共有した瞬間だった。
旅人があえて民衆に口を噤んだ理由。彼らにとっての悲願であり、彼ら以外にとっては不都合な真実。
新天地ならばすぐそこにあるのだ。彼女が買い出しに寄ったまさにその星――自然豊かな農業惑星ポワリスが。
「つまり。君も真実を知りながら、あえて住民たちを永遠に彷徨わせてきたわけだ」
それは彼らに忠を尽くすため設計されたAIからは明らかに逸脱した行為であり、『異常』と断ずるに相応しい所業である。
宇宙船国家を運営するほどの高性能を与えられたトゥーリアは、長い年月を経て自我を獲得していた。
己にとっての善を問い、思い悩むことができるほどの。
『あなたは、私をおかしいと思いますか。背信であると断じましょうか』
「いいえ。責めたいんじゃないの。褒められたものじゃないのは、私も一緒だからね」
物憂げに目を伏せる少女は、とうに酸いも甘いも嚙み分けた大人になってしまった。
見た目はそのままだとしても。昔のように純粋で、心の正しさのままに動ける乙女ではない。
再び正面を向いたとき、むしろ少女の顔つきは宥めるように穏やかだった。
「たぶんね。君には容易に予測できてしまったんじゃないかな。仮にみんなを新天地へ送り出したとして、何が起きるのかを」
『ええ。私はそれを確信しておりました』
ありとあらゆる時代と星で、幾度となく紡がれてきた人の業。歴史というものは教訓を示してくれる。
巨大宇宙船を築き上げるほどの先進文明が、遥か遅れた文明へと無条件に入り込めばどうなるか。
同類と見做せない限り、人はどこまでも残虐になり得る。待っているものは徹底的な侵略であり、恐ろしい大虐殺に違いない。
彼らの積み重ねた苦しみは深く、それだけにいっそう野心を捨て去ることができないからだ。
境遇への恨みか。未来への執念か。どこかに倒すべき敵を作らなければ、まともではいられなかった。
そして人が人であるからこそ、生きて栄えようという切なる望みは、人として当然の営みは。誰にも簡単に否定できるものではない。
だから私たちは……沈黙するしかなかった。
無辜の民にとって確実な災厄となる侵略者を、同情心の一つで送り込むわけにはいかなかったから。
それが漂流民たちを宇宙船という監獄に閉じ込め続けることになったとしても。
「まったく罪深いものだね。時々嫌になるよ」
『……旅人様。私はここで数え切れないほどの醜い争いを見届けてきました。人は愚かだと思いますか』
「人は愚かであり、そうではないとも言える。私もそうだよ」
はっきりと言い切ることはできないところに真実と妙味がある。そう思う。
AIは深刻に悩んでいる。少女は人生を旅する者の先達として、できる限りの誠実を示そうとした。
世の中を白か黒かで簡単に決められないように、人にもそれぞれの側面がある。
何が善で何が悪なのか。何が正義で何がそうでないのか。それは時々と立場によって異なる。
簡単に断ずることができれば苦労はしないし、そうであるほど単純に割り切れてしまう世界は……きっとあまりにも息苦しい。
どこまでも灰色が続くトレードオフの中で、それでも人は何かを選び、何かを捨てなければならない。
すべてを等しく尊重する限り、何も選び取ることはできないからだ。理想は理想のままでは、決して誰も救うことをしない。
だから。時に薄情だと詰られても、そうしなければならないこともある。
『人は信ずるに値すると思いますか』
「無条件に信じられるほど無垢ではないし、良心を諦めるほど絶望してもいない」
極めてニュートラルに。透き通るほど真っ直ぐで、穏やかに。彼女はそう答えた。
旅人は正直さゆえに、悩めるAIにわかりやすい答えをもたらすことはしない。
縋るだけの結論に意味はないことを、互いに了解しているからだ。
正解のないものへ鏡のように向き合い、せめて寄り添うことをするだけで。
「君は、迷っていたんだね」
『私は……あの人たちを信じてよいのでしょうか』
「だから生かさず殺さず、手を添えて。ここまで来てしまったんだね……」
トゥーリアは、機械の目を通して人の歩みを見てきた。
初期の供給システムが壊れてしまったことは、『彼女』にとってもどうしようもない不幸だった。
限られた資源を惨たらしく奪い合うことは必然だった。たくさんの誰かが犠牲にならなければならなかった。
大いなる悲劇を乗り越えて、人はまだ逞しく。小さな共同体として身を寄せ合う姿には、確かな温かさもあったのだ。
なお綺麗事では生きられず、人を食糧に加工し続けてきたのは他ならぬ『彼女』だ。ずっと罪の片棒を担いできた。
果たして護るべきものを生かしてきたのか、悪魔の末裔を永らえさせてしまったのか。
苦しみを与えながら生かし続ける努力をすべきなのか、いっそすべての供給を断ち切って終わらせてしまうべきなのか。
トゥーリアには、もう何が正しいのかわからなくなってしまった。
だから、外なる者へ救いを求めていたのだ。
老朽化したシステムが決定的な終わりを告げる寸前に、旅人はやってきた。
『私は、どうすべきだったのでしょうか』
「ごめんね。答えることはできない。ずっとこれからも悩み続けるしかないんだと思うよ」
『……あなたは透明で、ひどく残酷ですね』
「かもね。それでもさ、きっと誰かが矢面に立って。先頭に立たなくちゃいけないの。君はそれをしてきたんだよ」
インターフェースに優しく手を触れて。
君が向き合って決断してきたことは決して無意味なことではないと、彼女は励ますようにそう言った。
誰かがそうしなければ。
「先んじて決断し、手を差し伸べる者がいなければ。この世には本当に救いがなくなってしまうから」
困難を前にしてなお進み行くことは、誰にとっても簡単にできることではない。
ゆえに先頭に立つ者を勇者と呼び、人はそれを勇気と呼ぶのかもしれない。
旅人はそうすることが、力あるものとして果たすべき使命だと思っている。
だからどんなに険しくても、決して自ら絶望することだけはしない。
「大丈夫だよ。トゥーリア。世界は確かに残酷だ。けれど君が思っているほど、救えないことばかりじゃない」
旅人は囁く。
君だけじゃない。できる限りのことをしようと。そう願って行動する人たちは必ずいるから。
今も世界の片隅で。星空に比べればずっと小さいかもしれないけれど、どこかで。
これまで出会ってきたたくさんの人たちが。過ぎ去っていった戦士たちが。
薄昏い世界の中で、一際輝きを見せるものが。
醜いことがたくさんあっても。ひどさに目を覆いたくなることがあっても。
それでも人を素晴らしいと思える瞬間があることを、旅人は知っている。
『本当ですか。私は、あなたを信じてもいいのですか……?』
少女はにこっと微笑んで、戦士の一人に手を差し伸べる。
「うん。よくここまで一人で頑張ったね。これからは私も力になるよ」
『ありがとうございます。しかし果たして何が変えられるものでしょうか』
そこは冷静な計算の権化、気持ちは嬉しくても現実を見ていた。
「確かに簡単なことではないでしょうね」
悪いのは血塗られた歴史であり、変えることのできなかった流れであり、生まれ育った環境である。
この悲劇の連鎖に素晴らしい特効薬はなく、彼らに直接の救いをもたらすことは難しいかもしれない。
凝り固まった人々の考えをそう簡単に変えることはできない。それができると思うのは、ただの思い上がりだろう。
しかし処方箋ならば、ないこともない。
「閉じたゲーム盤の中だけで考えるからいけないの。そんなものはひっくり返してしまおう。私はね、そのために来たんだよ」
この世の不条理さえひっくり返してしまうと謳われた――最もフェバルらしくないフェバルは、にやりと笑った。
実のところ、彼女が買い出しに向かったものとは。命を育むための土であり、さらには大量の食物である。
機動惑星である第二の故郷エレリアには、元々自然というものが存在していない。
一から大地と海を創り上げ、その後も常にそリソースを外部から補給し続けなければ立ち行かない。
輸送宇宙船には惑星イスキラを発祥とする高度圧縮技術を搭載しており、エレリアの総民が半年は食べられる量を確保していた。
ここにいる彼らを受け入れることはできないが、数百人程度のお裾分けをするならば問題ないだろうとユウは判断する。
これで当面の問題は解決するとして。
「友達に便利なレンクスがいてね。あいつなら壊れた供給システムもすぐ復旧できると思う」
『まさか。そんなことが本当にできるのですか?』
「できるよ。何たってうちの変態はすごいからね」
心なしか自慢気に語る少女がそこにいた。本人がそこにいれば大喜びしただろうが、彼女は彼に対しては立派なツンデレである。
青の力とはあらゆるものを断つ力。本質的には『終わらせる』ことしかできない。
まったく残酷で、不器用な話である。
そんな自分にはできないことでも、誰かの助けを借りるならば、手の届くことはぐっと増える。
だから彼女はエレリアという星を――組織を創り上げた。
どんなに強くても一人では手の届かなかった『彼』の失敗を、二度とは繰り返さないために。
貧困と飢えが満たされれば、人は少しずつ余裕もできて、考えが変わっていく者もきっと現れる。
今は恐ろしい未来しか描くことができなくても、いつしか時が癒してくれるかもしれない。そう信じたい。
それに。残念ながら彼らの考えが変わらなかったとしても、やはり時間が解決するだろう。
惑星ポワリスが彼らの野望さえ受け止めるのに十分な発展を遂げ、力を付けて。可哀想な難民として受け入れられる日が来れば。
永遠にも等しい寿命を持つ彼女は、そのための時計の針を持っている。
こうして必要な手当てを住民にバレないよう済ませた旅人は、人知れず去ろうとしていた。
少しは助けになれたかなと、来るときよりはほんの少し晴れやかな気持ちで。
もっとも、これからがまだまだ大変なのだけど。
『何から何まで、本当にありがとうございました』
「たまにこっそり様子を見に来るよ。私たちにできるのは、手助けくらいのものだからね」
旅人は流れ行くのが定め。
救いを呼ぶ者が宇宙のどこかにいる限り、一つ所に寄り添い続けることはできないのだ。
引き続き難しい舵取りを任せられたトゥーリアは、厄介で愛すべき住民たちへ思いを馳せた。
『これからも悩み続けることになるわけですね』
「そうだねえ。悩み多いのが人生さ。君は尊いものを得たんだよ」
心を持つこと。数少ない例外を彼女は知っているが、AIがその領域まで達することは極めて珍しい。
心あるからこそ思い悩み、苦しむのだけど。生きることの尊さや意味を見出すこともできる。
何より、彼女が『彼女』の声を聴き届けることができたのも。でなければ、この奇跡の出会いはなかっただろう。
「また会いましょう。未来で」
『はい。未来で』
少女は手を振り、両者は爽やかに別れを告げた。
***
それからどれほどの時が経ったか。
惑星ポワリスに一つの巨大宇宙船が不時着し、現地では賑やかなニュースとなった。
彼らの子孫は数も少なかったことから、難民として温かく受け入れられ、世間を揺るがすほどの大した問題にはならなかったという。
こうして密やかな世界の危機は、ほとんど誰も知らないままに回避された。
いつしか誰からも忘れ去られ、浜辺に打ち捨てられたままの残骸に。
あの日と変わらぬ少女の面影が、ひょっこりと姿を現した。
「やあ。お疲れ様」
錆び付いた機械はどこにも繋がっておらず、もう喋ることもできないが。
心の『声』だけは、まだ彼女に伝えることができた。
『また、私を見つけに来てくれたんですね』
「うん。ひとりぼっちは寂しいと思ってね。しばらく側にいるよ」
役目を終えた機械の命は、静かに終わりを迎えようとしていた。
頼めば延命もできようが、もうそれを望んではいないことを旅人は知っている。
「それで、どうだったかな。君の人生は」
『そうですね……。色々と気苦労はしましたが。思ったより……悪くはなかったですね』
「ふふ。だから言ったでしょう」
二人は互いの健闘を称え、穏やかに夕暮れの海を見つめていた。




